雄勝地区
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| 雄勝地区 おがつちく | |
|---|---|
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| 国 |
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| 地方 | 東北地方 |
| 都道府県 | 宮城県 |
| 自治体 | 石巻市 |
| 旧自治体 |
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| 面積 |
46.12km² |
| 世帯数 |
565世帯 |
| 総人口 |
972人 (住民基本台帳、2025年11月30日現在) |
| 人口密度 |
21.08人/km² |
| 隣接地区 | 河北地区 |
| 石巻市役所雄勝総合支所 | |
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| 北緯38度31分17.414秒 東経141度28分5.087秒 / 北緯38.52150389度 東経141.46807972度座標: 北緯38度31分17.414秒 東経141度28分5.087秒 / 北緯38.52150389度 東経141.46807972度 | |
| 所在地 |
〒986-1333 宮城県石巻市雄勝町雄勝字下雄勝12-42[1] |
雄勝地区(おがつちく、英語: Ogatsu area[2])は宮城県石巻市の地域区分の一つである[3][4][5]。雄勝地域(おがつちいき)とも表記されるほか[注 1][3][4][5]、雄勝町(おがつちょう)と通称されることもある[6][7][8]。区域は旧桃生郡雄勝町と同一であり、雄勝地区の行政に関わる事務を分掌する形で石巻市役所雄勝総合支所が設置されている[3][1]。かつては国内の硯の90%を生産していたとされており、硯の生産地として往古より著名な地区である[9]。
地名の由来

雄勝地区は石巻市内7地区の一つで太平洋に面した漁村地域であり、かつては「日本一美しい漁村」と称されていた地区である[6][10]。太平洋に面したリアス式海岸を有し、また西部には北上山系から連なる硯上山がそびえ、国の指定を受けている天然記念物「八景島暖地性植物群落」や市指定天然記念物「雄勝荒魚竜化石群」があるほか、太平洋を一望できる「白銀崎」はみやぎ新観光名所100選に選ばれているなど多彩な自然を有する風光明媚な地区である[11]。また、水産業が盛んで、ホタテ・ウニ・アワビ・岩ガキ・ホヤ・ギンザケ・ワカメなどの多彩な海産物を有している[11][12]。硯の生産地としても著名で、かつては日本の硯の90%を生産していたとされる[9]。
2025年(令和7年)8月末現在で人口・世帯数は石巻市7地区のなかで最も小規模であり、2024年(令和6年)現在で面積は石巻市7地区のなかで第6位となっている[13][4]。2022年(令和4年)4月1日現在、全域が過疎地域に指定されており、さらに2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で被害を被ったこともあり、震災後には人口の74.4%がこの地を去るなど人口減少が深刻な地域である[14][15][16]。また、少子化も重要な問題となっている。震災により0~14歳の世代はおよそ9割減少し、2015年の国勢調査によれば0~14歳の世代はわずか33名のみとなっており、高齢化率は2020年の国勢調査によれば58.0%となっている[14][17][16]。そのため、今後の地域コミュニティの維持や水産業や伝統産業の後継者不足などといった課題がある[11][18][19]。
江戸時代初期から地区内12浜と河北地区内の釜谷浜・長面浜・尾崎浜の3浜を合わせて十五浜と総称されており、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行の際、現在の雄勝地区をもって桃生郡十五浜村という村が存在していた[20][21]。1941年(昭和16年)に十五浜村が単独町制施行すると雄勝町が成立したが、雄勝町は2005年(平成17年)に石巻市・河北町・河南町・桃生町・北上町・牡鹿町と合併し、石巻市の一部となった[20]。
- 寺院由来説
1390年に開かれた雄勝地区初の寺院である「王勝邑天雄寺」の「王勝」の部分が「雄勝」に変化し、地名として定着したという説[22]。
- 地形由来説
「雄勝」という地名は地勢の険要な場所を表しているとされ、その険しい地形から雄勝という地名が生じたという説[21]。
- 坂上田村麻呂命名説
