宇野千代
日本の小説家 (1897-1996)
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宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、北原武夫、梶井基次郎、画家の東郷青児など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。
宇野 千代 (うの ちよ) | |
|---|---|
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若き日の宇野千代(1930年代) | |
| 生誕 |
1897年11月28日 |
| 死没 |
1996年6月10日(98歳没) |
| 墓地 | 山口県岩国市教蓮寺 |
| 職業 | 小説家、随筆家、編集者 |
| 国籍 |
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| 最終学歴 | 岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒業 |
| 活動期間 | 1921年 - 1996年 |
| 代表作 |
『色ざんげ』(1933年 - 1935年) 『人形師天狗屋久吉』(1942年) 『おはん』(1947年 - 1957年) 『刺す』(1966年) 『或る一人の女の話』(1971年) 『生きて行く私』(1983年) |
| 主な受賞歴 |
野間文芸賞(1957年) 女流文学賞(1970年) 日本芸術院賞(1972年) 勲三等瑞宝章(1974年) 菊池寛賞(1982年) 文化功労者(1990年) 勲二等瑞宝章(1996年,没後) |
| デビュー作 | 『脂粉の顔』(1921年) |
| 配偶者 |
藤村亮一(1911年 ) 藤村忠(1919年 - 1924年) 尾崎士郎(1926年 - 1930年) 北原武夫(1939年 - 1964年) |
| パートナー | 東郷青児(1930年 - 1934年) |
来歴




成績抜群の少女時代
1897年(明治30年)11月28日、山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西町)で誕生。実家は酒造業を営む裕福な「宇野酒造」だが、宇野本家の次男である父・俊次は生涯生業に就くことはなかった。千代によれば「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人ないし狂人」で、「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし、放蕩を極めた」無頼者。家計は本家からの仕送り頼みで苦しかった。1899年(明治32年)、1歳半の時に実母の土井トモが肺結核で没し、翌1900年(明治33年)、俊次は千代とわずか12歳差の娘・佐伯リュウと再婚。千代はリュウを実母と思って育ち、終生慕っていた。なお、このリュウが代表作『おはん』に登場するおはんのモデルとされる[2]。
1904年(明治37年)岩国尋常小学校(現・岩国市立岩国小学校)入学。小学校時代の成績は全甲で通し、1910年(明治43年)、岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)本科(四年制)進学。第四学年の学籍簿は、一、二、三学期の全15教科の平均点が92点を超え成績抜群だった。在学中は「校友会雑誌」に作文が数回掲載される。1911年(明治44年)11月、14歳で実母トモの姉・藤村カツの長男で、千代の従兄にあたる藤村亮一と結婚するが、婚家の雰囲気に馴染めず、亮一が女通いをしていたこともあり10日ほどで実家へ帰る。1913年(大正2年)、父・俊次没。この頃文学に興味を待ち始め、変名で『女子文壇』などの文芸誌に投稿を始める。
1914年(大正3年)女学校を卒業し、川下村尋常小学校(現・岩国市立川下小学校)の代用教員(全教科)となり、鑓田研一、菊池寛一ら同人7名で回覧文学雑誌『海鳥』を3号まで刊行。だが、同期の新任教師・佐伯正夫と職場恋愛し、教え子に恋文(ラブレター)を運ばせるなどの大胆な行動がスキャンダルとなって1915年(大正4年)秋に免職処分となり、正夫とも破局する。
朝鮮、京都、東京、札幌へ
その後、女学校時代の綴方の女性教師を頼って朝鮮の京城へ出奔し、家庭教師や朝鮮雑誌社社長・
まず、前夫・藤村亮一とその恋人が同棲する浅草の部屋へ忠と転がり込み、湯島天満宮裏、ついで小石川区小石川駕籠町の髪結い床の2階に下宿。東京では、中国人留学生向けの日本語教師、写真モデル、実業之日本社事務員などの職を転々とするなかで『萬朝報』の懸賞小説で何度か賞金10円を得ている。さらに海軍省食堂料理長の西尾益吉が開いた本郷の高級洋食店「燕楽軒」で給仕のアルバイトを18日間している間に、菊池寛や久米正雄、佐藤春夫、芥川龍之介、今日出海ら文士の知遇を得て、今東光とは親交を結んだ[3]。芥川の短編小説『葱』はこの頃の千代と今東光の邂逅をモデルに書かれた。1919年(大正8年)8月、忠の帝大卒業を待って入籍(千代は再婚)。
1920年(大正9年)、忠の北海道拓殖銀行札幌支店への就職に伴い北海道札幌市に転居。文芸同人誌『啓明』(全7号)に参加。貯蓄のため仕立ての請負や頼母子講に精を出す。1921年(大正10年)、『時事新報』の懸賞短編小説に応募した『脂粉の顔』が一等当選し、作家デビュー。賞金は200円で「文章がこんなに金になるのか」と驚き、「なんて儲かるんだ、これは書かなきゃいけない!」と執筆活動に専念[4]。『墓を
