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馬場貞由

日本の翻訳家 From Wikipedia, the free encyclopedia

馬場 貞由(ばば さだよし、天明7年〈1787年〉 - 文政5年7月27日〈1822年9月12日〉)は、江戸時代後期のオランダ通詞、蘭学者[1]。通称は佐十郎(さじゅうろう)、洋称はアブラハム(Abraham)、号は穀里(こくり)[1]。

生誕 千之助
1787年(天明7年)
長崎
死没 1822年(文政5年)9月12日
江戸
研究分野 蘭学、天文学、化学、ロシア語
概要 馬場 貞由, 生誕 ...
馬場 貞由
生誕 千之助
1787年(天明7年)
長崎
死没 1822年(文政5年)9月12日
江戸
研究分野 蘭学、天文学、化学、ロシア語
研究機関 天文方蕃書和解御用
影響を受けた人物 志筑忠雄
影響を与えた人物 宇田川榕庵、小関三英、佐々木中沢、杉田立卿
主な受賞歴 従五位
プロジェクト:人物伝
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『厚生新編』(ショメール百科事典)など多数の洋書の翻訳、ジェンナー種痘法の紹介、オランダ語、ロシア語の研究で知られ、幅広い分野で活躍した。オランダ語、フランス語、英語、ロシア語を操り、「語学の天才」と称された。また、蘭学塾「三新堂」を開き、門人には宇田川榕庵、杉田立卿らがいる。

生涯

誕生

長崎の裕福な商人・三栖谷(みくりや)敬平の子として生まれる[2]。幼名は千之助、成人して貞由と名乗る[1]。幼少のころの佐十郎については詳細が不明とされる[3]。

教育

1799年頃、実兄の馬場貞歴(為八郎)の養子となる[4]。1803年、大槻玄沢の実子大槻玄幹の勧めもあり志筑忠雄に師事した[5][6][7]。志筑忠雄の門人の中でも三俊の一人とされ、「語学の天才」と称された[8][7]。オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフからオランダ語とフランス語を学び、オランダ商館次席のヤン・コック・ブロンホフからは英語を学んだ[9][3]。ドゥーフからはアブラハム(Abraham)というオランダ雅名を授けられており、佐十郎は署名にも使用している[3]。

江戸への出仕

1807年に幕府より西洋の地図、書物の内容を踏まえた世界地図の作成、外国の地誌調査を命じられた天文方の高橋景保は、蘭書の翻訳に協力させるため、当時22歳であった佐十郎を江戸に呼び寄せた[10]。これを受け、佐十郎は1808年に江戸に出府する[10][11][3]。当時、兄・養父の為八郎がロシアに関する調査のために江戸に呼び寄せられていたが、1808年蝦夷地出張を命じられ松前に派遣されたため、佐十郎は為八郎の仕事を引き継ぐ形となった[12]。この時、オランダ商館長ドゥーフの日誌には「小通詞為八郎の息子で稽古通詞の佐十郎が今朝江戸へ向けて出発した」(1808年4月30日)と記されており、佐十郎は当時稽古通詞の身分であったとみられている[3]。なお、この年にはすでにオランダ語文法書『蘭語冠履辞考』の原稿を完成させている[13]。

江戸では当時送還されてきていた大黒屋光太夫からロシア語を2年間学ぶ[11]。この頃、浅草の暦局内に蘭学塾「三新堂」を開き、杉田恭卿[注釈 1]、宇田川榕庵らの蘭学者にオランダ語を教えた[11]。

1809年、地誌研究の成果としてロシアの東方進出の歴史についての『帝爵魯西亜国誌』とウィットセンの地理誌『東北韃靼野作雑記訳説』の翻訳を完成させ、オランダ人のアイヌ語の誤訳を指摘している[14][15][9][注釈 2][10]。地図作成においては、佐十郎の協力も受けて、景保が1809年に「新鐫総界全図」、「日本辺界略図」を試作として作成、1810年に「新訂万国全図」を完成させた[16]。この世界地図は、当時の西欧の世界地図や清の西洋刻本のほかに、間宮林蔵の樺太探検の成果などを取り入れた当時としては最先端の地図であったため、刊行後にはこの地図に基づく世界地図が多く作成された[17][18]。また、「新訂万国全図」もその作図、記述の正確さから、明治初年まで長く使用された[19]。

