1883年(明治16年)飯久保恒年から嘉納治五郎宛の免状
嘉納が入門してきた経緯は下記の通りである。
1881年(明治14年)に嘉納が学んでいた天神真楊流の三代目家元の磯正智が亡くなったことで、更に師とする人を如何にして求めるかで苦心していたところ、大学で野球を一緒にやる友人で先輩であった山本正久の父の山本正翁が幕府講武所の起倒流柔術の教授方を務めていたという話を聞き流派が異なっていたが教えを乞うた。山本正翁は形の名人であったが乱取はあまり得意ではなく、また柔術を教える気もなかったという。しかし、山本正翁はだんだん嘉納を心配して自分の盛んな時によく出来る先生と思っていた人がいるからと言って同じく幕府講武所教授方を務めていたことがある飯久保を嘉納に紹介した[3]。
嘉納治五郎によると飯久保が教えた起倒流は、絞技や逆技を技を主としていた天神真楊流とは大きく異なっており、天神真楊流で行われた巴投、足払、腰投などの投技も掛け方に違いがあったという。また起倒流の形は天神真楊流とは主眼とするところを異にしていた。
飯久保恒年は当時50歳に近かったが乱取も相当によくできたので最初はなかなか及ばなかったという。
嘉納治五郎は飯久保に就いて熱心に稽古し、本気で新しい研究に没頭し真剣に技を練った。
1882年(明治15年)に嘉納治五郎が講道館柔道を開いた後も起倒流を指導しており、嘉納の書生となっていた富田常次郎や西郷四郎など講道館初期の門人も飯久保から起倒流を学んでいる[3]。
富田常次郎によると、飯久保は駅逓局から根岸の家に帰る途中で永昌寺の講道館に立ち寄って嘉納治五郎と週に二三回稽古をしていた。時には稽古後に嘉納と夕食を共に食べて夜遅くまで話すこともあった。講道館が上二番町に移転した後も起倒流を教えに行っていたが、その頃は衰えて形の稽古が多かったという[2]。
嘉納治五郎は飯久保から1883年(明治16年)に免許を得たが、飯久保からの指導は明治18~19年頃まで続いた[9]。
生前に嘉納治五郎に起倒流に関する伝書の全てを譲って柔術の隆盛を祈った。嘉納は深く飯久保に敬意を表して、起倒流の形には一指も触れずに昔のまま「古式の形」として講道館柔道で伝承した[2]。
飯久保恒年が教えてた起倒流は、立技(投技)に重きを置いておりその技に優れていた。小手先の小さな技や寝技は殆どやらなかった。飯久保は立技の人であったが、特に払腰と横捨身技は独特の妙技であったという[2]。
飯久保は投技の名人であり、嘉納は乱取でよく投げられていた[9]。
飯久保の技量は素晴らしもので「飯久保先生が50歳になるまでは、自分は一本も取り得なかった。」と嘉納治五郎が弟子に語ったことがあるほどの名手であったという[7]。
富田常次郎によると、嘉納治五郎は当時23歳で元気盛んであり天神真楊流も学んで素養を相当に持っていたので飯久保恒年が如何に名人でも全力を挙げて攻め込む勢いに辟易したように見えたが、いつの間にかその所を捉えて嘉納を軽く扱っていたという。また、飯久保が嘉納の腰技に掛かって飛ぶこともよくあったが、年齢のためか稽古中に未だ多く技が出ないうちに息を切らして止めることもあった[2]。
飯久保の起倒流は形や乱取も単に攻撃防御の実用的というよりは、その域を超脱して一種の芸術化した気品の高い稽古風であり、見る者をして思わず知らず無我の境地に引き入れるようであったと富田常次郎は評している[2]。
起倒流の投技は実に巧妙で、特に形に至っては素人だけでなく専門家にすら何故それが投技の稽古になるのか分からないほど玄妙なものがあった[2]。
嘉納治五郎は講道館五十年祭の式辞で、天神真楊流の福田八之助と磯正智、起倒流の飯久保恒年について紹介しており、飯久保は形と乱取において一代の名人であり飯久保のお蔭でそれまで会得し得なかった起倒流の形と投技の微妙な呼吸を悟ることができたと語った[2]。
