宇野千代
日本の小説家 (1897-1996)
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宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、北原武夫、梶井基次郎、画家の東郷青児など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。
宇野 千代 (うの ちよ) | |
|---|---|
![]() 若き日の宇野千代(1930年代) | |
| 生誕 |
1897年11月28日 |
| 死没 |
1996年6月10日(98歳没) |
| 墓地 | 山口県岩国市教蓮寺 |
| 職業 | 小説家、随筆家、編集者 |
| 国籍 |
|
| 最終学歴 | 岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒業 |
| 活動期間 | 1921年 - 1996年 |
| 代表作 |
『色ざんげ』(1933年 - 1935年) 『人形師天狗屋久吉』(1942年) 『おはん』(1947年 - 1957年) 『刺す』(1966年) 『或る一人の女の話』(1971年) 『生きて行く私』(1983年) |
| 主な受賞歴 |
野間文芸賞(1957年) 女流文学賞(1970年) 日本芸術院賞(1972年) 勲三等瑞宝章(1974年) 菊池寛賞(1982年) 文化功労者(1990年) 勲二等瑞宝章(1996年,没後) |
| デビュー作 | 『脂粉の顔』(1921年) |
| 配偶者 |
藤村亮一(1911年 - 不明) 藤村忠(1919年 - 1924年) 尾崎士郎(1926年 - 1930年) 北原武夫(1939年 - 1964年) |
| パートナー | 東郷青児(1930年 - 1934年) |
来歴




成績抜群の少女時代
1897年(明治30年)11月28日、山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西町)で誕生。実家は酒造業を営む裕福な「宇野酒造」だが、宇野本家の次男である父親・俊次は生涯生業に就くことはなく博打好き。家計は本家からの仕送り頼みで苦しかった。1899年(明治32年)、1歳半の時に実母の土井トモが肺結核で没し、翌1900年(明治33年)、俊次は千代とわずか12歳差の娘・佐伯リュウと再婚。千代はリュウを実母と思って育ち、終生慕っていた。なお、このリュウが代表作『おはん』に登場するおはんのモデルとされる[2]。
1904年(明治37年)岩国尋常小学校(現・岩国市立岩国小学校)入学。小学校時代の成績は全甲で通し、1910年(明治43年)、岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)本科(四年制)進学。第四学年の学籍簿は、一、二、三学期の全15教科の平均点は92点を超え成績抜群だった。在学中は「校友会雑誌」に作文が数回掲載される。1911年(明治44年)11月、14歳で実母トモの姉・藤村カツの長男(千代の従兄)・藤村亮一と結婚するが、婚家の雰囲気に馴染めず、亮一が女通いをしていたこともあり10日ほどで実家へ帰る。1913年(大正2年)、父・俊次没。文学に興味を待ち始め、変名で『女子文壇』などの文芸誌に投稿を始める。1914年(大正3年)女学校を卒業し、川下村尋常小学校(現・岩国市立川下小学校)の代用教員となるが、同期の新任教師・佐伯正夫と職場恋愛したことにより1915年(大正4年)秋に免職処分となり、正夫とも破局する。代用教員時代に菊池寛一、鑓田研一ら同人7名で回覧文学雑誌『海鳥』を3号まで刊行した。
朝鮮、京都、東京、札幌へ
