青山幸宜

From Wikipedia, the free encyclopedia

生年月日 1855年1月8日
嘉永7年11月20日
没年月日 (1930-02-06) 1930年2月6日(75歳没)
青山 幸宜
あおやま ゆきよし
生年月日 1855年1月8日
嘉永7年11月20日
出生地 江戸幕府美濃国郡上郡八幡城下(現:岐阜県郡上市八幡町)
没年月日 (1930-02-06) 1930年2月6日(75歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市牛込区市ヶ谷台町(現:東京都新宿区
所属政党 研究会
称号 正二位
勲三等旭日中綬章
子爵
在任期間 1890年7月10日 - 1925年7月9日
テンプレートを表示
 
青山幸宜
時代 江戸時代後期 - 昭和時代
生誕 嘉永7年11月20日1855年1月8日
死没 昭和5年(1930年2月6日
改名 峯之助(幼名)、幸宜
戒名 院殿翼齋大居士
墓所 梅窓院浄土宗
官位 正二位大膳亮子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇昭和天皇
美濃郡上藩
氏族 青山氏
父母 父:青山幸哉、養母:戸田氏庸の娘
兄弟 幸宜、澄子、禄子、錫子、鈎子
定子広幡忠礼の娘)
待子井伊直弼の娘)
文子藤堂高邦の娘)
幸正、幸直幸泰岩城隆徳、幸高、中井幸敬、孝子
テンプレートを表示

青山 幸宜(あおやま ゆきよし、1855年1月8日嘉永7年11月20日〉- 1930年昭和5年〉2月6日)は、江戸時代末期の大名美濃国郡上藩第7代(最後)の藩主。幸成系青山家11代。明治維新後は華族子爵)に列し、貴族院議員を務めた。

1855年1月8日(嘉永7年11月20日)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生した。幼名は峯之助。1863年文久3年)、父の死去により家督を継ぐ。

1864年元治元年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、1868年慶応4年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津若松城で戦うなどしている。

1869年明治2年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、1871年(明治4年)の廃藩置県で免職された。1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、同年7月8日に子爵を叙爵[1]。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた[2]1890年(明治23年)7月10日に貴族院議員に就任し[2][3]1925年大正14年)7月9日まで5期在任した[3]。このほか、赤坂区会議員[3]東京市会議員を務めた[4]

1930年(昭和5年)2月6日、死去。享年77。墓所は東京都港区南青山梅窓院

栄典

位階
爵位
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1906年(明治39年)4月1日 勲四等旭日小綬章[12]
1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章[13]
1914年(大正3年)6月18日 勲三等瑞宝章[14]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[15]
1916年(大正5年)4月1日 旭日中綬章[16]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[17]
1930年(昭和5年)2月6日 帝都復興記念章[18]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1905年(明治38年)10月20日 大韓帝国 勲三等八卦章[19]
賞杯等

人物

市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。

幸宜の従兄弟で、旧篠山藩主子弟の青山忠誠が藩内の子弟(のちに兵庫県居住者の子弟)のために東京に建てた寄宿舎尚志館には、幸宜によって書かれた看板が現在も残っている。[31]

系譜

父母

子女

長男の幸正は、父に先立って1904年(明治37年)に死去した[37]。幸宜の跡は次男の幸直が継ぎ、幸直が1947年(昭和22年)7月に没すると長男の幸壽が跡を継ぐ[37]。幸壽は1986年(昭和61年)に没した[37]

六男の幸高は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。七男の幸敬は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。

脚注

出典

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI