大槻玄沢
1757-1827, 江戸時代後期の蘭学者
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生涯
一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれる。玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となり、翌年一関に転居する。13歳の時、同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。安永7年(1778年)、22歳の時、江戸への遊学を許されて、清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学び、医術を修めるかたわら、前野良沢にオランダ語を学んだ。安永9年(1780年)には、良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合った。玄沢の遊学期間が終わりに近づいていることを師の良沢が惜しんでいることを知った工藤平助は、藩主田村村隆に遊学延長を願い、その結果期間が天明4年(1784年)まで2年延長され、玄沢の学問は大いに進展したといわれている[5]。28歳になったこの年、父が死去し家督を継ぐことになった。
翌天明5年(1785年)10月、玄沢は長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に到着した。その地でオランダ通詞の本木良永に寄寓し、4ヶ月あまり滞在し、良永や吉雄耕牛らと交わって語学力を磨き、翌年5月に江戸に戻った[6]。天明6年(1786年)、玄沢は本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられたが、玄沢を本藩に推薦し、その実現に尽力したのも平助であった[5]。こうしたことが機縁となり、のちに玄沢と工藤家とは親戚同様の交際をもつようになる。
江戸詰になったのを機に、寛政元年(1789年)、玄沢は江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たった[6]。弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称された。ほかの弟子として宇田川玄随、小石元瑞、中天游らがいる。玄沢は、天明8年(1788年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した[7]。
師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、寛政2年(1790年)改訂に着手した[6]。寛政10年(1798年)の『重訂解体新書』がそれで、改訂作業は文化元年(1804年)にいちおう完了した[6](刊行は文政9年(1826年))。
寛政6年(1794年)のオランダ商館長ヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij)の江戸出府の際、オランダ人一行を定宿の長崎屋に初めて訪れ、対談した玄沢は、これを機にこの年の閏11月11日がグレゴリオ暦で1795年1月1日に当たることから、多くの蘭学者やオランダの文物の愛好家を芝蘭堂に招き、「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いた。オランダ正月はそののち数十年にわたって毎年開かれ、ロシアに漂流したのち帰還した大黒屋光太夫なども招待された。また、オランダ商館長参府一行との対談は、以後、数回にわたっておこなわれ、これらは『西賓対晤』としてまとめられた。
文化元年(1804年)、志村弘強と共に、津太夫を含む漂流者4名の証言を元に、彼らの世界一周の旅(日本人として初めて)を語る『環海異聞』を執筆[8]。
文化8年(1811年)江戸幕府の天文方に出仕して『厚生新編』の訳業に参加した。これは、ショメールの百科事典を翻訳するというもので、のちにその写本をひそかに仙台藩の書庫に収めた[6]。これは『生計纂要』(宮城県指定有形文化財[9])という名称で現在まで伝えられている。
寛政12年12月10日(1801年1月24日)に工藤平助が没すると、玄沢は困窮した工藤家を救うために負債の後始末を含めた援助に尽力をして、文化13年(1816年)3月に刊行された平助の医書『救瘟袖暦』には序を書いている[10]。