その後、女学校時代の女教師を頼って朝鮮の京城へ出奔し、家庭教師や朝鮮雑誌社社長宅の子守りなどで生計を立てる。朝鮮渡航から3カ月が過ぎて佐伯正夫から京城に絶縁状が届き、1916年(大正5年)「母が急病」と偽って失意の帰国。真っ先に正夫を訪ねるが拒絶される。岩国では朝鮮雑誌社が発行する雑誌『朝鮮及満洲』の購読予約で収入を得ていたが、前夫・藤村亮一の弟で京都から帰省していた第三高等学校生・藤村忠と懇意になり、京都・知恩院の塔頭の小部屋で同棲をしたのち1917年(大正6年)、忠の三高卒業・東京帝国大学法科大学入学に合わせて上京する。まず、前夫・藤村亮一と女性が同棲する浅草の部屋へ忠と転がり込み、湯島天満宮裏、ついで小石川区小石川駕籠町の髪結い床の2階に下宿。東京では、中国人向け日本語教師、写真モデル、実業之日本社事務員などの職を転々とするなかで『萬朝報』の懸賞小説で何度か賞金10円を得ている。さらに本郷三丁目の高級洋食店「燕楽軒」で給仕のアルバイトを18日間している間に、久米正雄や佐藤春夫、芥川龍之介ら文士の知遇を得て、今東光とは親交を結んだ[3]。芥川の短編小説『葱』はこの頃の千代と今東光をモデルにしている。1919年(大正8年)8月、忠の帝大卒業を待って入籍(千代は再婚)。
1920年(大正9年)、忠の北海道拓殖銀行札幌支店への就職に伴い北海道札幌市に転居。文芸同人誌『啓明』(全7号)に参加。貯蓄のため仕立ての仕事や頼母子講に精を出す。1921年(大正10年)、『時事新報』の懸賞短編小説に応募した『脂粉の顔』が一等当選し、作家デビュー。賞金は200円で「文章がこんなに金になるのか」と驚き、「なんて儲かるんだ、これは書かなきゃいけない!」と執筆活動に専念[4]。『墓を
尾崎士郎、東郷青児と運命の出会い
北海道に戻る途中の東京で、今後の打ち合わせと御礼を兼ねて中央公論社に立ち寄った際、居合わせた尾崎士郎を瀧田に紹介され、ひと目惚れ。そのまま尾崎の逗留していた「菊富士ホテル」に同宿する。東京へ迎えに来た忠、士郎と3人で話し合って北海道への帰宅を取りやめ、東京で士郎と同棲を始める[2]。「菊富士ホテル」のあとは、大森海岸の旅館「三浩館」、臼田坂下の下宿屋、大森山王の森の中の家、大森-蒲田間の線路脇の家などを転々とする。
1923年(大正12年)、荏原郡馬込町の大根畑の中に家を建て、短篇集『脂粉の顔』を改造社から処女出版。士郎との関係がスキャンダルとして報じられるようになる。1924年(大正13年)4月、忠との協議離婚が成立し、士郎と3度目の結婚。筆名も藤村千代から宇野千代に改め、作品集『幸福』を金星堂から刊行する。このころ妊娠。1926年(大正15年)3-9月、士郎とともに故郷岩国の新港に滞在。1927年(昭和2年)、川端康成に誘われ伊豆湯ケ島温泉に初めて逗留し、梶井基次郎、三好達治、藤沢恒夫らと知り合い、特に基次郎と交情を深める。帰京してからも基次郎との交流は続いたことから士郎との関係が悪化。1929年(昭和4年)断髪を実行。萩原朔太郎夫人稲子、川端康成夫人秀子も千代の後に続いて断髪し、馬込文士村の耳目を集める。名作短篇集『新選宇野千代集』を改造社から刊行。
1930年(昭和5年)取材を通して知り合った東郷青児と荏原郡世田ヶ谷町山崎で同棲を始め、中央公論社から『
北原武夫と『スタイル』
1936年(昭和11年)6月、スタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集者を務める。1937年(昭和12年)武夫と渋谷区千駄ヶ谷町に転居し、四谷大番町の借家は仕事場に。1938年(昭和13年)、スタイル社から三好達治編集による文芸誌『文體』を創刊するが失敗。1939年(昭和14年)武夫と4度目の結婚。藤田嗣治と吉屋信子の媒酌で「帝国ホテル」にて結婚披露宴を催し小石川区林町に転居する。1941年(昭和16年)武夫、三好達治と満州国・中華民国を旅行し、現地の文壇や文化、情勢を視察・取材。武夫が陸軍歩兵第1連隊から報道班員としてジャワ島に出征。戦時体制による他誌との統合に伴い、敵性語の『スタイル』は『女性生活』と改題し、「スタイル社」も「文體社」となる。1943年(昭和18年)、武夫が復員。『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』を文體社から刊行。1944年(昭和19年)『女性生活』を廃刊し、文體社を解散して熱海の来宮へ疎開。近所に疎開して来た谷崎潤一郎・松子夫妻と交流を深める。1945年(昭和20年)、熱海から、武夫の郷里・栃木県下都賀郡壬生町へ再疎開し終戦を迎える。