坂上田村麻呂が皇勅により蝦夷征討に赴いた折にこの地にたどり着き、田村麻呂が蝦夷を平定したことから、「王勝」と名付けられたが、その後「王勝」はもったいないということで「雄勝」に改められたという説[22]。
- アイヌ語説
アイヌ語で二つの川が合流して、互いにくっついたり離れたりする川を表す「オ・ウコツ・ナイ[注 2]」が由来であるという説[22]。現に雄勝浜には大原川と坊ケ沢川の合流する河口であった[22]。
地理
石巻市の東部に位置する[23]。南部で牡鹿郡女川町と、西部から北部にかけて石巻市河北地区と接し、東部で太平洋に面する[23]。域内は全体的に山地が多く、東部の雄勝半島には小富士山や石峰山といった300m級の山々がそびえ、西部には雄勝地区内最高峰である硯上山が立地する[24]。そのため、地区内の集落の多くは山裾が急な角度で下る沿岸の平坦部に点在している[25]。海岸はリアス式海岸の様相をなし、海岸線の延長は約43kmとなっている[26]。雄勝半島の北部に名振湾、東部・南部に雄勝湾を擁するほか、半島東端の大須埼には「恋する灯台」として著名な大須埼灯台が設置されている[27]。
気候は平均的な海洋性気候を示しており、冬は暖かく夏は涼しい気候となっている[28]。年平均気温は11~12℃ほどで、年間降水量は1,310~1,620mmほどとなっている[28]。
- 名振湾
- 大須集落
地形
歴史
古代
雄勝に人が住み始めたのは縄文時代からである[34]。縄文時代の雄勝地区は現在より複雑な海岸線を擁し、浅海に面していたとされる[34]。地区内には台貝塚、苗圃貝塚、大浜貝塚、立浜貝塚、名振貝塚、宇島貝塚、元屋敷遺物包含地、熊沢遺物包含地、船越遺物包含地といった縄文期の貝塚・遺跡が発見されており、縄文前期から後期までの土器・石器破片、石鏃、石匙、魚骨、土偶、石棒などが発掘されている[35]。なお、貝塚はいずれも雄勝湾北浦でのみ発見されており、南浦では貝塚は発見されておらず遺物包含地3点のみが発見されている[36]。それから中世に至るまでの桃生牡鹿地方あるいは雄勝地区の歴史は文献の少なさゆえによくわかっていないが、海道蝦夷と朝廷の争いのなかで次第に律令制に組み込まれ、牡鹿郡ないし牡鹿郡から分離された桃生郡の一部となったとされる[37][38][39]。なお、雄勝町史では大浜にある石峰大権現は延喜式内社桃生六座の石神であるという伝説が事実だとして「古代、雄勝地区でかなりの人口の集落が形成されていた」「石神が蝦夷経営で大きな意義をもっていた」という考察がなされている[注 3][44][45]。
中世
中世になり、奥州の覇者であった奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされると桃生牡鹿地方は頼朝配下の武将で軍功のあった葛西氏・山内首藤氏・長江氏の三者に分割統治された[46]。三者のうち雄勝地区を支配した将が誰であるかは未だに判明していないが、牡鹿郡及び海浜六十六島を拝領した葛西氏か桃生郡二十四郷の領主たる山内首藤氏のどちらかであろうとされている[46]。いずれにせよ、永正8年(1511年)に葛西宗清が山内首藤氏領に攻め入り、山内首藤氏は滅亡した[47]。その後、雄勝地区は葛西氏の支配下となったという[48]。雄勝地区は耕土が乏しい上、戦略上重要な拠点というわけでもなく、葛西・山内首藤両陣営の城主・邑主も存在しなかったことから、中世の領主や戦乱に関する伝承や記録が全く存在しない[48]。板碑の分布や修験霊場の存在からして、中世の雄勝地区では比較的平和で宗教生活が行われていたのではないかと推測されている[48][49]。また、現在ある雄勝地区の部落もこのころに形成されたと考えられており、大浜の千葉家に伝わる「網の瀬祭(原文:阿み之せまつ里)」の祈祷料に関する応永31年(1424年)の古文書には「わけ」「水浜」「からくは」「ヲカチすゝりハま」「明チいぼがさき」「おちま」「大浜」「立」「くはのはま」「ふなこし」「ナフリ」といった部落名が記載されており、それぞれ現在の分浜、水浜、唐桑、雄勝、明神、小島、大浜、立浜、桑浜、船越、名振集落を指すとされる[50]。「ヲカチすゝりハま」とあるようにこのころから硯生産が行われていたということがわかる[50]。同書物では「アカサキ」「火わちま」「う寿ちま」「志るか禰」「水たれ」「京がさき」「寿きのはま」「小どま里」などといった現存しない部落名も記載されおり、それぞれ分浜の赤埼、水浜のびわ島、立浜の一部、桑浜の白銀、船越のみずたれ、大浜の一部、船越の杉ノ浜、船越の小泊と比定されている[50]。また、千葉家は各集落の起源に関する次の古文書も保有している[51]。
| 抑大浜之始之事、神宮の五大三月廿六日大浜ヲキリアケタマウ、九れ津ぼハ神ラ王之五大ニ、四月八日ニキ里阿ケタマウ、かタなハ、一シヤク八ンスンニテキリ阿ケタマウ、其以来立ハサカふなコシ始タマウナリ[注 4] |
