長宗我部文兼
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長宗我部氏の第16代当主。父は長宗我部元親(南北朝期)。子に元門らがいる[1]。
応仁2年(1468年)、応仁の乱から逃れてきた一条教房を土佐国司として推戴し、居城の岡豊城に御座所を作って迎え入れ、土佐国内の豪族との融和を図った[1]。また、土佐東部における諸寺院や吸江庵の運営の監督も行っており、一条氏を政治的に利用して、権威を拡大していった形跡がある。文明2年(1470年)ごろ、嫡子の長宗我部元門に家督を譲った。しかし、文明3年(1471年)、元門を追放し、元門の弟の雄親を後継者とした[1]。追放した理由は、長宗我部氏が応仁の乱において細川勝元率いる東軍に属していたにも関わらず、元門が山名宗全率いる西軍に属しようとしたからという説がある。この時、一時的に長宗我部氏が代々継いできた吸江庵の寺奉行職を解任されている。しかし、その後、すぐに寺奉行職を回復している[1]。