尾崎士郎、東郷青児と運命の出会い
岩国から北海道に戻る途中の東京で、御礼と今後の打ち合わせを兼ねて中央公論社に立ち寄った際、居合わせた尾崎士郎を瀧田に紹介され、ひと目惚れ。そのまま士郎の逗留していた菊富士ホテルに同宿する。千代、士郎、東京へ迎えに来た忠と3人で話し合って北海道への帰宅を取りやめ、東京で士郎と同棲を始める[2]。菊富士ホテルのあとは、大森海岸の旅館・三浩館、臼田坂下の下宿屋、大森山王の森の中の家、大森-蒲田間の線路脇の家などをふたりで転々とする。
1923年(大正12年)、荏原郡馬込町の大根畑の中に家を建て、短篇集『脂粉の顔』を改造社から処女出版。士郎との関係がスキャンダルとして報じられるようになる。1924年(大正13年)4月、忠との協議離婚が成立し、士郎と3度目の結婚。筆名も藤村千代から宇野千代に改め、作品集『幸福』を金星堂から刊行する。このころ妊娠。1926年(大正15年)3-9月、士郎とともに故郷岩国の新港に滞在。1927年(昭和2年)、川端康成に誘われ伊豆湯ケ島温泉に初めて逗留し、梶井基次郎、三好達治、藤沢恒夫らと知り合い、特に基次郎と交情を深める。帰京してからも基次郎との交流は続いたことから士郎との関係が悪化。1929年(昭和4年)断髪を実行。萩原朔太郎夫人稲子、川端康成夫人秀子も千代の後に続いて断髪し、馬込文士村の耳目を集める。名作短篇集『新選宇野千代集』を改造社から刊行。
1930年(昭和5年)報知新聞の連載小説『
北原武夫と『スタイル』
1936年(昭和11年)6月、スタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集者を務める。11月『別れも愉し』を第一書房から刊行。1937年(昭和12年)武夫と渋谷区千駄ヶ谷町に転居し、四谷大番町の借家は仕事場に。1938年(昭和13年)、スタイル社から三好達治編集による文芸誌『文體』を創刊するが失敗。1939年(昭和14年)武夫と4度目の結婚。藤田嗣治と吉屋信子の媒酌で帝国ホテルにて結婚披露宴を催し小石川区林町に転居する。
1941年(昭和16年)4月、武夫、三好達治と満州国・中華民国を旅行し、現地の文壇や文化、情勢を視察・取材。北平、天津、大連、奉天、新京などを巡るが、6月、異母弟(三弟)の宇野光雄が危篤となり千代のみ先に帰国、光雄を看取る。広津和郎は千代に「あなたは(母親の違う5人の)弟妹たちを惣領のようによく面倒をみる」と感心していた。1942年(昭和17年)武夫が陸軍歩兵第1連隊から報道班員としてジャワ島に出征。戦時体制による他誌との統合に伴い、敵性語の『スタイル』は『女性生活』と改題し、「スタイル社」も「文體社」となる。1943年(昭和18年)、武夫が復員。『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』を文體社から刊行。1944年(昭和19年)『女性生活』を廃刊し、文體社を解散して熱海の来宮へ疎開。近所に疎開して来た谷崎潤一郎・松子夫妻と交流を深める。1945年(昭和20年)、熱海から、武夫の郷里・栃木県下都賀郡壬生町へ再疎開し終戦を迎える。
1946年(昭和21年)武夫を社長、千代を副社長として、麹町区有楽町の焼け残った時事新報ビルの一室で「スタイル社」を再興。ファッション誌『スタイル』を復刊し、高野三三男の表紙絵も好評で大きな成功を収める[5]。着物のデザインも自ら手掛け、同誌で紹介・販売もした。京橋区尾張町、銀座みゆき通り沿いにスタイル社を移し1階を千代と武夫の自宅とする。翌1947年(昭和22年)に文芸誌『文體』を復刊。1949年(昭和24年)、戦後のライフスタイルに合う新しい着物デザインを追求する「宇野千代きもの研究所」を設立。1950年(昭和25年)、中央区木挽町に自宅を新築し、スタイル社の1階(それまでの自宅)にライフスタイル提案ショップ「スタイルの店」をオープン。洋装とインテリア雑貨の紹介に注力する。
着物デザイナーとしても成功
1951年(昭和26年)宮田文子と2カ月間、パリを拠点にヨーロッパ各地を旅行し、『毎日新聞』に「巴里通信」を寄稿。闘病中の哲学者アランから献辞入り自著を贈られる。同年継母のリュウ死去。1952年(昭和27年)、同業者からの投書による告発をきっかけに国税庁の査察が入ったことで「スタイル社」の脱税が明るみになり、巨額の追徴課税を科される。1955年(昭和30年)、銀座から港区青山南町に転居。1957年(昭和32年)、日本貿易振興会の依頼を受け、米シアトルの国際見本市で着物のファッションショー「International KIMONO show」を開催するため40日間渡米(※シアトル万国博覧会で開催、とする各種記述は間違い)。同年、中央公論社から『おはん』を刊行。同作で第10回野間文芸賞と第9回女流文学者賞を受賞。1959年(昭和34年)「スタイル社」倒産。1968年(昭和38年)2月、雪道で転倒し腰骨を折って東京医科歯科大学附属病院に入院。千代の看病をした「宇野千代きもの研究所」社員の藤江
86歳でミリオンセラー