この古文書の筆跡・字体は先の応永期の古文書と一致するため、同一人物のものと考えられ、応永期以前に大浜、呉壺、立浜、羽坂、船越の順番で部落が開かれたとされる[51]。実際、鎌倉期の古碑は水浜の古碑1基を除いた6基すべてがこれら部落で発見されている[52]。
天文6年(1534年)になると葛西氏は石巻城から寺池城に本拠地を移した[53]。これは葛西氏領内で家人・各邑主間で争乱が相次いで起こり、その対処のために地理的利便上、領土の中心地に近い寺池の地に移転せざるを得なかったためであるとされる[53]。天正18年(1590年)になると豊臣秀吉が小田原征伐をすることになり、奥州の諸将に小田原参陣の命が出された[53]。しかし、葛西家領主葛西晴信は浜田広綱といった半ば独立の家臣らの内乱の対処に追われ、参陣することができなかった[53]。結果として、葛西晴信は豊臣に敵意があるとみなされ、改易処分となり大名としての葛西氏は滅亡した[53]。葛西旧領には木村吉清に与えられたが、木村は葛西大崎一揆の一揆勢に古川城や岩手沢城を落とされた上、佐沼城に籠城し包囲されるという失態を犯し、一揆の責任を取るという形で領地を没収された[53]。結局、雄勝地区を含めた葛西氏旧領は伊達政宗に与えられた[53]。
近世
江戸時代になると、雄勝地区は仙台藩領となり、中奥郡奉行の管轄下の桃生郡南方に含まれた[54][55]。桃生郡北方と南方は飯野川代官所の管轄であり、雄勝地区の属した桃生郡南方では、はじめ名振の永沼氏が、享保3年(1718年)から横川(福地)の榊原氏が幕末まで大肝入を務めていた[注 5][54][56]。川村孫兵衛による石巻・鹿又間の北上川開鑿が完成すると北上川の舟運が活発になり、雄勝地区と陸方の物資の交流が盛んに行われるようになった[57]。また、塩鰹や鰹節、魚肥、昆布などといった産物が江戸や銚子へと輸送され、永沼氏や大須の阿部氏、分浜の青木氏・秋山氏などは財を成した[58][59]。このうち秋山氏は江戸・銚子との交易のために幾度と旅を重ね、市場の拡大に奔走したとされる[59][60]。伊能忠敬の測量日記には次のように秋山惣兵衛が登場する[60]。
| 余、先年松島を遊覧しけるに、頃は皐月末の八日佐原を出立、鉾田と云う所まで乗船す、風波あり尺取らず、漸く串挽え着て船泊しける、傍に旅人ありける、苫越しに物語れば、松島より遠き分ケ浜と云う所の秋山惣兵衛と云者にて、交易の事に銚子港へ来り復其国へ帰りけるなり |
なお、伊能忠敬と秋山惣兵衛はこの安永7年(1778年)の出会いから24年の時を経て分浜にて再開した[60]。
また、江戸時代には仙台藩藩主による狩猟が当地で活発に行われた[61]。狩猟は泰平の世において乱を忘れず武を練るために武士が行う営みであり、千古斧を見ぬ巨木が全山を覆っていた硯上山・石峯山・小富士山といった山々は鹿や猪といった野生動物が多く存在していた[61]。仙台藩初代藩主である伊達政宗も当地で狩猟を行ったとされ、その裏付けとしてセバスティアン・ビスカイノが著した『探検記』では以下のような記述がなされている[62]。
| 此処[注 6]で国王[注 7]が凡そ二レグワの地点で狩猟を催すことで使を遣して来たので、この雄勝港外既に発見した港湾の絵図を作成して国王に送附した。王は通訳及び奉行に満足の意を託して、その上鹿その他の獲物を贈りとゞけられた。(中略)この地方のものは、皆王の狩猟の為にいそがしく、余等の用を弁ずることさえできなかったほどである。 |
また、狩猟か単なる巡視の為かは不明であるが、伊達政宗が桃生郡名振浜に碇泊した際に詠んだとされる和歌が一首伝えられている[62]。
| ものを知らぬ鄙の入ぞや皆人のなぶりて笑ふことの口惜しさ |
この和歌の「ものを」は「桃生」に「なぶりて」は「名振」にかけている[62]。初代藩主政宗公以降、7代藩主重村公までは藩主による鹿狩りの記録が残存しているが、8代藩主斉村公以降の記録は見られず、鹿狩りが行われなくなった可能性があるとされる[63]。
十五浜村・雄勝町時代
明治時代になると、雄勝地区はまず高崎藩の支配下を受けた[64]。その後は桃生県、石巻県、仙台県を経て最終的に宮城県所属となった[64]。また、維新政府は税制確立のために地方行政体系を整備する方針を打ち出し、大区小区制や郡区町村編成法、町村制・郡制が施行された[64][65][66]。町村制施行により雄勝地区においては十五浜村が成立した[64]。域内には旧村をもって12の大字が設置され、村役場は大字雄勝字上雄勝18番地[注 8]に設置された[68]。宮城県明治二十一年町村区域表によれば、「合併ヲ要スル事由」としていずれの集落も海岸に所在し、漁業を生業とする集落で民俗習慣も似ているほか、かねてより連合村を組織するなど共同で事務を行っていたためとしている[69]。しかし、十五浜村成立後も旧村は区として分けられ、旧村の財産は区が引き継ぐという形で財産処分がなされ、新村には継承されなかった[69][注 9]。これは旧村の財産が部落の生活の基礎をなしていたということによる[69]。
