陳法子
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中国で出土した陳法子の墓誌によって陳氏一族の出自と活動が詳らかになった。なお、陳法子の墓誌は、大唐西市博物館が所蔵している[2]。陳氏の先祖は、2世紀末の黄巾の乱を避けて中国から朝鮮に移住した中国系移民であり、陳氏一族は熊津に定住していたが、漢城百済の崩壊後の百済の熊津遷都後に一族が頭角をあらわし、主に百済政府の外交と教育で活躍した。
陳法子は、615年に百済西部で生まれ、680年に洛陽で生涯を終えた。百済と唐で様々な官職を務めた。百済では、武王に出仕し、義慈王代まで旣母郡佐官や稟達郡将などの地方官として活躍した。陳法子が任官した稟達郡将は、『三国史記』黒歯常之伝に登場する風達郡将と同じ実体とみられ、黒歯常之は650年代に風達郡将になっているが、陳法子は650年頃に稟達郡将になったと推定されるが、稟達郡将と風達郡将の具体的な違いは判明していないが、家門の格の違いとする見解がある[2]。また、陳法子が稟達郡将に任命された時期は、35歳前後だった義慈王代の650年頃であり、百済滅亡時の風達郡将だった黒歯常之の前任者と推定される[2]。