戦後の千代は作家として10年近く沈黙していた。1960年代から再び書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く執筆した。小説は10年の歳月かけて執筆・推敲された『おはん』のほか、『色ざんげ』(『中央公論』1933年9月-1935年3月連載、4月刊行)、『或る一人の女の話』などがあるものの寡作。1970年(昭和45年)に『幸福』で第10回女流文学賞受賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞を受賞[6]し、同年日本芸術院会員。1973年(昭和48年)、那須高原の映山湖そばに別荘を設ける。1973年(昭和48年)私費を投じて岩国市川西の生家を修復。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表し、勲三等瑞宝章受章。1977年(昭和53年)6月、『宇野千代全集』(中央公論社)全12巻が完結。1982年(昭和57年)には菊池寛賞受賞し、「透徹した文体で、情念の世界を凝視しつづける強靭な作家精神」と評価された。1983年(昭和58年)に発表した自伝的小説『生きて行く私』は100万部を超えるベストセラーになり、以後千代の代名詞となる。1985年(昭和60年)11月には、龍村仁演出・山本陽子司会の「米寿を祝う会」が帝国ホテルで盛大に催される。1990年(平成2年)度の文化功労者に。野上弥生子、円地文子、芝木好子に続き女流作家として4人目の選出となる。1992年(平成4年)4月、日本橋高島屋が「宇野千代展」を開催。6日間でのべ5万人が來場し、死去直前の1996年(平成8年)4-5月には、山梨県立文学館で「宇野千代の世界」展が開催された。
最晩年に到るまで旺盛な活動を続けた、女性実業家の先駆者としても知られ、1967年(昭和42年)、着物関連の事業を一本化して「株式会社宇野千代」を設立。千代のデザインした着物は「宇野千代小紋」として大手百貨店などが取り扱う。結婚離婚を繰り返すたびに自宅を建て替えて、「数えてみると、十一軒建てた勘定になるから」「もう一度、家を建てたい」と家への思いを、「わたしの建てた家」「夏と私の建てた家」「人生とは、行動すること」といった随筆にまとめたり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』というタイトルのエッセイにまとめてしまう愛嬌があった。
1996年(平成8年)6月10日、急性肺炎のため港区の虎の門病院で死去[1]。享年100(満98歳没)。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と命名された[7]。通夜・密葬が6月14-15日に「桐ケ谷斎場」で営まれ、6月29に「青山葬儀所」にて《お別れの会》が開かれ1300人余が弔問に訪れた。墓所は岩国市の宇野家菩提寺・教蓮寺。千代の著作権は秘書の藤江淳子が継承した。
1978年(昭和53年)5月に新築し、終の棲家となった南青山の自宅ビルは、千代の没後にリノベーションされて賃貸オフィス「DeLCCS南青山(デルックス南青山)」となり、3階の千代旧宅は女性専用のシェアハウス「東京コマドリ南青山3丁目」としても活用されたが[8]、一帯の再開発に伴いビルは2023年(令和5年)に解体。2026年(令和8年)三井不動産が38階建ての高層複合施設「表参道 Grid Tower」をオープンした[9]。
薄墨桜に命を吹き込む
1968年(昭和43年)岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)に「薄墨桜」を初めて見に行く。「薄墨桜」は樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木だが、1959年(昭和34年)に発生した伊勢湾台風で甚大な被害を受け、既に枯死寸前だった。小林秀雄からこの老木の存在を聞いた千代は現地でその惨状に心を痛め、全国規模の募金活動や寄付を提唱。雑誌にもたびたび「薄墨桜」にまつわるエッセイを寄稿した。さらに当時の岐阜県知事・平野三郎に保護を直訴。この行動をきっかけに専門家による診断や大規模な保護・蘇生措置が実現して樹勢が回復し、現在の姿が守られた。[10]。1974年(昭和49年)、小説『薄墨の桜』を新潮社から刊行。本巣市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品を展示している[11]。「桜は、私の故郷の花であった。私の心の花であったのである」「さくらは幸福の花。私は桜が大好き」と記したように、桜は千代の好んだモチーフで、着物のデザインのほか身の回りの品にも桜のデザインを採り入れた。生家の庭と教蓮寺の千代の墓には、のちに淡墨桜の苗木が植えられた
多治見市の美濃焼陶磁器商社ヤマカ陶器は1990年(平成2年)から2008年(平成20年)まで、生前の千代に監修を依頼した淡墨桜モチーフの和洋食器セットを発売。毎年新しいデザインを発表するヒットシリーズとなった[12]。現在は瀬戸焼・美濃焼の企画卸・製造を行う陶磁器商社アイトーが、正式なライセンス保有者として「宇野千代」ブランドの食器シリーズを継承。「花笑み」「花和み」といった桜柄のうつわを企画・販売している[13]。また、日本香堂は2003年(平成15年)から、正規の許諾を得て、宇野千代プロデュース線香「薄墨の桜シリーズ」を発売している[14]。
人物
年譜



- 1911年(明治44年) - 従兄の藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する。
- 1913年(大正2年) - 父・俊次が57歳で没。
- 1914年(大正3年) - 岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。
- 1915年(大正4年) - 鑓田研一らと回覧雑誌を作る。同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。
- 1916年(大正5年) - 帰国し、亮一の弟の忠が第三高等学校学生だったので共に京都へ行き同棲。
- 1917年(大正6年) - 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。