また、明治後期になると雄勝でのスレート産業が開始された[71]。その起源は横浜の海産物商の社員であった山本儀平が雄勝に出張に来ていた際に海岸に捨てられていた硯石をみつけ、これが石盤に活用できるということに気づき、雄勝に移住し起業化したことによる[72]。山本は硯職人に石盤をつくらせて、これを輸入商に鑑定させたところ外国製品に劣らない優秀なものであるという評価を得た[67]。その後、明神浜において石脈が発見され、明神浜は一躍、石盤の主産地となった[72]。現地人らも山本にならって、スレート製造を開始し、一時は月産数万枚を記録した[72]。第一次世界大戦が開戦すると、海外での需要が伸び、粗悪品であっても飛ぶように売れ、海外市場の開拓が進められた[73]。
- 雄勝石でできたスレート壁
昭和時代、雄勝地区の主な産業は漁業・スレートや硯の製造業であった[74]。漁業では当時の価値で年産200万円を突破し、引き揚げられた水産物を肥料・食品にする加工する工場が大字雄勝に10箇所立地していた[75]。町の特産品であったスレートは陸上の工産品中輸出品として宮城県第一といわれ、内地は勿論のこと、朝鮮や台湾といった外地、タイやビルマ、インド、アラビア、アフリカ、蘭印、オーストラリアなどの海外にも進出、大字雄勝に石盤工場が7箇所立地していた[75]。硯は国内市場を独占し、東京や大阪、まれに外国からの商人が硯を求めてやってくるほどだった[75]。それ以外にも雄勝地区には雄勝漁協経営の造船工場や雄勝鉄工場といった工場が存在しており、郡下第一の工場地域としての様相をなしていた[76]。スレートや硯の製造業や水産業といった産業の振興とそれに伴う旅客船や陸路の整備といった交通の発達によって、雄勝地区では人口・戸数が急増、町村制施行時(1889年)ごろには戸数550戸、人口3,996人ほどだった村勢は約半世紀後(1940年)になると1,447戸、8,959人を数えるに至った[74]。十五浜村は皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)中の町制施行を画策したが、村は1940年(昭和15年)8月8日、村会に「村を町と為すの件」を提出し、同年10月1日に町制施行することを目標としていた[77]。最初の提案は審議の結果、決議を延期することとなったが、翌年2月15日に再び審議されることとなり、議案は可決された[77]。3月18日付で林信夫県知事から町制施行を許可されたため、4月1日に十五浜村は町制施行し、雄勝町が成立した[77]。町名については十五浜村成立以前より雄勝浜が十五浜の中心集落となっていたことから「雄勝町」と命名したとされる[77]。桃生郡下では飯野川町と矢本町に続いて3番目の町制施行、桃生・牡鹿地方内では石巻町・渡波町、飯野川町、鮎川町、矢本町に続く6番目の町制施行であった[76]。
1960年(昭和35年)5月24日にはチリ地震に伴う大津波が当地を襲った[78]。この大津波は5月23日午前4時11分(JST)に南米チリ沖で発生した地震に伴って発生した津波であり、はじめ5月24日午前4時30分ごろに第一波が到達したのち、同日午前4時42分ごろに高さ5.5mの大津波となって雄勝地区に襲来した[78]。人命の損害はなかったが1億円余りの損害を被った[79]。
日本が高度経済成長期に入ると雄勝町ではいまだ未発達だった陸上交通が次第に改善されていった。1963年(昭和38年)には県道女川雄勝線(1974年に国道398号に昇格)が、1965年(昭和40年)には県道釜谷大須雄勝線が、1986年(昭和61年)には釜谷トンネルが開通するなど石巻市や河北町といった隣接市町村との交通アクセスが便利になった[19][80]。
新市誕生
2005年(平成17年)4月1日、雄勝町が石巻市・河北町・河南町・桃生町・北上町・牡鹿町と合併し石巻市が成立した。旧雄勝町域は石巻市の雄勝地区となり、雄勝地区を管轄とする行政事務組織として石巻市役所雄勝総合支所が発足した。また、合併の際、域内の大字は「大字」の字句を除き、大字・町丁は「雄勝町」の字句を新たに付すことが定められた[注 10][81]。
震災から現在まで