嘉納治五郎が講道館柔道を起こした頃、飯久保は50歳くらいであったが乱取がなかなか強く嘉納が及ぶところではなかったという[9]。そこで嘉納は人に教えながら、飯久保から形と乱取の指導を受けていた。
1885年(明治18年)ごろに、飯久保と嘉納が乱取をしていると嘉納の投げがよく効いた。今まで嘉納はずいぶん飯久保から投げられていたが、その日はいこれまでと違って飯久保から一本も取られずに嘉納の技がよく効いた。
飯久保は不思議に思って色々と考えていたが、嘉納が自得した「八方の崩し」という相手の体を崩して技を掛けることについての話をしたところ、飯久保は「いかにもその通りである。これから足下に教えるところはない。今後は若いものを相手にますます研究を積むがよい。向後自分との乱取は見合わせましょう。」と言ってこれを最後に乱取を止めたという[9]。その後、飯久保は起倒流の形を中心に嘉納に教えるようになった。
この件があって間もなく、飯久保は嘉納に起倒流の免許状や持っていた伝書の全て授けて免許皆伝を与えた[9]。
明治21年ごろに警視庁で行われた試合で講道館が戸塚派楊心流を破った後、戸塚英美が高弟と共に講道館の教育方法を視察に来た。この時、戸塚英美は嘉納の説明を聞いた後、西郷四郎が乱取しているのを見て「あれが名人というのでしょうな。」と語ったので、嘉納は大いに満足したという[9]。
幕末では戸塚派楊心流は柔術の最大権威であり、嘉納治五郎は師の天神真楊流の福田八之助や起倒流の飯久保恒年から、戸塚派楊心流には強い者がおり幕府の講武所でしばしば戦って苦しめられという話を聞かされていた[9]。
飯久保恒年は一流の奥義を極めた人だけあって時勢や境遇を超越して常に悠揚迫らざる真に古武士的風格を持っていた。嘉納治五郎が入門した時は47歳であったが、顔は面長で眼が長く切れ身長は五尺八寸(175㎝)で立派な体格であった。また、容貌は魁偉、寡黙で謙譲の美徳を持った人であったという[2]。
「柔道」と言う語は、1856年(安政3年)に竹中鉄之助が飯久保恒年に書いた免状で使われている。また、飯久保恒年が嘉納治五郎に授けた免状も竹中鉄之助の書いたものと全く同じ文章である。
起倒流柔道の指南免状
日本傳起倒柔道之専行數年盡精力既被及業熟得候依之向後指南可有之者也仍業免状如件
[10]。
講道館柔道の段位免状
日本傳講道館柔道の修行に精力を盡し大に其の進歩を見たり。依て初段に列す。向後益々研磨可有之者也。
飯久保恒年の明治時代の門人は嘉納治五郎と講道館の初期門人であるが、江戸時代には麻布日ケ窪に道場があって多数の門人がいた。
江戸時代の弟子には、直心影流剣術の榊原鍵吉の門人であった竹本政則[11]や1861年(安政2年)に天神真楊流と試合をした記録が残っている鳥巣幸次郎などがいた[12]。
1889年(明治22年)に嘉納治五郎は柔術・柔道に関する演説と天神真楊流と起倒流の演武を行っている。
演武の内容は、門人たちが天神真楊流の乱捕と起倒流の投合を行い、嘉納自身は天神真楊流の形を解説しながら演武した。
この中で嘉納は天神真楊流と起倒流から講道館柔道を創設した経緯について下記のように解説している。
天神真楊流も既に腐敗したる所があり、また柔術の中で最も高尚な起倒流もまた実際の目的から遠くなっている。起倒流は鎧組打に用い敵手を投げ殺すことを専としており、敵の力量を爪先もしくは踵の如き一局部に集めてこれを蹴り払って打ち倒すものなので受方の拙なる人は頭を砕きもしくは頭骨を打ち折ることを免れない。天神真揚流と同じく十分の能力ある人が十分の工夫を用いて拵えたものなので勿論立派な武芸には相違ないが共にこれを今日に用いるべきではない。取るべき所も少なくないが捨てるべきところもまた多くよって今日まで学習したところの長所と良所を抽出し一つの完全なものを拵えようとしてこの柔道を創設した[13]。