- 1919年(大正8年) - 忠と再婚し藤村姓となる。
- 1920年(大正9年) - 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮らす。
- 1921年(大正10年) - 『脂粉の顔』が「時事新報」懸賞で一等に。二等は尾崎士郎、選外佳作に横光利一。
- 1922年(大正11年) - 滝田樗陰に送った原稿の返事がなく上京。『墓を發く』が中央公論に掲載されたことを知る。岩国へ里帰りし北海道への帰途、上京。尾崎士郎と同棲を始める。
- 1923年(大正12年) - 尾崎とともに馬込に住み小説を発表する。短編集『脂粉の顔』を上梓。
- 1924年(大正13年) - 忠と協議離婚。筆名を宇野千代に改める。吉屋信子と親しくなる。
- 1926年(大正15年) - 尾崎と正式に結婚。
- 1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。
- 1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲。尾崎とは正式に離婚。
- 1933年(昭和8年) - 『色ざんげ』を発表。
- 1934年(昭和9年) - 東郷とともに麻雀賭博に参加していた容疑で検挙[18]。同年、東郷と別れる。
- 1936年(昭和11年) - 「スタイル」誌を創刊。
- 1939年(昭和14年) - 北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治。
- 1947年(昭和22年) - スタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を始める。
- 1949年(昭和24年) - 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾する。
- 1951年(昭和26年) - フランス旅行。
- 1957年(昭和32年) - 『おはん』を上梓、野間文芸賞を受賞。
- 1959年(昭和34年) - スタイル社が倒産。
- 1964年(昭和39年) - 北原と離婚。
- 1966年(昭和41年) - 『刺す』を上梓。
- 1971年(昭和46年) - 女流文学賞を受賞。
- 1972年(昭和47年) - 芸術院賞受賞、芸術院会員。
- 1974年(昭和49年) - 勲三等瑞宝章受章。
- 1977年(昭和52年) - 『宇野千代全集』の刊行始まる。
- 1982年(昭和57年) - 菊池寛賞受賞。
- 1983年(昭和58年) - 『生きて行く私』を刊行。
- 1990年(平成2年) - 文化功労者。
著作
- 『脂粉の顔』(藤村千代名義、1923年 国立国会図書館書誌ID:000000590805)
- 『幸福』(金星堂、1924年 000000596494)
- 『白い家と罪』(新潮社、1925年 000000551566)
- 『現代短篇小説選集 2 晩唱』(文芸日本社、1925年 000000596861)
- 『罌粟はなぜ紅い』(中央公論社、1930年 000000745452)
- 『オペラ館サクラ座』(改造社、1934年 000000781005)
- 『色ざんげ』(中央公論社、1935年 000000738824 / 角川文庫、1955年 000000934591 / 潮文庫、1973年 000001296682)
- 新版(新潮文庫、2026年8月 ISBN 978-4-10-102704-3)
- 『あひびき』(新陽社、1936年 000000704966)
- 『別れも愉し』(第一書房、1936年 000000706809 / 集英社文庫、1991年9月 ISBN 4-08-749744-5)
- 『雌雄』(中央公論社、1936年4月 000009993190)
- 『ひとの男』(版画荘、1937年 000000730506)
- 『戀愛讀本』(中央公論社、1937年5月 000009993191)
- 『月夜』(中央公論社、1938年 000000724765)
- 『恋の手紙』(中央公論社、1939年 000000713287)
- 『女の愛情』(鱒書房、1939年 000000714193)
- 『ある客間での物語』(スタイル社出版部、1941年 000000693185)
- 『日露の戦聞書』(文体社、1943年 000000693186)
- 『人形師天狗屋久吉』(文体社、1947年 000000872004)
- 『わたしの青春物語』(酣灯社、1947年 000000689321)
- 『ピイピイ三吉』(國民圖書刊行會、1947年5月 000008508678)
- 『私のお化粧人生史』(中央公論社、1955年 000000942209 / 中公文庫、1984年6月 ISBN 4-12-201127-2)
- 『おはん』(中央公論社、1957年 000000965285 / 中公文庫、1958年 000000984401 / 新潮文庫、1965年 000001071266)
- 改版(中公文庫、2008年12月 ISBN 978-4-12-205084-6)
- 『きもの読本』(長嶋書房、1957年 000000963892 / ダヴィッド社、1958年 000000984366)
- 『白鳥の王子』(講談社、1959年3月 000008186748)
- 『女の日記』(講談社、1960年 000001013136 / 講談社文芸文庫、1991年8月 ISBN 4-06-196138-1 / 講談社文庫、2026年7月 ISBN 978-4-06-542372-1)