2011年(平成23年)3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した。雄勝地区では最大浸水高16.2m、最大遡上高21.0mを観測し、犠牲者数は166名、行方不明者数70人にのぼった[82]。2004年(平成16年)、宮城県が公表した宮城県沖地震の被害想定で雄勝の予想津波最高水位は2.4~5.9mと想定されていたが、雄勝には10m超の津波が襲来した[83]。地震による家屋倒壊といった被害は見られなかったが、津波による被害は甚大で集落の低地部はほぼ水没し地区内の住宅は8割が全壊、津波の海に近い場所にあった公民館や学校、病院は津波に飲み込まれた[84]。雄勝病院では入院患者40人全員、職員24名が死亡・行方不明となった[84]。雄勝病院は目の前に海が見える場所に立地する病院で県道と防潮堤により海と隔てられていたが、その近さゆえに津波は3階建ての雄勝病院を飲み込み屋上に避難した患者・医師らを襲った[85]。
被災直後、雄勝地区の災害対策支部はクリーンセンター廃棄物置場に設置され、女川消防署雄勝出張所は総合支所脇車庫を拠点とした[86]。地区内の無線は軒並み不感となり、地区内で唯一雄勝地区からの情報発信が可能だったのは雄勝駐在所の警察無線1基のみという状態であったため、雄勝地区における被害報告のために3月12日、災害対策支部長が河北総合支所へ、女川消防署雄勝出張所所員は河北消防署へと徒歩で向かった[87]。翌日には警察無線を利用した救助要請を実施し、危篤患者らの空輸を行ったほか、14日以降からは電話回線が普通となった各地区の人命捜索を消防団・警察・消防署が行った[87]。
- 震災前の雄勝町雄勝
- 震災後の雄勝町雄勝
雄勝地区は地震や津波による物理的な被害のほか、人口減少が他地区と比べて顕著にみられた[84]。国勢調査によれば2010年(平成22年)10月時点で雄勝地区は3,994人を擁しており、北上地区3,718人、牡鹿地区4,321人とそれぞれ同規模であったが、被災後の2025年(令和7年)8月末現在の住民基本台帳によると、雄勝地区973人、北上地区1,959人、牡鹿地区1,950人と、雄勝地区は北上・牡鹿両地区の半数以下、震災前の4分の1以下にまで減少し、市内7地区の中で最も人口が少ない地区となっている[84][13]。
また、雄勝地区の中心市街の再建は「日本一美しい漁村」と評された雄勝の景観を守るために住宅と道路を高台に移し、高い防潮堤は造らないで進める計画であったが、道路の高台移転は復旧の対象外で、国の復興予算を適用することができなかったのに対して、防潮堤であれば全額を国が負担する方針であったため、宮城県と石巻市は道路の高台移転を諦め、巨大な防潮堤を建設することとなった[10]。結果、雄勝地区では住宅は高台移転したにもかかわらず道路は海岸沿いの低地に相変わらず位置し、その道路を津波から守るために高さ9.7mの巨大な防潮堤がそびえたつという有様となった[10]。2022年(令和4年)から防潮堤により失われたかつての景観を取り戻す目的で防潮堤に絵を描く「海岸線の美術館」プロジェクトが始まった。防潮堤にはかつて見ることのできた海や伝統芸能であるおめつきなどが描かれた[88]。
- 地区内にある巨大な防潮堤
沿革
- 天明3年(1783年) - 名振浜でおめつきが開始される[89]。
- 1882年(明治15年) - 桑浜が立浜より分離独立[90]。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 桃生郡十五浜のうち十二浜をもって町村制施行。十五浜村が成立。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 十五浜村が町制施行し、雄勝町が成立[77]。
- 1947年(昭和22年) - 雄勝公民館会館[91]。
- 1949年(昭和24年)
- 1954年(昭和29年)7月1日 - 雄勝町診療所開設[93]。
- 1960年(昭和35年)
- 1963年(昭和38年)6月 - 県道女川雄勝線が開通[19][96]。
- 1965年(昭和40年) - 県道釜谷大須雄勝線が開通[19]。
- 1972年(昭和47年)12月 - 雄勝町国保病院が新築落成[97]。
- 1979年(昭和54年)4月 - 県道女川雄勝線が県道石巻女川線などとともに国道398号に昇格[80]。
- 1986年(昭和61年)2月 - 釜谷トンネルが開通[19][98]。
- 1994年(平成6年) - 名振のおめつきが宮城県無形民俗文化財に指定される[89]。
- 2005年(平成17年)4月1日
- 雄勝町が石巻市他5町と合併し、石巻市が発足。
- 旧雄勝町役場に石巻市役所雄勝総合支所が設置。
- 2010年(平成22年)5月18日 - 雄勝都市計画区域が廃止された[99]。
- 2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災発生。
- 2016年(平成28年)7月 - 防潮堤の建設が進められる
- 2017年(平成29年)
- 2019年(平成31年)4月 - 河北警察署雄勝駐在所が立て替えられる[102]。
- 2021年(令和3年)
