長楽寺 (京都市)
京都市東山区にある時宗の寺院
From Wikipedia, the free encyclopedia
歴史
当寺は一説によれば、延暦24年(805年)に勅命により最澄が自ら彫り上げた観音菩薩像を本尊とし、延暦寺の別院として創建されたのに始まるという[1]。『平家物語』「灌頂巻」によると、文治元年(1185年)には高倉天皇の中宮で安徳天皇の生母である建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後の5月1日に当寺に到来し、当寺の僧で法然の弟子阿証房印西(印誓)について出家したという。建礼門院は10月になると大原の寂光院に入寺している。
当寺は勅願所として歴代天皇より深い帰依を得ていたという[2]。
また、法然の弟子隆寛はこの寺に居住して多念義を唱えた。そのため隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれている。
至徳2年(1385年)に時宗の僧国阿が入寺して中興し、時宗の寺に改められた[1]。
延享2年(1745年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗により1万坪もの境内地を没収された。没収された土地は当寺に隣接している真宗大谷派の大谷祖廟(東大谷)に寄進されている[1]。
これ以降寺勢は衰微しはじめ、文化年間(1804年 - 1818年)には養福寺に寺地の一部を譲って浄土宗西山派に改宗した。しかし、1870年(明治2年)には時宗遊行派に改めている。また、1871年(明治4年)に上知令によって境内地を政府に没収された。没収された土地は1886年(明治19年)に円山公園の一部とされた[1]。
1906年(明治39年)には、時宗遊行派の総本山格で有力寺院である七条道場金光寺を合併する[1]。当寺が所蔵する重要文化財の時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたものである。
2008年(平成20年)に文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この時、一遍上人木像(重要文化財)をはじめとする全ての文化財は、消防隊員や住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。
本尊
本尊の准胝観音は天皇即位時にしか開帳されない「勅封・厳秘」の本尊であり、玉躰護持と皇室安寧祈祷の本尊とされる。その姿は立像で1面3目18臂、2匹の龍の上に蓮台があり、その上に立っている。
伝説によれば、伝教大師最澄が入唐の際に海難に遭遇したので三宝に祈願したところ、2頭の龍に跨がった准胝観音が顕れて最澄の衣に飛び移ると、たちまち波風が収まったといわれ、その姿を彫ったものであるという[2]。
普段は厨子(後水尾天皇の中宮・東福門院が寄進した「泰安の厨子」)の中に安置されている。また、御前立本尊となっている阿弥陀如来像(阿弥陀三尊像)は崇徳天皇念持仏といわれる。
最新の開帳は今上天皇の即位に伴う2019年(令和元年)5月1日から6月16日までの開帳となる[3]。
なお、本尊両脇には伝・最澄作の弁才天像と円爾(聖一国師)がインド・中国・日本の三国の土で作ったといわれる布袋尊像が安置されている。
境内
- 本堂 - もとは安土桃山時代に建てられた伏見城の御殿の1つ。後に正伝寺に移築されて法堂となっていたものを、1890年(明治23年)に当寺に移築した[4]。
- 鐘楼 - 梵鐘は1956年(昭和31年)に造られたもの。以前の梵鐘は明暦3年(1657年)に鋳造され、その妙音は「長楽寺の鐘」として広く親しまれていたが、太平洋戦争中の金属類回収令によって供出された[4]。
- 十三重石塔「建礼門院御塔」 - 建礼門院の毛髪を埋めているとされる[4]。
- 平安の滝 - 相阿弥の築という。
- 収蔵庫 - 宝物館。重要文化財の木造智真(一遍)立像などがある[4]。
- 尊攘苑 - 墓所。水戸藩の関係者などが祀られている。
- 庫裏
- 書院
- 庭園 - 相阿弥の作庭によるという池泉観賞式庭園。足利義政が東山山荘(後の慈照寺)の庭園の試作として相阿弥に造らせたとされる[4]。
- 茶室
- 客殿「雙龍舞閣」
- 山門
- 宿坊「遊行庵」 - 飛び地。八坂神社の前にある。
文化財
行事
- 扇祈願会(もみじ祭) - 11月下旬。
前後の札所
- 洛陽三十三所観音霊場
- 6 金戒光明寺 - 7 長楽寺 - 8 大蓮寺
- 京都七福神(布袋尊)
所在地
- 京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626