- 『刺す』(新潮社、1966年 000001077751)
- 『人形師天狗屋久吉・刺す』(集英社文庫、1978年3月 000001369144)
- 『風の音』(中央公論社、1969年 000001262955)
- 『おはん・風の音』(中公文庫、1975年 000001307450)
- 『親しい仲 宇野千代随筆集』(講談社、1970年 000001241017)
- 『貞潔 宇野千代短編小説集』(講談社、1970年 000001265368)
- 『天風先生座談』(二見書房、1970年 000001272012 / 広済堂文庫、1987年7月 ISBN 4-331-65023-5)
- 改訂版(廣済堂文庫、2008年3月 ISBN 978-4-331-65424-8)
- 『私の文学的回想記』(中央公論社、1972年 000001264470 / 中公文庫、2014年6月 ISBN 978-4-12-205972-6)
- 改題『思いのままに生きて』(集英社文庫、1998年10月 ISBN 4-08-748871-3)
- 『或る一人の女の話』(文藝春秋、1972年 000001266461)
- 『或る一人の女の話・刺す』(講談社文芸文庫、1989年11月 ISBN 4-06-196061-X)
- 『雨の音』(文藝春秋、1974年 000001257533 / 講談社文芸文庫、1989年6月 ISBN 4-06-196046-6)
- 『或る一人の女の話・雨の音』(文芸春秋、1983年3月 000001609175)
- 『恋は愉しいか』(大和書房、1974年 000001262196)
- 改題『自伝的恋愛論』(大和書房 女性論文庫、1983年5月 000001626327 / ダイワアート 大和文庫、1984年6月 000001703127)
- 新装版(大和書房、1996年7月 ISBN 4-479-01091-2)
- 改題『自伝的恋愛論』(大和書房 女性論文庫、1983年5月 000001626327 / ダイワアート 大和文庫、1984年6月 000001703127)
- 『八重山の雪』(文藝春秋、1975年 000001256809)
- 『薄墨の桜』(新潮社、1975年 000001264106 / 集英社文庫、1979年3月 000001408275 / 集英社文庫、2007年10月 ISBN 978-4-08-746227-2)
- 『ママの話』(中央公論社、1976年 000001259858)
- 『往復書簡』(中里恒子共著、文藝春秋、1976年 000001268318 / 講談社文芸文庫、2008年4月 ISBN 978-4-06-290009-6)
- 『水西書院の娘』(中央公論社、1977年3月 000001352046 / 中公文庫、1981年4月 000001500449)
- 『或る日記』(集英社、1978年4月 000001370882)
- 『大人の絵本』(成瀬書房、1978年8月 000001869867 / 角川春樹事務所、1997年8月 ISBN 4-89456-036-4)
- 『残ってゐる話』(集英社、1980年1月 000001443036)
- 『残っている話』(集英社文庫、1983年12月 ISBN 4-08-750701-7)
- 『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1980年4月 000001450370 / だいわ文庫、2026年6月 ISBN 978-4-479-32168-2)
- 『青山二郎の話』(中央公論社、1980年11月 000001484385 / 中公文庫、1983年11月 ISBN 4-12-201072-1)
- 改版(中公文庫、2004年9月 ISBN 4-12-204424-3)
- 『悪徳もまた』(新潮社、1981年5月 000001504293 / 新潮文庫、1984年3月 ISBN 4-10-102703-X)
- 『或るとき突然』(中央公論社、1981年10月 000001529614 / 中公文庫、1984年10月 ISBN 4-12-201161-2)
- 『幸福を知る才能』(海竜社、1982年8月 ISBN 4-7593-0070-8 / 集英社文庫、1989年5月 ISBN 4-08-749461-6)
- 新版(海竜社、2005年2月 ISBN 4-7593-0864-4)
- 『生きて行く私』(毎日新聞社、1983年8月 上巻・下巻 000001633307 / 毎日新聞社 ミューブックス、1990年1月 上巻 ISBN 4-620-72035-6 ・ 下巻 ISBN 4-620-72036-4 / 中公文庫、1992年1月 ISBN 4-12-201867-6 / 角川文庫、1996年2月 ISBN 4-04-108602-7)
- 新装版(毎日新聞出版、2026年4月 上巻 ISBN 978-4-620-10883-4 ・ 下巻 ISBN 978-4-620-10884-1)
- 『続 幸福を知る才能』(海竜社、1984年1月 ISBN 4-7593-0083-X)
- 改題『生きていく願望』(集英社文庫、1989年11月 ISBN 4-08-749516-7)
- 『或る男の断面』(講談社、1984年3月 ISBN 4-06-201051-8 / 中公文庫、2011年10月 ISBN 978-4-12-205554-4)
- 『生きて行く私 人生相談篇』(毎日新聞社、1984年9月 000001700699)