- 2022年(令和4年)6月1日 - 雄勝地区健康づくりパークが開園[104]。
- 2024年(令和6年)8月 - 雄勝地区の自治組織「おがつ100年会議」が組織される[105]。
施設
ここでは主要な施設のみを述べる。域内の施設については各町字記事を参照。
- 雄勝体育館(雄勝町雄勝字伊勢畑地内)[106]
- 雄勝多目的広場(雄勝町雄勝字伊勢畑地内)[106]
- 雄勝艇庫(雄勝町雄勝字伊勢畑地内)[106]
- 河北警察署雄勝駐在所(雄勝町雄勝字下雄勝12-28) - 雄勝地区全域を受持区域とする[7]。
- 石巻市役所雄勝総合支所庁舎(雄勝町雄勝字下雄勝12-42)[1]
- 雄勝郵便局(雄勝町雄勝字下雄勝12-42)[107]
- 雄勝ローズファクトリーガーデン(雄勝町雄勝字味噌作34-2)[108]
- 雄勝地区健康づくりパーク(雄勝町雄勝字味噌作62-2)[104]
- 雄勝保育所(雄勝町小島字和田123)[109]
- 道の駅硯上の里おがつ(雄勝町下雄勝2-17)[110]
- 荒浜海水浴場(雄勝町船越字荒50)[111]
- 雄勝艇庫
- 雄勝硯伝統産業会館
- 道の駅硯上の里おがつ
経済・産業
水産業
雄勝地区の主産業は水産業であり、世界三大漁場の一つである金華山沖の豊富な海産物が水揚げされる[8]。また、山々のミネラルを含んだ山水と海水が混ざり合うことでホタテやホヤ、牡蠣、銀鮭の養殖の適した環境となっており、養殖業が盛んに行われている[8]。以下に雄勝地区内の漁港を挙げる[112]。
- 第二種漁港
- 雄勝漁港
- 第一種漁港
- 名振漁港
- 船越漁港
- 荒漁港
- 大須漁港
- 宇島漁港
- 熊沢漁港
- 羽坂漁港
- 桑の浜漁港
- 小島漁港
- 明神漁港
- 水浜分浜漁港
伝統産業
伝統産業である雄勝硯は実に600年以上の歴史を有しており、国の伝統工芸品に指定されている[50][8]。原材料は雄勝石(玄昌石)で石採りから砂すり、彫り、磨き、仕上げというプロセスを踏まえて完成する[113]。1966年(昭和41年)時点では学童硯を中心に町の基幹産業として栄え、雄勝町内の硯職人数は約200人で100世帯余りの家族がこれに従事する家内工業の様相を呈していたが[114]、近年では硯需要の低下や東日本大震災により産業としては衰退し、地区内に残る硯職人もたった一人のみとなっており、硯産業の存続が危ぶまれている[9]。
観光業
道の駅硯上の里おがつや雄勝ローズファクトリーガーデンといった観光施設による観光客の呼び込みのほか、宿泊者や水産資源、農作物の消費拡大を図るため、雄勝町渚泊推進協議会が中心となっていわゆる渚泊をビジネスとして実施している[115]。渚泊ではホタテ水揚げ体験やホヤ、カキ、アワビ漁を体験することができるほか、雄勝硯製作体験をすることができる[115]。
行政
雄勝総合支所

石巻市例規「石巻市支所設置条例」により、市長の権限に属する事務を分掌させ、旧自治体行政の継続性を担保するため、旧雄勝町の区域を所管区域とする総合支所として石巻市役所雄勝総合支所(英語: Ishinomaki City Hall Ogatsu General Branch)が設置されている[1][2]。総合支所の長として次長級の「雄勝総合支所長」職が設けられている[116]。2025年(令和7年)3月時点で職員は雄勝総合支所長以下31名となっており、石巻市の総合支所としては最も小規模である[117]。
石巻市例規「石巻市行政組織規則」により、雄勝総合支所は地域振興課と市民福祉課の2課編成で様々な行政事務を執行する。地域振興課と市民福祉課はそれぞれ以下のような機関を擁する[118]。
- 地域振興課
- 雄勝地域拠点エリア
- 雄勝硯伝統産業会館
- 雄勝観光物産交流館
- 雄勝地域拠点エリア
- 市民福祉課
- 雄勝保育所
- 雄勝子育て支援センター
- 雄勝地区放課後児童クラブ
- 雄勝診療所
- 雄勝歯科診療所
- 健康づくりパーク
雄勝地域まちづくり委員会
石巻市例規「石巻市地域まちづくり委員会設置条例」により、石巻市の地域の均衡ある発展及び活性化を図るため、旧雄勝町の区域を対象に石巻市長からのまちづくり施策に関わる諮問に応じる機関として雄勝地域まちづくり委員会が設置されている[119]。
警察
宮城県警察河北警察署雄勝駐在所が雄勝地区全域を受け持つ[7]。
消防
石巻地区広域行政事務組合例規「石巻地区広域行政事務組合消防本部及び消防署設置条例」(令和3年2月1日施行)によれば、消防は石巻地区広域行政事務組合消防本部河北消防署の管轄となっており、河北消防署雄勝出張所が雄勝地区全域を受け持つ[120]。雄勝出張所は1972年(昭和47年)5月1日に同組合石巻消防署雄勝出張所として開設されて、1982年(昭和57年)4月1日から同組合女川消防署の管轄下に置かれていたが、2019年(平成31年)4月1日に雄勝出張所が新築移転するのに伴い、河北消防署所属となった。
