香宗我部貞親
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天正19年(1591年)、長宗我部氏重臣・香宗我部親泰の次男として生まれる。幼名は長寿丸。別名に親和。
父と兄が相次いで亡くなったため、文禄元年(1593年)に僅か3歳で家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで主家が改易されると浪人となり、土佐を去って堺に移り住み、その後肥前唐津藩主・寺沢広高に500石で仕える。大坂の陣で従兄弟の長宗我部盛親が豊臣方についたため、中原喜左衛門という変名を名乗っている。
寛永7年(1630年)に寺沢家を辞して再び浪人となり、江戸の知足院で逼塞していたが[2]、親類の春日局の斡旋で寛永12年(1635年)に武蔵川越藩主・堀田正盛に1,000石で召抱えられ、のちに1,300石まで加増される。堀田家の信濃松本藩・下総佐倉藩への転封にも従い、佐倉藩では城代家老を務めた。万治3年(1660年)7月に死去。香宗我部家伝証文は彼によって現在に伝わる。
養子の重親(堀田家臣・高井源左衛門の子)が家督を相続した。同年10月に佐倉藩が改易されると、重親は五十嵐元成・柴田朝意兄弟(母が貞親の従姉妹)を頼って仙台に行き、仙台藩に召抱えられて1,000石余りを与えられた。のちに、重親の実母方の従兄弟であり大老となっていた堀田正俊の要請により古河藩堀田家の客寄となった。長宗我部系の香宗我部氏は伊達藩家臣と堀田藩の家臣との二派に分かれ現在まで続いている[3]。