- 改題『宇野千代の人生相談』(広済堂文庫、1992年7月 ISBN 4-331-65147-9)
- 『私はいつでも忙しい』(中央公論社、1984年10月 ISBN 4-12-001327-8 / 中公文庫、1988年2月 ISBN 4-12-201496-4)
- 改版(中公文庫、2004年3月 ISBN 4-12-204341-7)
- 『私は幸福昔もいまもこれからも』(海竜社、1985年2月 ISBN 4-7593-0117-8)
- 『私のおとぎ話』(中央公論社、1985年2月 ISBN 4-12-001371-5 / 文芸社、2011年1月 ISBN 978-4-286-10340-2)
- 『私のきもの人生』(鎌倉書房、1985年5月 ISBN 4-308-00358-X)
- 『幸福は幸福を呼ぶ』(海竜社、1986年4月 ISBN 4-7593-0129-1 / 広済堂文庫、1987年2月 ISBN 4-331-65010-3 / 集英社文庫、1997年10月 ISBN 4-08-748701-6)
- 新装版(廣済堂あかつき出版事業部 なでしこ文庫、2009年1月 ISBN 978-4-331-65443-9)
- 『私の作ったお惣菜』(海竜社、1986年9月 ISBN 4-7593-0158-5 / 集英社文庫、1994年12月 ISBN 4-08-748260-X)
- 『普段着の「生きて行く私」』(毎日新聞社、1986年11月 ISBN 4-620-30544-8 / 集英社文庫、1990年8月 ISBN 4-08-749625-2)
- 『しあはせな話』(中央公論社、1987年5月 ISBN 4-12-001577-7 / 中公文庫、1995年1月 ISBN 4-12-202219-3)
- 『倖せを求めて生きる』(海竜社、1987年10月 ISBN 4-7593-0192-5 / 集英社文庫、1991年2月 ISBN 4-08-749679-1)
- 『行動することが生きることである』(海竜社、1988年10月 ISBN 4-7593-0218-2 / 集英社文庫、1993年10月 ISBN 4-08-748087-9)
- 『宇野千代振袖櫻――ちょっと自伝』(聞き手三宅菊子、マガジンハウス、1989年3月 ISBN 4-8387-0054-7)
- 『一ぺんに春風が吹いて来た』(中央公論社、1989年6月 ISBN 4-12-001812-1 / 中公文庫、1994年3月 ISBN 4-12-202080-8)
- 『私のしあわせ人生』(毎日新聞社、1990年6月 ISBN 4-620-30744-0 / 集英社文庫、1993年2月 ISBN 4-08-749896-4)
- 『恋愛作法』(海竜社、1991年1月 ISBN 4-7593-0275-1 / 集英社文庫、1994年5月 ISBN 4-08-748166-2)
- 『生きる幸福老いる幸福』(海竜社、1992年3月 ISBN 4-7593-0308-1 / 集英社文庫、1995年3月 ISBN 4-08-748316-9 / 海竜社、2018年1月 ISBN 978-4-7593-1591-2)
- 『私は夢を見るのが上手』(中央公論社、1992年12月 ISBN 4-12-002174-2 / 中公文庫、1996年9月 ISBN 4-12-202686-5)
- 『私の幸福論』(海竜社、1993年1月 ISBN 4-7593-0335-9 / 集英社文庫、1996年7月 ISBN 4-08-748498-X / 文春文庫、2026年8月 ISBN 978-4-16-792549-9)
- 『幸福に生きる知恵』(講談社、1993年5月 ISBN 4-06-206484-7 / 講談社文庫、1997年5月 ISBN 4-06-263512-7)
- 『私の長生き料理』(海竜社、1993年6月 ISBN 4-7593-0350-2 / 集英社文庫、1998年2月 ISBN 4-08-748751-2)
- 『私の作ったきもの』(海竜社、1994年5月 ISBN 4-7593-0382-0)
- 『人生学校』(海竜社、1994年11月 ISBN 4-7593-0405-3 / 集英社文庫、1998年6月 ISBN 4-08-748793-8)
- 『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社、1995年12月 ISBN 4-7593-0449-5 / 集英社文庫、1999年6月 ISBN 4-08-747060-1)
- 『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1996年7月 ISBN 4-479-01090-4)
- 『不思議な事があるものだ』(中央公論社、1996年7月 ISBN 4-12-002607-8 / 中公文庫、1999年9月 ISBN 4-12-203501-5)
復刊
- 『脂粉の顔』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 10、1999年12月 ISBN 4-89714-851-0)
- 『あひびき』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 11、1999年12月 ISBN 4-89714-852-9)
- 『幸福』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 31、2000年11月 ISBN 4-8433-0193-0)
- 『新選 宇野千代集』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 32、2000年11月 ISBN 4-8433-0194-9)
