雄勝石
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雄勝石(おがついし[2][3])は、宮城県石巻市雄勝地区(旧・雄勝町)に産出する、黒色で光沢がある硬質の石材(粘板岩)である。粒子が均質で圧縮や曲げに高い強度を持ち、化学変化や経年変化等への耐性が高い。北上山系登米層の古生界上部ペルム系の地層に産する。推定埋蔵量は500万トンとも言われ、露天掘りにより採取されることから大量供給可能という生産面での特徴もある[4]。

硯(雄勝硯)[注釈 1]や工芸品などの制作に、また、天然スレートの屋根材[注釈 2]に使われてきた[5]。東京駅丸の内駅舎[6](雄勝石とスペイン産の併用)、法務省旧本館、神長官守矢史料館などがその例である。
雄勝硯
雄勝硯は雄勝石を元に造られる硯である。含有鉱物が均等で鋒鋩が細かいことが雄勝硯の特徴である[4]。1982年(昭和57年)に宮城県から伝統的工芸品に、また1985年(昭和60年)に国から伝統的工芸品に指定されている[7]。ただし、資材として出荷されていたり、問屋の名前で製品が出荷されていたため、雄勝硯の知名度はやや低い[4]。
歴史的には、室町時代に現在の岩手県東山町(一関市)から雄勝へ硯制作の技術が伝わったとも言われるが、これは口伝である[4]。史料としては、江戸時代の仙台藩お抱えの硯師奥田家の家系図において、元和年間(1615年-1624年)に牡鹿半島へ鹿狩り訪れた初代藩主伊達政宗が雄勝の硯に目を留め、それにより硯の産地が栄えたと記述する文書がある[8]。二代目藩主伊達忠宗は雄勝硯師を藩お抱えとしたほか、雄勝石産地を「お止め山」として一般の採石を禁じて保護したという。また、江戸時代に編纂された仙台藩の地誌『封内風土記』には、雄勝の硯が雅物の特産品であることが記されている[9]。
1875年(明治8年)、東京の商人が雄勝で石盤製造を企業化した。戦前は硯より石盤やスレートの生産が重要だった。硯の生産も続けて行われていたが、日本国内における雄勝硯の市場シェアはそれほど大きなものではなかったという評価がある[4]。戦後になると、石盤はノートブックに、スレートはトタンに取って代わられ、それらの需要は激減した。硯の需要はあったが、国内の他の硯産地では原石が枯渇していた。このため、雄勝が国内の硯の生産地として栄えることになった[4]。
1950年代前半に雄勝石を用いた学童用硯の生産が行われるようになった。雄勝における硯生産の最盛期は1955年(昭和30年)頃で、雄勝の明神地区から味噌作地区にかけて約200人の硯職人がいた[8]。一方、大坂の化学工業企業により人工硯が開発され、それが1953年(昭和28年)頃から学童用として普及し始めていた。人工硯は低コスト、均一品質であり、これに抗えなかった雄勝でも人工硯の生産が行われるようになった。さらに1970年代になると安価な天然石硯が中国や韓国から輸入されるようになった。このような状況にあって、雄勝硯の生産量や生産者は急減していった。2005年(平成17年)の調査によれば、雄勝で扱われる硯製品の大半は中国産石材によるもので、主に学童用の書道セットだった。産地全体の硯生産量のうち1割が雄勝石によるもので、中級品または高級品として扱われる製品だった[4]。
2011年(平成23年)の東日本大震災では硯工場が被災し、職人が産地を離れるなどの被害を受けた。現在では硯の代わりに、高級食器に加工した「雄勝石皿」が主力製品となっている[10]。