暦の編纂に際して蘭書の詳しい研究、翻訳の必要性があると考えた高橋景保、間重富は天文台(暦局)に翻訳局を設置することをかねてから幕府に対して要望しており、1811年には、暦局内に蕃書和解御用(翻訳局)が設置される[10]。蕃書和解御用の管理は高橋景保が行うことになり、すでに景保の地図作成に協力していた佐十郎もここに勤めることになった[10]。

長崎からは佐十郎を呼び戻す要望があったものの、幕府はそれを拒否し、佐十郎を蕃書和解御用の主任に命じ、大槻玄沢とともに『厚生新編』(ショメール百科事典)の翻訳を開始させた[20][21][22]。1811年から開始された『厚生新編』の翻訳は佐十郎の死後も続けられ、正確な完成時期は不明であるものの少なくとも1845年頃まで約30年間続けられ、江戸時代最大の翻訳事業ともいわれる[23]。

ゴローニン事件

ゴローニン事件が発生すると、ディアナ号の船員から捕らえられたゴローニンらに宛てた手紙が1813年に江戸の天文台蕃書和解御用に届けられた[24]。大黒屋光太夫からロシア語を学び、前述の通りロシア地誌研究で成果をあげていた佐十郎は、その翻訳を命じられた[24]。ロシア語の基礎を学んでいたものの実力は十分でなかった佐十郎は単語ごとの翻訳を行ったうえで、完全に文意は理解できないとして翻訳を提出した[25]。この時、佐十郎はロシア語の辞書の研究、ゴローニン宛の書簡に含まれる単語を捕虜のロシア人に質問することを提言している[26]。その後、佐十郎はゴローニンからロシア語を学習することを命じられ、足立左内とともに松前に派遣された[27][28]。

松前では毎日ゴローニンのもとに通いロシア語を学ぶとともに、ロシアの文献も贈られ、露日対訳語彙書『魯語』などを作成した[27][29]。当時、佐十郎は大黒屋光太夫の指導を受けて作成した簡単な露和辞典を持っており、これに対してゴローニンの増補訂正を受けた[30]。この辞典は1814年に『俄羅斯語小成』(十一巻)として出版される[30]。佐十郎と足立左内は江戸にもどると「魯西亜辞書取調御用」を命じられ、ゴローニンが幽閉中に作成して佐十郎らに授けたロシア語文法書をもとに、1814年に日本で初めてのロシア語文法書である『魯語文法規範』を完成させた[31][32][33]。

ゴローニンは帰国後に日本での体験をもとに日本を紹介する『日本幽囚記』を出版し、当時日本を紹介した書物が少なかったヨーロッパで大きな反響を呼んだ[34][35]。同書は1817年にドイツ訳からさらに重訳されたオランダ語訳が出版され、オランダ商館長が日本に持ち込んだ[36]。1821年、オランダ商館長が江戸に滞在中にゴローニン事件の詳細に通じていたことから佐十郎が同書の存在を知り、借受け翻訳に取り組んだ[36]。その後、翻訳の途中で佐十郎が病死したため、天文方の青地林宗と杉田立卿が高橋景保の監修のもとで1825年に『遭厄日本紀事』として翻訳を完成させた[36]。

1814年、幕臣に取り立てられ小普請組に組み入られて、将軍に拝謁している[37][22]。また、この頃オランダ語文法書『訂正蘭語九品詞』、『和蘭文範摘要』を翻訳している[37]。