1946年(昭和21年)武夫を社長、千代を副社長として、麹町区有楽町の焼け残った時事新報ビルの一室で「スタイル社」を再興。ファッション誌『スタイル』を復刊し、高野三三男の表紙絵も好評で大きな成功を収める[5]。着物のデザインも自ら手掛け、同誌で紹介・販売もした。京橋区尾張町の銀座みゆき通り沿いの社屋に移住。翌1947年(昭和22年)に文芸誌『文體』を復刊。1949年(昭和24年)、戦後のライフスタイルに合う新しい着物デザインを追求する「宇野千代きもの研究所」を設立。1950年(昭和25年)、中央区木挽町に自宅を新築し、スタイル社の一階に「スタイルの店」をオープンする。
着物デザイナーとしても成功
1951年(昭和26年)宮田文子と2カ月間、パリを拠点にヨーロッパ各地を旅行し、『毎日新聞』に「巴里通信」を寄稿。闘病中の哲学者アランから献辞入り自著を贈られる。同年継母のリュウ死去。1952年(昭和27年)、同業者からの投書による告発をきっかけに国税庁の査察が入ったことで「スタイル社」の脱税が明るみになり、巨額の追徴課税を科される。1955年(昭和30年)、銀座から港区青山南町に転居。1957年(昭和32年)、日本輸出振興機関群の依頼を受け、米シアトルの国際見本市で着物のファッションショー「International KIMONO show」を開催するため40日間渡米(※シアトル万国博覧会で開催、とする各種記述は間違い)。同年、中央公論社から『おはん』を刊行。同作で第10回野間文芸賞と第9回女流文学者賞を受賞。1959年(昭和34年)「スタイル社」倒産。1968年(昭和38年)2月、雪道で転倒し腰骨を折って東京医科歯科大学附属病院に入院。千代の看病をした「宇野千代きもの研究所」社員の藤江淳子はその後、千代が亡くなるまで秘書を務める。1964年(昭和39年)尾崎士郎、三好達治病没。中村天風の「天風会」に入会。千代と武夫、負債を完済し離婚。
86歳でミリオンセラー
戦後の千代は作家としては寡作であり、10年近く沈黙していた。1960年代から再び書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く執筆した。小説は10年の歳月かけて執筆・推敲された『おはん』のほか、『色ざんげ』(『中央公論』1933年9月-1935年3月連載、4月刊行)、『或る一人の女の話』などがある。1970年(昭和45年)に『幸福』で第10回女流文学賞受賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞受賞[6]し、同年日本芸術院会員。1973年(昭和48年)、那須高原の映山湖そばに別荘を設ける。1973年(昭和48年)私費を投じて岩国市川西の生家を修復。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表し、勲三等瑞宝章受章。1977年(昭和53年)6月、『宇野千代全集』(中央公論社)全12巻が完結。1982年(昭和57年)には菊池寛賞受賞し、「透徹した文体で、情念の世界を凝視しつづける強靭な作家精神」と評価された。1983年(昭和58年)に発表した自伝的小説『生きて行く私』は100万部を超えるベストセラーになり、以後千代の代名詞となる。1985年(昭和60年)11月には、龍村仁演出・山本陽子司会の「米寿を祝う会」が「帝国ホテル」で盛大に催される。1990年(平成2年)度の文化功労者に。野上弥生子、円地文子、芝木好子に続き女流作家として4人目の選出となる。1992年(平成4年)4月、日本橋高島屋にて「宇野千代展」開催。6日間でのべ5万人が來場し、死去直前の1996年(平成8年)4-5月には、山梨県立文学館で「宇野千代の世界」展が開催された。
最晩年に到るまで旺盛な活動を続けた、女性実業家の先駆者としても知られ、1967年(昭和42年)、着物関連の事業をまとめ「株式会社宇野千代」を設立。千代のデザインした着物は「宇野千代小紋」として大手百貨店などが取り扱う。結婚離婚を繰り返すたびに自宅を建て替えて、「数えてみると、十一軒建てた勘定になるから」「もう一度、家を建てたい」と家への思いを、「わたしの建てた家」「夏と私の建てた家」「人生とは、行動すること」といった随筆にまとめたり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』というタイトルのエッセイにまとめてしまう愛嬌があった。