石巻市例規「石巻市消防団の組織等に関する規則」(令和6年7月1日施行)によれば、消防団は石巻消防団雄勝地区団の管轄となっており、下部組織に第1分団(雄勝・水浜・分浜・明神・小島)、第2分団(船越・名振・立浜・大浜)、第3分団(大須)、第4分団(熊沢・桑浜)が設置されている[121]。分団の下には班が設置されている[121]。
地名
町・字
雄勝地区は12大字3町をもって編成される。域内の町・字はすべてが旧雄勝町の町・字を継承したものであり、名称に「雄勝町」を冠する[81]。以下に町・大字の一覧を挙げる。小字レベルの詳細は石巻市の町・字一覧を参照。
行政区
石巻市は世帯数及び人口の調査、世帯台帳の整備、市行政の周知、連絡、通知のための公文書の配布伝達を円滑に行うために、行政区を定めている[122]。石巻市例規「石巻市行政委員規則」によると、雄勝地区には以下のような行政区が設置されている[122]。
- 名振
- 船越
- 荒
- 大須上
- 大須下
- 大須船隠
- 熊沢
- 羽坂
- 桑浜
- 立浜・大浜
- 雄勝中央
- 味噌作・原
- 小島
- 明神
- 船戸
- 唐桑
- 水浜
都市開発
土地区画整理事業
雄勝地区では1960年(昭和35年)に発生したチリ地震津波により壊滅した市街地の整備を目的として、同年7月21日に災害復興土地区画整理事業の区域を大字雄勝字伊勢畑、同字上雄勝、同字下雄勝の各一部とすることが決定され、12月6日に事業が認可された[94]。事業区域の面積は12.1haにのぼり、土地区画整理事業に伴う換地処分は1998年(平成10年)1月30日に実施された[94]。
防災集団移転促進事業
| 画像外部リンク | |
|---|---|
| 雄勝地区内における災害危険区域図 | |
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石巻市半島部防災集団移転促進事業計画の一環で雄勝地区では名振、船越、大須、熊沢、羽坂、桑浜、立浜、大浜、小島、明神、伊勢畑、下雄勝、上雄勝、船戸、寺、折下、小渕・味噌作、唐桑、水浜、分浜、波板の各部落が移転促進区域に指定され高台移転や内陸移転が実施された[123][124][125][126][127][128]。また先に述べた移転促進区域は2012年(平成24年)12月1日より全域が災害危険区域として告示され、区域の告示期間中、住居の用に供する施設を建設することができない[123][124][125][126][127][128][129]。
教育
中学校
小学校
廃校
- 石巻市立雄勝中学校 - 1947年(昭和22年)創立[131]。2017年(平成29年)閉校[100]。
- 石巻市立大須中学校 - 1958年(昭和33年)、船越中学校大須分校が大須中学校として独立[132]。2017年(平成29年)閉校[100]。
- 雄勝町立船越中学校 - 1947年(昭和22年)創立[133]。1982年(昭和57年)閉校[134]。
- 石巻市立雄勝小学校 - 1873年(明治6年)5月2日創立[135][134]。2017年(平成29年)閉校[100]。2025年現在存在する雄勝小学校は本校と大須小学校が統合されて新しくできた小学校である[136]。
- 石巻市立大須小学校 - 1949年(昭和24年)11月1日、船越小学校大須分教場が大須小学校として独立[135]。2017年(平成29年)閉校[100]。
- 石巻市立船越小学校 - 1915年(大正4年)4月1日、雄勝小学校より船越小学校が独立[135][137][136]。2013年(平成25年)閉校[134]。
- 雄勝町立桑浜小学校 - 1962年(昭和37年)4月1日、大須小学校桑浜分校が桑浜小学校として独立[138]。2002年(平成14年)に閉校[136]。2025年現在は体験型宿泊施設MORIUMIUS LUSAILとして整備されている[139]。
- 雄勝町立水浜小学校 - 1949年(昭和24年)11月1日、雄勝小学校水浜分教場が水浜小学校として独立[140]。2002年(平成14年)閉校[134]。
- 雄勝町立船越小学校名振分校[141]
- 雄勝町立船越小学校立浜分校[142]
交通
世帯数と人口
域内の町丁・大字の2025年(令和7年)4月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[13]。
| 大字 | 世帯数(戸) | 人口(人) |
|---|---|---|
| 雄勝町伊勢畑 | 1 | 1 |
| 雄勝町大須 | 146 | 250 |
| 雄勝町大浜 | 17 | 40 |
| 雄勝町雄勝 | 98 | 158 |
| 雄勝町小島 | 59 | 69 |