『遁花秘訣』の翻訳

1818年、イギリス船ブラザース号が浦賀に入港すると、足立左内とともに浦賀に出向いた[22]。

この時、牛痘の痂皮が入ったガラス瓶などを見せられた[38]。佐十郎はゴローニン事件で松前へ出向いた際、ロシア語通詞の村上貞助から、前年に中川五郎治がロシアから持ち帰った牛痘法についての書物(『牛痘普及により天然痘を完全に逃れる方法』)を見せられ、ロシア人捕虜の一人ムールの協力も受けながら同書の翻訳を開始していた[39]。しかし、翻訳は未完のままになっていたため、この牛痘との出会いをきっかけに翻訳を進めた[38]。1820年には、牛痘法について書かれた『遁花秘訣』を完成させる[38]。『遁花秘訣』はその後、出版されずに写本が伝わるだけだったが、佐十郎の死後、利光仙庵によって『魯西亜牛痘全書』として刊行された[38]。

死去

1822年イギリス船サラセン号が浦賀に入港したため、通訳として宇田川榕庵とともに浦賀へ向かった[40]。

同年7月27日に暦局内で肺病により死去[40]。享年36歳[40]。墓所は宗延寺[40]。諡号は持貞院純信日敬居士[22]。高橋景保による墓碑銘には著書として『蘭学梯航』、『文範示蒙』、『九品一貫』、『冠履辞考』、『冠辞用例』、『三国字韻考』、『西洋度量考』、『和蘭辞類訳名抄』『西説雑記』が挙げられている[40][22]。

1916年、従五位を追贈された[41]。

佐十郎の没後の1828年、シーボルト事件が起こり、兄・養父の馬場為八郎が捕らえられた[42]。1832年には秋田亀田藩の妙慶寺の牢屋に移送され、1838年に死去した[42]。

教育

佐十郎が江戸に勤務していた当時、大槻玄沢の芝蘭堂などの私塾が開かれ、蘭学者は幕府の命を受けて天文台などで翻訳活動などを行う傍ら、私塾で蘭学を教えていた[43]。高橋景保は佐十郎にも私塾の経営を進めたとみられ、佐十郎は天文台の寓居で「三新堂」を開き、オランダ語を教えた[44]。

三新堂での教え子には、宇田川榕庵、杉田立卿、杉田恭卿、高須子成、小関三英、佐々木中沢、藤井方亭、浅越玄隆がいる[11][37][45][46]。杉田恭卿、高須子成は佐十郎の著書『和蘭文範摘要』にその名がみられる[45]。

宇田川榕庵の養父である宇田川玄真は佐十郎とともに『厚生新編』(ショメール百科事典)の翻訳にあたったが、佐十郎からオランダ語の指導を受けていたとみられている[47]。また、榕庵は佐十郎などから学んだ内容をもとに、句読点や疑問符、感嘆符、符号、加減乗除の符号、度数符号について説明した『点類通考』を記している[48]。

中津藩主で「蘭癖大名」の一人とされた奥平昌高の命で編纂された『蘭語訳撰』には佐十郎が序文を寄せており、その中で同書は佐十郎が暗記していたオランダ語を昌高の家臣神谷弘孝に書き写させたものと述べている[49]。さらに大江春塘の編による『バスタールド辞書』にも佐十郎が校訂を行ったことが記されていることから、この三者は佐十郎からオランダ語の指導を受けたとみられている[50][51]。

蘭方医の杉田立卿は天文台にて佐十郎の取り組んでいた『厚生新編』の翻訳を引き継ぎ完成させた[52]。また、蘭学者、蘭方医の青地林宗とともに佐十郎の取り組んでいた『遭厄日本紀事』(ゴローニンの『日本幽閉記』の訳書)の翻訳を継いで完成させた[52][53]。なお、林宗が蘭学を学んだ先としては、馬場佐十郎のほかに杉田氏であったという説もある[53]。

業績

佐十郎は多くの蘭学に関する著書、翻訳書があり、また新訂万国全図など地図の作成にも携わるとともに、辞書の編纂などにも関与した[54][55][56]。

事典

佐十郎は1811年に『厚生新編』の翻訳を命じられ、没年までその翻訳に取り組んだ[57]。また、『厚生新編』を翻訳する傍らで、その一部を抄訳した内容を含む書物も作成している[57]。

