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陳明

百済の官僚 From Wikipedia, the free encyclopedia

陳 明(ちん めい[1]、朝鮮語: 진명、生没年不詳)は、百済東城王代に南斉に使臣として派遣された百済の官僚[1]、貴族[2]。百済に帰化していた中国人[3][4][5][6]。陳明の子孫の陳法子の墓誌が中国で出土しており、墓誌によると、陳明の先祖は、後漢末期の混乱期に中国から朝鮮に移住した[7]。移住時期は、後漢末期の184年に起きた黄巾の乱から各地方の軍閥が乱立するようになった献帝の建安年間までの間であるが、これ以上の具体的な時期は分からない[7]。一族には、太学の長官を務めた陳春、百済の官職「達率」に任ぜられ、麻連大郡将を務めた陳徳止、百済の官職「徳率」に任ぜられ、参司軍を務めた陳微之、百済・唐戦争(英語版)において軍事業務を担当する百済の将軍だったが、唐軍に投降し、百済滅亡後、唐に移住して洛陽で暮らし、唐の将軍として活動した陳法子などがいる[8]。

ハングル: 진명
漢字: 陳 明
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: ちん めい
概要 陳 明, 各種表記 ...
陳 明
各種表記
ハングル: 진명
漢字: 陳 明
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: ちん めい
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概要

百済には中国系の百済官僚が多数存在しており、これを示すのが『南斉書』百済伝の以下の記事である[9]。

行龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣慕遺,行建武將軍、城陽太守兼司馬臣王茂,兼參軍、行振武將軍、朝鮮太守臣張塞,行揚武將軍陳明 — 南斉書、百済伝

この記事には慕遺、王茂、張塞、陳明などがみえるが、彼らは姓氏から推して中国系の百済官僚といえる[9]。

百済の国王幕府の属僚

さらに見る 時期, 人名 ...
 百済の国王幕府の属僚[10]
時期 人名 既保有官職 百済王 私署 官職 任命追認官職(爵号) 任命要請事由 国家
久尓辛王五年(424年)張威長史使節劉宋
蓋鹵王十八年(472年)余礼駙馬都尉・長史冠軍将軍・弗斯侯未詳使臣北魏
蓋鹵王十八年(472年)張茂司馬龍驤将軍・帯方太守未詳使臣北魏
東城王八年(490年)高達長史行建威将軍・広陽太守建威将軍・広陽太守先例・使臣・邊効邊夙著・勤労公務南斉
東城王八年(490年)楊茂司馬行建威将軍・朝鮮太守建威将軍・朝鮮太守先例・使臣・志行清壱・公務不廃南斉
東城王八年(490年)会邁参軍行宣威将軍宣威将軍先例・使臣・執志・周密・屢致勤効南斉
東城王十七年(495年)慕遺長史行龍驤将軍・楽浪太守龍驤将軍・楽浪太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)王茂司馬行建武将軍・城陽太守建武将軍・城陽太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)張塞参軍行振武将軍・朝鮮太守振武将軍・朝鮮太守使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
東城王十七年(495年)陳明?行揚武将軍揚武将軍使臣・在官忘私 唯公是務 見危授命 蹈難弗顧南斉
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