1996年(平成8年)6月10日、急性肺炎のため港区の虎の門病院にで死去[1]。享年100(満98歳没)。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と命名された[7]。通夜・密葬が6月14-15日に「桐ケ谷斎場」で営まれ、6月29に「青山葬儀所」にて《お別れの会》が開かれ1300人余が弔問に訪れた。墓所は岩国市の宇野家菩提寺・教蓮寺で、淡墨桜の苗木が植えられた。
1968年(昭和43年)岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)に「薄墨桜」を初めて見に行く。「薄墨桜」は樹齢1500年以上の彼岸桜の古木だが、1959年(昭和34年)に発生した伊勢湾台風で甚大な被害を受け、既に枯死寸前だった。小林秀雄からこの老木の存在を聞いた千代は現地でその惨状に心を痛め、全国規模の募金活動や寄付を提唱。雑誌にもたびたび「薄墨桜」にまつわるエッセイを寄稿した。さらに当時の岐阜県知事・平野三郎に保護を直訴。この行動をきっかけに専門家による診断や大規模な保護・蘇生措置が実現して樹勢が回復し、美しい姿が守られた。[8]。1974年(昭和49年)、『薄墨の桜』を新潮社から刊行。本巣市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品を展示している[9]。
人物
年譜



- 1911年(明治44年) - 義母の姉の子の藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する。
- 1913年(大正2年) - 父・俊次が57歳で没。
- 1914年(大正3年) - 岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。
- 1915年(大正4年) - 鑓田研一らと回覧雑誌を作る。同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。
- 1916年(大正5年) - 帰国し、亮一の弟の忠が第三高等学校学生だったので頼って京都へ行き同棲生活をする。
- 1917年(大正6年) - 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。
- 1919年(大正8年) - 忠と正式に結婚し藤村姓となる。
- 1920年(大正9年) - 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮す。
- 1921年(大正10年) - 『脂粉の顔』が「時事新報」懸賞で一等となる。二等は尾崎士郎、選外佳作に横光利一。
- 1922年(大正11年) - 滝田樗陰に送った原稿の返事がないので上京。『墓を暴く』が中央公論に掲載されたことを知り、郷里岩国へ帰り、上京。尾崎士郎と同棲を始める。
- 1923年(大正12年) - 尾崎とともに馬込に住み小説を発表する。短編集『脂粉の顔』を上梓。
- 1924年(大正13年) - 忠と協議離婚。筆名を宇野千代に改める。吉屋信子と親しくなる。
- 1926年(大正15年) - 尾崎と正式に結婚。
- 1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。
- 1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲。尾崎とは正式に離婚。
- 1933年(昭和8年) - 『色ざんげ』を発表。
- 1934年(昭和9年) - 東郷とともに麻雀賭博に参加していた容疑で検挙される[13]。同年、東郷と別れる。
- 1936年(昭和11年) - 「スタイル」誌を創刊。
- 1939年(昭和14年) - 北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治。
- 1947年(昭和22年) - スタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を始める。
