錦織淳
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島根県立出雲高等学校卒業後、宇宙物理学者になろうと東京大学理科一類へ入学するも自信喪失に陥り、翌年 同文科一類を受け直す[1]。3年の専門課程では法学部へ進学し、在学中に旧司法試験と国家公務員上級試験に合格。
1970年、東大法学部を卒業。司法修習24期、26歳で弁護士となり、日本弁護士連合会常務理事などを歴任。その間に水俣病などの公害訴訟などを手がけた。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に無所属で故郷の島根県全県区から出馬、途中で新党さきがけの公認を得て初当選した。1994年に村山内閣が成立すると、1年生議員ながら内閣総理大臣補佐に就任。
1996年に新党さきがけが分裂した際、錦織は参院初当選間もない水野誠一と共にさきがけに残留した。同年、小選挙区制導入後初の衆院選である第41回衆議院議員総選挙では島根2区から出馬したが、自由民主党で元首相の竹下登に敗れ、落選。1998年、民主党の誘いを受け、同党に入党する。2000年の第42回衆議院議員総選挙では再び島根2区から出馬。自民党は引退した竹下登元首相の弟・亘を擁立した。投票日直前に竹下登が急逝したため保守王国・島根では竹下に同情票が集まり、錦織はダブルスコアの大差で竹下に敗れ、再び落選。2001年の第19回参議院議員通常選挙では比例区から出馬したが、またも落選した。その後は弁護士として諫早湾の干拓反対訴訟に関与していた。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では選挙区を東京17区に移したものの、自民党の平沢勝栄に大敗。2005年の第44回衆議院議員総選挙でも落選したため、2006年2月に政界引退を表明した[2]。政界引退後は日本女子プロ将棋協会の設立に尽力し、同協会の顧問弁護士も務めた。
人物
著作
- 単著
- 『神々の終焉 : 大変革時代の扉を開く』(南雲堂, 1993年)国立国会図書館書誌ID:000002252923 ISBN 4-523-26187-3 doi:10.11501/13080332
- 『日本経済再生論』(明石書店,2003年)ISBN 4-7503-1786-1
- 共著・編著
- 『Let's弁護士 : 気鋭の法律家が挑む実在難事件八話』(深山雅也 共著, 森田塾出版, 1993年)ISBN 4-89503-012-1 doi:10.11501/12726072
- 『オウム事件は終わらない : カルト宗教と日本社会』(江川紹子, 永岡弘行, 山口広, 紀藤正樹, 渥美東洋ほか共著, 秋葉忠利, 石井紘基, 枝野幸男, 岡崎トミ子, 錦織淳ほかオウム問題を考える議員の会 編, 立風書房, 1996年)ISBN 4-651-70072-1 doi:10.11501/14138698
- 『この日本はどうなる』(田中秀征 共著, 近代文芸社, 1997年)ISBN 4-7733-5844-0
- 『裁かれるのは誰か』(中坊公平 共著, 東洋経済新報社, 1998年)
- 『死刑の遺伝子』(島田荘司 共著, 南雲堂, 1998年)ISBN 4-523-26323-X doi:10.11501/13909476
- 『改めるべきは誰か』(中坊公平 共著, 東洋経済新報社, 2001年)ISBN 4-492-27027-2
- 論壇雑誌等への寄稿(一部)
- 上原康助, 虎島和夫, 錦織淳, 鳩山邦夫 (1995) 国会の不戦決議と日本の戦争責任. 労働運動研究, 通算308号, pp.11-15. ISSN 0910-5875 doi:10.11501/1817085
- 錦織淳 (1996) 法的手段に頼った住専処理は愚策. ビジネスインテリジェンス, 10巻4号, pp.37-38. doi:10.11501/2892716
- 錦織淳 (1996) 公共性を強調しなければ財政投入を正当化できない(「金融機関関係罰則法案」インタビュー) . 金融財政事情, 47巻19号, pp.26-27. ISSN 1345-3033 doi:10.11501/2660095
- 錦織淳 (1997) 竹下登元首相との「我が闘争」. 月刊現代, 31巻1号, pp.116-117. doi:10.11501/3367596