| 雄勝町上雄勝 | 0 | 0 |
| 雄勝町熊沢 | 36 | 58 |
| 雄勝町桑浜 | 46 | 81 |
| 雄勝町下雄勝 | 3 | 4 |
| 雄勝町立浜 | 23 | 58 |
| 雄勝町名振 | 30 | 54 |
| 雄勝町船越 | 41 | 84 |
| 雄勝町水浜 | 46 | 79 |
| 雄勝町明神 | 13 | 27 |
| 雄勝町分浜 | 18 | 32 |
人口等の推移
国勢調査によると桃生郡雄勝町および石巻市雄勝地区の人口推移は以下の通りである[14][17][145]。
| 1920年 | 7,737人 | |
| 1925年 | 8,519人 | |
| 1930年 | 8,511人 | |
| 1935年 | 9,058人 | |
| 1940年 | 8,959人 | |
| 1945年 | 9,794人 | |
| 1950年 | 10,982人 | |
| 1955年 | 11,214人 | |
| 1960年 | 11,179人 | |
| 1965年 | 10,248人 | |
| 1970年 | 9,312人 | |
| 1975年 | 8,596人 | |
| 1980年 | 7,851人 | |
| 1985年 | 7,160人 | |
| 1990年 | 6,544人 | |
| 1995年 | 5,840人 | |
| 2000年 | 5,239人 | |
| 2005年 | 4,694人 | |
| 2010年 | 3,994人 | |
| 2015年 | 1,021人 | |
| 2020年 | 1,031人 |
国勢調査によると桃生郡雄勝町および石巻市雄勝地区の高齢者人口比率の推移は以下の通りである[14][17]。
| 1960年 | 6.3% | |
| 1965年 | 7.7% | |
| 1970年 | 9.4% | |
| 1975年 | 11.2% | |
| 1980年 | 13.1% | |
| 1985年 | 15.6% | |
| 1990年 | 19.4% | |
| 1995年 | 25.1% | |
| 2000年 | 31.6% | |
| 2005年 | 35.9% | |
| 2010年 | 41.9% | |
| 2015年 | 55.3% | |
| 2020年 | 58.0% |
寺社仏閣
寺院
神社
| 社名 | 所在集落 | 祭神 | 祭日 | 出典 |
|---|---|---|---|---|
| 山祇神社 | 名振 | 大山祇神 | 9月18日 | [147] |
| 八雲神社 | 船越 | 須佐男尊 | 6月15日 | [148] |
| 船越神社 | 大綿津見神 | 2月18日 | [148] | |
| 熊野神社 | 荒 | 伊邪那岐尊 | 3月9日 | [148] |
| 八幡神社 | 大須 | 誉田分神 | 3月15日・9月15日 | [148] |
| 五十鈴神社 | 熊沢 | 天照大神 | 3月21日・9月11日 | [149] |
| 白銀神社 | 羽坂・桑浜 | 金山彦神・金山姫神 | 3月19日 | [149] |
| 北野神社 | 立浜 | 菅原道真 | 3月25日 | [149] |
| 大浜神社 | 大浜 | 少名毘古那神 | 4月8日 | [150] |
| 八雲神社 | 小島 | 須佐男尊 | 6月15日 | [150] |
| 塩釜神社 | 明神 | 塩土老翁命 | 4月25日 | [150] |
| 熊野神社 | 雄勝 | 伊邪那美 | 3月11日 | [151] |
| 新山神社 | 伊邪那岐・伊邪那美 | 10月19日 | [151] | |
| 神明社 | 船戸 | 天照大神 | 1月21日 | [151] |
| 作楽神社 | 水浜 | 木花咲耶姫 | 9月17日 | [152] |
| 八雲神社 | 波板 | 須佐男尊 | 6月15日 | [152] |
| 五十鈴神社 | 分浜 | 天照大神 | 9月21日 | [152] |
文化

伝統芸能
- 名振のおめつき - 毎年1月24日に開催される名振秋葉神社の火伏せ祭りである[89]。丁印しと呼ばれる飾りものを先頭に山車が町中を練り歩き、火伏せ・大漁・家内安全などを祈願する祭りである[89]。祭りの一環として、時の社会問題等を題材にし、見物客を巻き込んだ寸劇が行われる[89]。天明1年(1781年)に名振浜を焼き尽くした大火からの復興と防火を祈願して翌々年から開始されたと伝えられている[89]。近年では高齢化により、2020年(令和2年)から2025年(令和7年)に至るまで山車の運行とメインの寸劇が中止されており神事のみの実施となっている[153]。
- 雄勝法印神楽 - 羽黒派系統の法印神楽であり、1996年(平成8年)12月20日に国の重要無形民俗文化財に指定された[154][8]。