全集・作品集
- 『新選 宇野千代集』(改造社、1929年 000000738665)
- 『宇野千代全集』(中央公論社、1977年 – 1978年 全12巻)
- 『小説一』(1977年12月 000001360826)
- 『小説二』(1978年2月 000001366201)
- 『小説三』(1977年9月 000001352997)
- 『小説四』(1977年11月 000001359100)
- 『小説五』(1977年7月 000001352998)
- 『小説六』(1977年8月 000001352999)
- 『小説七』(1978年1月 000001363837)
- 『小説八』(1977年10月 000001353000)
- 『小説九 随筆一』(1978年3月 000001368597)
- 『随筆二』(1978年4月 000001372786)
- 『随筆三』(1978年5月 000001376096)
- 『随筆四』(1978年6月 000001379323)
- 『新潮現代文学 7』(新潮社、1980年9月 000001473280)
- 『神さまは雲のなか』(ハルキ文庫、1997年9月 ISBN 4-89456-344-4)
- 新装版(ハルキ文庫、2026年4月 ISBN 978-4-7584-4799-7)
- 『宇野千代 何でも一度してみること』(日本図書センター、2000年1月 ISBN 4-8205-6650-4)
- 『宇野千代聞書集 人形師天狗屋久吉・おはんほか』(平凡社ライブラリー、2002年2月 ISBN 4-582-76426-6)
- 『幸福の言葉』(海竜社、2002年3月 ISBN 4-7593-0707-9)
- 改題『人生はいつだって今が最高!』(海竜社、2013年11月 ISBN 978-4-7593-1337-6)
- 改題『98歳ポジティブ人生のコツ「いつだって今が最高!」 』(WAVE出版、2023年3月 ISBN 978-4-86621-453-5)
- 改題『人生はいつだって今が最高!』(海竜社、2013年11月 ISBN 978-4-7593-1337-6)
- 『百歳ゆきゆきて』(世界文化社、2002年3月 ISBN 4-418-02504-9)
- 『きもの日和』(世界文化社、2003年4月 ISBN 4-418-03503-6)
- 『宇野千代きもの手帖』(二見書房、2004年11月 ISBN 4-576-04189-4)
- 『中村天風の生きる手本』(知的生きかた文庫、2007年3月 ISBN 978-4-8379-7615-8)
- 『幸福の法則一日一言』(海竜社、2007年12月 ISBN 978-4-7593-1003-0)
- 『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』(岩波文庫、2019年6月 ISBN 978-4-00-312222-8)- 新編
- 『青山二郎の話・小林秀雄の話』(中公文庫、2019年12月 ISBN 978-4-12-206811-7)- 新編
- 『98歳まで生きてわかった、「超ポジティブ思考」がいちばん!』 (幻冬舎、2022年10月 ISBN 978-4-344-04015-1)
- 『九十歳、イキのいい毎日』(中央公論新社、2023年3月 ISBN 978-4-12-207336-4)
- 『宇野千代料理帖』(白秋社、2026年3月 ISBN 978-4-434-37392-3)
- 『その恋は愛なのか』(だいわ文庫、2026年7月 ISBN 978-4-479-32173-6)
アンソロジー
- 『新装 きもの随筆』(双雅房、1938年 000000719947)「お洒落隨筆」収録
- 『きぬいと』(きもの編輯部、1939年 000000710227)「バタ臭さと粹さ」収録
- 『甘味 お菓子随筆』(双雅房、1941年 000000695773)「願望の菓子」収録
- 『十字路の残照』(集英社文庫、1982年11月 000001593905) 「それは木枯か」収録
- 『幸せのつくり方』(小学館、1984年3月 ISBN 4-09-397301-6)
- 『日本の名随筆 31 婚』(作品社、1985年5月 ISBN 4-87893-931-1)「私の結婚論」収録
- 『日本の名随筆 38 装』(作品社、1985年12月 ISBN 4-87893-938-9) 「着物は着たきり雀の貧乏な娘が顔だけを念入りにお化粧していたという話」収録
- 『日本の名随筆 47 惑』(作品社、1986年9月 ISBN 4-87893-947-8) 「残された者の悲しさとは何か」収録
- 『死ぬための生き方』(新潮社、1988年5月 ISBN 4-10-354002-8) 「風もなく散る木の葉のように」収録
- 『モダン都市文学 5』(平凡社、1990年5月 ISBN 4-582-30085-5) 「新京行特急」収録
- 『日本の名随筆 別巻 39 化粧』(作品社、1994年4月 ISBN 4-87893-859-5) 「宇野千代的お洒落哲学」収録
- 『この国で戦争があった』(PHP研究所、2000年8月 ISBN 4-569-61242-3) 「石油缶いっぱいの胡麻油」収録
派生作品
映画
テレビドラマ
- 『おはん』(1978年1月、テレビ朝日〈ポーラ名作劇場〉、脚本:早坂暁、演出・河野宏、出演:中村玉緒、津川雅彦、加賀まりこ)
- 『生きて行く私』(1984年4月 - 6月、毎日放送、脚本:鎌田敏夫、演出:久野浩平、出演:十朱幸代、三浦洋一、岩城滉一)[21]