  • 『厚生新編』 - 幕府の命でショメールの百科事典を翻訳したもの。佐十郎は大槻玄沢と翻訳に取り組んだが、佐十郎の死後は、宇田川玄真、杉田立卿、大槻玄幹、宇田川榕菴、湊長安、小関三英、大槻玄東、箕作阮浦、杉田成卿、竹内玄同が翻訳にあたった[54][58][22][59]。

語学書

  • 『三国字韻考』[40] - 日・漢・蘭語の発音に関する書物とみられる。大槻玄幹の『西音発微』との関連が指摘されている[60]。

オランダ語

佐十郎はそのオランダ語の能力の高さから、江戸の蘭学界に大きな影響を与えたとされ、大槻玄沢は『蘭訳梯航』のなかで佐十郎の江戸出府により「都下の旧法を廃して新法正式に一変」したと評価している[61]。佐十郎が江戸に呼び寄せられた当時、蘭学者はオランダ語の文法知識が不十分であったため、志筑忠雄やオランダ商館長からオランダ語の教育を受けた佐十郎の影響は大きかった[62]。杉田玄白も「わが子弟孫子、その教へを受くることなれば、各々その真法を得て、正訳も成就すべし」と述べている[62]。

佐十郎の執筆、翻訳した主なオランダ語文法書は以下である[62]。

  • 『蘭語冠履辞考』(1855年頃刊行)[40] - 佐十郎の『蘭語首尾接詞考』(1808年成稿)を整理して出版したオランダ語の文法書[63][13]。
  • 『和蘭辞類訳名抄』(1810年訳)[62][40] - マーリンとハルマによる書に基づき佐十郎が訳編したオランダ語の文法書[64]。
  • 『西文規範』(1811年)[65] - パームの『青年向オランダ文法書』を翻訳したもの。三新堂でのテキストとして使用されたものともみられる[66]。
  • 『訂正蘭語九品集』(1814年成稿)[62] - 志筑忠雄の著書を佐十郎が訂正したオランダ語の文法書[67]。
  • 『和蘭文範摘要』(1814年成稿)[62] - 佐十郎がセウエル著『ガラマチーカ』を借受けて一部を書き写していたものを、のちに加筆修正、口述して三新堂の門下生であった杉田恭卿、高須子成に筆記させたオランダ語文法書[68]。
  • 『蘭学梯航』(1816年成稿)[40] - 佐十郎によるオランダ語の学習書。アルファベットの小文字・大文字筆記体、大文字活字体や音節、九品詞、日常会話例、実用書簡分、名詞の単複、性、その他文法を紹介している。実用会話例はマーリンの文法書の内容に依拠している[69]。

ロシア語

佐十郎は日本初のロシア語文法書を翻訳するなど、ロシア語研究でも広く知られ、日本のロシア語研究の基礎を固めたとされる[70][31]。

ロシア語に関する主な著書、訳書は以下の通り[31]。

  • 『魯語』(1811年成稿) - ゴローニンからロシア語を教授され作成した日露対訳語彙集。約1,170単語が掲載されており、初歩的な会話例もまとめられている[71]。
  • 『魯語文法規範』(1813年序文) - ゴローニンから学んだロシア語をもとにしるした日本で初めてのロシア語文法書[71]。上原熊次郎の協力を得て作成[31]。
  • 『俄羅斯語小成』(1814年刊) - 大黒屋光太夫から学んだ内容をもとに作成した露和辞典をゴローニンの増補改訂を受けて作成したもの[30]。

科学・技術書

佐十郎は科学書、技術書にも多くの翻訳書がある。その内容は天文学、時計、牛痘法、化学(金属・ガラス)、数学、物理学などがある[72]。とくに『遁花秘訣』は日本で最初に牛痘法を伝えた書物として知られる[73]。なお、一部には前述の『厚生新編』を抄訳したものを含む[72]。

