飯久保恒年

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生誕 江戸
死没 1888年4月(明治21年)
東京市下谷区根岸
死因 病没
墓地 不明
いいくぼ つねとし
飯久保 恒年
生誕 江戸
死没 1888年4月(明治21年)
東京市下谷区根岸
死因 病没
墓地 不明
住居 東京市下谷区根岸
国籍 日本の旗 日本
別名 飯久保鍬吉
飯窪鍬吉
職業 武士
講武所柔術教授方
柔術師範駅逓局職員
流派 起倒流柔道竹中派
活動拠点 講道館
身長 五尺八寸(約175㎝)
子供 飯久保ふゆ子(三女)[注釈 1]
飯久保貞次(ふゆ子の配偶者)
親戚 村田林太郎(孫)
飯久保廣嗣(曾孫)
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飯久保 恒年(いいくぼ つねとし)は、日本の柔術家である。本名は飯久保鍬吉である。

講道館柔道を開いた嘉納治五郎の師匠として知られており、現在世界で広く学ばれている柔道に多大な影響を与えた人物である。

江戸時代は武士であり幕府講武所の柔術教授方であったが、明治維新後駅逓局職員となっていた。

飯久保家の祖先は甲府の出身で代々幕府の旗本であった[1]

飯久保恒年は江戸で生まれ、幼少より竹中鉄之助一清に就いて起倒流柔道竹中派を学んだ。

1856年(安政3年)に竹中鉄之助より起倒流の免許皆伝を授かった。

後、麻布日ケ窪に道場を開いて柔術を教えてた。また幕府の講武所で起倒流の教授方を務めて名声を得ていた。

1868年(慶応4年)明治維新の際に徳川家に従って静岡県に移住したが、明治の初年に再び上京して駅逓局に就職した[2]

1881年(明治14年)頃から嘉納治五郎に竹中派の起倒流柔道を教授した[3]

1882年(明治15年)嘉納治五郎が下谷北稲荷町の永昌寺に講道館を開いたので、飯久保は形と乱取を教えに行っていた。

1882年(明治15年)飯久保恒年は駅逓局の調整本課に務めていた[4]大内青巒が編纂した駅逓局職員録によると雇月給8円であり、静岡県士族と記されている。

1883年(明治16年)には駅逓局の為替本課に異動している[5]

1883年(明治16年)嘉納治五郎に起倒流の免許皆伝を授け、さらに飯久保が持っていた起倒流の全ての伝書を譲った[注釈 2]

1888年4月(明治21年)53歳で亡くなった[2][注釈 3]

飯久保の葬儀は、谷中 (台東区)で行われた[7]

子孫

飯久保恒年には娘が三人いた。三女の飯久保ふゆ子と結婚した飯久保貞次(三宅貞次)は牧師であった。飯久保ふゆ子と飯久保貞次には五男いた[1]

米国デポー大学終身理事や学校法人青山学院の名誉理事を務め日本における思考技術分野に関するマネジメントコンサルタントの分野で現在も活躍している飯久保廣嗣は飯久保恒年の曾孫である。

飯久保恒年の長女の息子である村田林太郎は飯久保恒年の遺志を継いで柔道家となった[1]。村田林太郎は講道館柔道を学んでおり満州に渡って柔道の普及に務めた後、神奈川県横浜市石崎町に柔道館という道場を開いて柔道を教えていた。神奈川県柔道整復師会の副会長を務めていた[8]


飯久保恒年に関する話

脚注

参考文献

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