- 『生きて行く私』(1991年1月 - 2月、フジテレビ〈妻たちの劇場〉、脚本:宮川一郎、野波静雄、中島玲子、演出:高橋繁男、富塚博司、出演:宮崎美子、白川和子、広岡瞬、東野英心、二階堂千寿)
- 『ブラッサム』(2026年10月 - 2027年3月、NHK 〈連続テレビ小説〉、脚本:櫻井剛、演出:盆子原誠、中泉慧、押田友太、佐藤玲衣、田中陽児、野田雄介、主演:石橋静河 / 加賀まりこ(役名:葉野珠) - 千代をモデルとしたオリジナルのテレビドラマ
舞台
- 歌舞伎座『おはん』(1957年7月、脚色・演出:久保田万太郎、出演:六代目中村歌右衛門、二代目中村鴈治郎、七代目中村福助)
- 文楽座『桂川連理柵』より『おはん長右衛門』(1957年11月、脚本: 菅専助、人形遣い:初代 桐竹紋十郎、吉田文五郎、吉田玉助)
- 劇団俳優座稽古場『色ざんげ』(1981年7月、企画・主演:野中マリ子 主催:劇団俳優座)
- 芸術座『おはん』(1992年11月 - 12月、脚本:小幡欣治、演出:戌井市郎、出演:山本陽子、橋爪淳、香山美子)
- 芸術座『おはん』(1998年1月 - 2月、脚本:小幡欣治、演出:小川秀夫、出演:山本陽子、中条きよし、大空眞弓、川中美幸)
- 博多座『新版おはん』(2001年3月、脚本: 宇野信夫、演出: 堀井康明、出演:山本陽子、永島敏行、小川範子)
楽曲
オーディオブック
評伝
- 『新潮日本文学アルバム47 宇野千代』(新潮社、1993年4月 ISBN 4-10-620651-X)
- 『太陽』1997年1月号 「特集:人生に恋した女 宇野千代」(平凡社、1996年12月6日)
- 『宇野千代 女の一生』(新潮社〈とんぼの本〉、2006年11月 ISBN 4-10-602150-1)
- 『宇野千代 女性作家評伝シリーズ』(尾形明子著、新典社、2014年3月 ISBN 978-4-7879-7306-1)
- 『恋づくし 宇野千代伝』(工藤美代子著、中央公論新社、2015年3月 ISBN 978-4-12-004699-5)
- 改題『愛して生きて 宇野千代伝』(工藤美代子著、中央公論新社〈中央文庫〉、2020年2月 ISBN 4-12-206831-2)
- 『生誕120年記念総特集 宇野千代 華麗なる作家の人生 』(河出書房新社〈KAWADEムック〉、2017年5月 ISBN 978-4-309-97916-8)
- 『宇野千代の人生』(メディアソフト〈MSムック〉、2026年7月 ISBN 978-4-82-470164-0)
- 『宇野千代:昭和モダニズムの伝道者』(刑部芳則著、NHK出版〈NHK出版新書〉、2026年8月10日 ISBN 978-4-14-088765-3)
- 『宇野千代 花咲き誇るその生涯』(コスミック出版〈COSMIC MOOK〉、2026年8月26日 ISBN 978-4-7747-7617-0)
- 『別冊太陽 日本のこころ338 宇野千代:そして、生きて行く私』(平凡社、2026年8月27日 ISBN 978-4-582-92335-3)
- 『咲く。――宇野千代の生涯』(葉山由季著、潮出版社〈潮文庫〉、2026年9月4日 ISBN 978-4-267-02516-7)
- 『宇野千代 恋を糧に生きた、その幸福な人生』(青山誠著、KADOKAWA〈角川文庫〉、2026年9月25日 ISBN 978-4-04-330113-3)
その他

岩国市のJR西日本各駅に、以下の展示物・記念物がある。
- 岩国駅西口(正面)側
- 錦帯橋上で撮影された本人の写真パネル(1番線ホーム西口改札横)
- 書斎机を再現した展示ケース(西口駅舎出入口・正面北寄り付近)
- 「おはんベンチ」と名付けられた、バス待合客用木製ベンチ(駅舎外通路にあるバス停留所)
- 西岩国駅
- 本人を写した写真パネル(待合室内)
- 「宇野千代のふるさと」と記した看板(駅舎出入口の軒、駅名表記板の上)
- 川西駅
- 「ようこそ 私のふるさと 川西へ」と書かれた本人の写真入りの看板(駅ホーム)
また、岩国市交通局により運行されているギャラリーバスの中に千代本人および代表作であるおはんを題材として扱った「おはんバス」がある。
なお岩国市川西に現在でも生家が保存されており、維持管理業務を目的に特定非営利活動法人宇野千代生家が2005年8月3日に設立されている(生家そのものは岩国市が所有)。
オリーブオイルを愛用
若い時からオリーブを美容に用い、「私はもう永年、小豆島のオリーブオイルしか、顔に塗ったことがない」「数十年続けたおかげで絹のような肌だと評判である」と語ったと言われており、小豆島ヘルシーランドと提携して「宇野千代BRANDオリーヴオイルを立ち上げた[22]。
千代の年齢から考えると小豆島ヘルシーランドのオリーブオイルを使ったのは最晩年の数年程度で、若年から使っていたのは他社のオリーブオイルである(同社の創業が1985年、宇野千代BRANDオリーヴオイルの発売が1992年)。「数十年続けた」という言葉どおりなら1940年創業の 井上誠耕園、1949年創業の日本オリーブ、1950年創業の小豆島オリーブ、1955年創業の東洋オリーブの製品が候補に挙がる。しかし、井上誠耕園がオリーブ事業を本格化したのは1990年頃、小豆島オリーブと東洋オリーブについても美容オリーブオイルを発売したのは創業から遅く、小豆島ヘルシーランド同様に該当しない。日本オリーブのみ1949年の創業と同時に美容オリーブオイルを展開し年代的には合致するが、同社は岡山拠点で「小豆島のオリーブオイル」には該当せず、千代がこれを小豆島産と思い込んでいた可能性もあるが裏付ける資料は無い。[23][24][25][26]