鉢伏城
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興福寺大乗院方衆徒の古市公胤によって、標高431メートル、比高40メートルの山に築城された[1]。 古市氏の居城である古市城から東、鹿野園から大和高原(東山内)の拠点である大平尾・邑地を結ぶ鉢伏峠の要衝に位置する。 城郭のあった山頂からは奈良盆地全域を見渡すことができた。
古市氏は、同じく興福寺一乗院の衆徒である筒井氏と大和国内の覇権をめぐって抗争を展開しており、その攻防戦における再起拠点として鉢伏城を築いたと考えられる。
本城に関する初見史料は、『祐維記』1520年(永正17年)5月7日条の 「筒井足軽少少令三出頭、超昇寺・山村・柴屋焼之、古市、山城二被座」 との記述であり、これが「古市山ノ城」の初出とされる。
この頃、古市氏の惣領であった古市澄胤はすでに戦死しており、その次男である公胤が一族を率いていた。 1511年(永正8年)には、公胤が十市氏・箸尾氏らを加えた筒井方の攻撃を受け、鹿野園六寸に築いた城を失陥している。 この段階では史料上に「山ノ城」の名が見えないため、1511〜1520年の間に鉢伏城が築城されたものと推定される[2][3]。
公胤は度重なる戦乱により古市本城の維持が困難となり、のちに大平尾を本拠として、鉢伏城を前線拠点(陣城)としていた。 このことから、鉢伏城は単なる詰城としてではなく、古市氏勢力の再編および国中進出を意図した戦略的城郭としての性格を有していたと考えられる。