科学書、技術書の主な翻訳書は以下[74]。

  • 『硝子製法集説』(1810年成稿)[57] - ガラスについての語源や起源、材料、製法が記された書。ボイス・エグベルト、ケレルク、ショメールの書をもとに作成されている。ヨーロッパ系のガラス製造、加工法を紹介したものとしては江戸時代最高のものとされる[75]。『瑠璃宝鑑』とも呼ばれる。
  • 『天気計儀譯説』(1810訳)[57] - ボイスとショメールの気圧計についての書を佐十郎が訳出したもの[76]。
  • 『泰西彗星論訳草』(1811年訳) - イギリス人マルチンの蘭訳本『窮理全書』のうち彗星に関する内容を抄訳したもの。
  • 『西洋度量考』(1812年編纂)[40] - 志筑忠雄の稿を佐十郎が増補した度量衡についての書[77]。
  • 『新巧暦厄日多国星学訳草』(1812年) - エジプト暦に関する書物[73]。
  • 『綿羊訳説』(1815年成稿) - 大槻玄沢との共訳[78]。ボイスの百科事典を原典とする、紡績技術に関する書[79]。当時幕府の命で綿羊飼育や紡織技術の研究を行っていた渋江長伯の命で翻訳された[80]。
  • 『泰西時規図説』(1817年成稿) - 時計の構造や機能、種類、名称についての書[81]。
  • 『毛織方訳説』(1818年頃成稿) - 大槻玄沢との共訳[82]。ショメールの『日用百科事典』(『厚生新編』の原書)のうち「羊」の項目を抄訳したもの[83]。
  • 『遁花秘訣』(1820年訳了) - 日本初の牛痘法についての書物[65]。択捉島の幕府会所万人小頭であった中川五郎治が持ち帰った牛痘種痘書を佐十郎が訳したもので、原書はペテルブルクの医学館で発行された『牛痘普及により天然痘を完全に逃れる方法』[84]。この書自体は出版されなかったため、吉田藩江戸詰侍医の利光仙庵が校訂して『魯西亜牛痘全書』として刊行した[85]。
  • 『窮理摘要』(1822年訳)[73] - 物理学書[86]。
  • 『泰西七金訳説』(1850年刊行) - 金、銀、銅、鉄、錫、鉛、水銀の産地、種類、製法、性質、効能について記した書。ショメール百科事典の該当項目の内容が訳出されている[87]。
  • 『魯西亜国算学手引草』[73] - 佐十郎が足立左内とともに翻訳したロシアの数学書。ゴローニンから贈られた算術書をもとにしている[88]。

地理書

佐十郎は天文台の蕃書和解御用において多くの西洋書物の翻訳にあたり、当時の世界情勢の把握に努めていた[57]。

特に地誌に関する主な書物は以下である[89]。

  • 『東北韃靼野作雑記訳説』(1809序文) - 東インド会社社長などを務めたウィットセンの著書から蝦夷、千島、樺太、東北韃靼について述べられた箇所を抄訳したうえで、手に入れられる和漢洋の書物を参照して考証したもの[15]。
  • 『帝爵魯西亜国誌』(1810年訳)[90] - ロシアの東方進出の歴史についての書[14][63]。

系譜

  • 父:三栖谷敬平 - 長崎の商人[1]。
  • 母:下川氏を名乗ったとされる[2]。
  • 兄・養父:馬場貞歴(為八郎) - オランダ通詞。通詞株を取得して馬場姓を名乗った。貞歴に子がなかったため、実弟佐十郎が養子となる[91]
  • 最初の妻:間重富の娘 - 早逝[27]
  • 二人目の妻:浅越玄隆(弘前藩士)の娘 - 最初の妻死去後に再婚。玄隆は佐十郎の三新堂で学んだ[27]。
  • 子:間重富の娘との間に二子[92]

脚注

参考文献

外部リンク

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