陶回
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太子中庶子の陶抗の子として生まれた、司空府の中軍や主簿として招聘されたが、いずれも就任しなかった。王敦の下で大将軍参軍となり、州別駕に転じた。太寧2年(324年)、王敦が死去すると、陶回は王導に召されて司徒従事中郎となり、司馬に転じた。
咸和2年(327年)に蘇峻の乱が起こると、陶回と孔坦は早期に出兵して江口を守るよう王導に勧めた。蘇峻が建康に向けて進軍してくると、陶回は蘇峻が堅固な石頭城を避けて小丹陽の南の道をやってくるだろうと予測した。ここに伏兵を置くよう庾亮に勧めたが、聞き入れられなかった。はたして蘇峻は小丹陽から秣陵を経て進軍してきたが、道に迷い、丹陽郡の人を捕まえて道案内とした。蘇峻は夜間に行軍しており、その部隊はばらばらであった。庾亮はこのことを聞いて、陶回の進言を聞かなかったことを後悔した。ほどなく官軍は敗北したため、陶回は本県に帰った。1000人あまりの義軍を集めて、陶侃や温嶠らとともに蘇峻を攻撃し、韓晃を撃破した。功績により康楽伯に封じられた。
蘇峻の乱が平定されると、陶回は王導に抜擢されて北軍中候に任じられ、まもなく中護軍に転じた。長らくを経て、征虜将軍・呉興郡太守に転じた。郡に在任すること4年、建康に召還されて、征虜将軍のまま領軍将軍に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。
咸康2年(336年)、病を理由に辞職を願い出たが、成帝は許可しなかった。散騎常侍・領軍将軍のまま、護軍将軍に転じた。就任しないうちに、死去した。享年は51。諡は威といった。
逸話
- 陶回が呉興郡太守であったとき、呉興郡を含む三呉地方の穀物価格が騰貴して、民衆が飢えに苦しんだ。陶回は官倉を開いて民衆に振る舞うよう上奏したが、返事を待てず、無断で倉を開いて、数万斛の米を放出して救恤にあたらせた。
- 丹陽尹の桓景が王導にへつらって親しくしていたが、陶回は桓景を悪人とみなして、親しくしようとしなかった。たまたま熒惑が南斗の位置から10日ほども動かなかったことから、王導は「南斗は揚州の分である。熒惑が居座って動かないのは、わたしが譲るべき位から動くのを嫌がっているためではなかろうか」と陶回に漏らした。陶回は「公は明徳をもって宰相となり、聖主を輔弼しております。忠貞の者と親しくして、邪佞の者を遠ざけるべきところ、桓景などと仲良くしていたのでは、熒惑がどうして舎を退くことができましょうか」と答えた。王導はこれに深く恥じ入った。