アメリカは伝統的にモンロー宣言 による孤立主義 の立場を取っていたが、1890年代 のフロンティア の消滅に伴い、中南米、カリブ諸島、太平洋上の島々へ急速に植民地 を広げ、自国権益を拡大していった。アメリカは以前から大規模な市場を持つ中国大陸への進出を狙っていた。
1898年 にアメリカはハワイを併合 し、米西戦争 によってフィリピン ・グアム 島を獲得した結果、これらはアメリカにとって東アジア への進出の重要拠点となり、アメリカも東アジアにおける主要勢力の1つに躍り出た。しかし、既にイギリス 、フランス 、ロシア 、ドイツ などのヨーロッパ 列強 によって中国分割 が激しく進められており、さらには日本 がそれに加わろうとしていた時勢であった。
アメリカは中国における他国と同等の特権を得るべく、アメリカのジョン・ヘイ 国務長官 は1899年 、列強主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める門戸開放通牒 を発した。これに対し各国は、それぞれの利権のために他国の判断が下されるまでは判断を留保すると返答した。1900年 3月、ジョン国務長官は、通牒の内容は有効になったと宣言、これに対して日本だけはこの宣言に対し異議を申し立てたが、アメリカは門戸開放が国際的な政策になったとの主張を展開した。同年、義和団の乱 の後に、ヘイ国務長官は同等の趣旨(ただし、より領土保全が強調されている)の文章を各国に再送した。
満州
2年後の1902年 に、アメリカは満州におけるロシアの侵略は門戸開放政策に反すると主張した。1904年 から1905年 にかけての日露戦争 の結果、ロシアに代わって満州 南部における利権を獲得した日本は、アメリカに対し満州では門戸開放政策を維持すると伝えた。1909年 にアメリカは、門戸開放の維持の為に、日本では新4国借款団 と呼ばれる、中国が鉄道を敷設するのに必要な借款 を工面する為の日本・アメリカ・イギリス・フランス四カ国からなる銀行集合の形成を誘導した。この目的は中国進出を日本に独占させないことであったが、アメリカは1913年 に、これが中国の国内統治の完全性を欠くことになると主張して、これを脱退した。
次に門戸開放方針が妨げられたのは1915年 で、日本が対華21ヶ条要求 を突きつけたときである。この結果、1917年 に日米間で、中国における門戸開放は尊重されるが、アメリカは日本の中国における特殊権益を認めるという石井・ランシング協定 が結ばれた。門戸開放の原則は同年の日本と連合国 間の、山東半島ドイツ権益に関する秘密協定によってさらに弱まった。
崩壊しつつあった門戸開放政策は、1921年 から1922年 にかけてのワシントン会議 (1922年) の九カ国条約 において再確認され、これにアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ 、ポルトガル 、中国、ベルギー が署名することで一時的に回復した。これに伴い石井・ランシング協定は破棄された。
しかし1931年 からの満州事変 及び満州国 の建国によって、門戸開放政策は崩壊した。
第二次世界大戦 後、中国の主権国家 としての存在が認められた。これに伴って、どの国も中国内に支配地域を保有することも、他国の貿易 を妨害することもできなくなった。共産党 が政権をとると、1970年代後半に鄧小平が政権を手にするまで、中国における自由貿易 は拒絶された。それ以降の中国政府は、外国貿易を助成する方針を維持している。