- 1949年(昭和24年) - 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾する。
- 1951年(昭和26年) - フランス旅行。
- 1957年(昭和32年) - 『おはん』を上梓、野間文芸賞を受賞。
- 1959年(昭和34年) - スタイル社が倒産。
- 1964年(昭和39年) - 北原と離婚。
- 1966年(昭和41年) - 『刺す』を上梓。
- 1971年(昭和46年) - 女流文学賞を受賞。
- 1972年(昭和47年) - 芸術院賞受賞、芸術院会員。
- 1974年(昭和49年) - 勲三等瑞宝章受章。
- 1977年(昭和52年) - 『宇野千代全集』の刊行始まる。
- 1982年(昭和57年) - 菊池寛賞受賞。
- 1983年(昭和58年) - 『生きて行く私』を刊行。
- 1990年(平成2年) - 文化功労者。
著作
- 『幸福』(金星堂、1924年)
- 『白い家と罪』(新潮社、1925年)
- 『晩唱』(現代短篇小説選集』(文芸日本社、1925年)
- 『罌粟はなぜ紅い』(中央公論社、1930年)
- 『オペラ館サクラ座』(改造社、1934年)
- 『色ざんげ』(中央公論社、1935年、のち新潮文庫・岩波文庫など)
- 『あひびき』(新陽社、1936年)
- 『別れも愉し』(第一書房、1936年、のち集英社文庫)
- 『ひとの男』(版画荘、1937年)
- 『月夜』(中央公論社、1938年)
- 『恋の手紙』(中央公論社、1939年)
- 『女の愛情』(鱒書房、1939年)
- 『ある客間での物語』(スタイル社出版部、1941年)
- 『日露の戦聞書』(文体社、1943年)
- 『人形師天狗屋久吉』(文体社、1947年、のち集英社文庫)
- 『わたしの青春物語』(酣灯社、1947年)
- 『ピイピイ三吉』(國民圖書刊行會、1947年)
- 『私のお化粧人生史』(中央公論社、1955年、のち中公文庫)
- 『おはん』(中央公論社、1957年、のち中公文庫、新潮文庫など)
- 『きもの読本』(長嶋書房、1957年)
- 『女の日記』(講談社、1960年、のち文芸文庫)
- 『刺す』(新潮社、1966年、のち集英社文庫)
- 『風の音』(中央公論社、1969年、のち中公文庫)
- 『親しい仲』(随筆集』(講談社、1970年)
- 『貞潔』(短編小説集』(講談社、1970年)
- 『天風先生座談』(二見書房、1970年)
- 『私の文学的回想記』(中央公論社、1972年、のち中公文庫、改題『思いのままに生きて』、集英社文庫)
- 『或る一人の女の話』(文藝春秋、1972年)
- 『雨の音』(文藝春秋、1974年、のち講談社文芸文庫)
- 『恋は愉しいか』(大和書房、1974年)
- 『八重山の雪』(文藝春秋、1975年)
- 『薄墨の桜』(新潮社、1975年、のち集英社文庫)
- 『ママの話』(中央公論社、1976年)
- 『往復書簡』(中里恒子共著、文藝春秋、1976年)
- 『水西書院の娘』(中央公論社、1977年、のち中公文庫)
- 『宇野千代全集』全12巻 (中央公論社、1977–78年)
- 『或る日記』(集英社、1978年)
- 『大人の絵本』(成瀬書房、1978年)
- 『残ってゐる話』(集英社、1980年)
- 『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1980年 / だいわ文庫 2026年6月)
- 『青山二郎の話』(中央公論社、1980年、のち中公文庫)
- 『悪徳もまた』(新潮社、1981年、のち新潮文庫)
- 『或るとき突然』(中央公論社、1981年、のち中公文庫)
- 『幸福を知る才能』(正・続、海竜社、1982 – 1984年、のち集英社文庫)
- 『自伝的恋愛論』(大和書房、1983年)
- 『生きて行く私』(毎日新聞社、1983年、のち中公文庫、角川文庫)
- 『生きて行く私 人生相談篇』(毎日新聞社、1984年)
- 『或る男の断面』(講談社、1984年、のち中公文庫)
- 『幸せのつくり方』(小学館、1984年)
- 『私はいつでも忙しい』(中央公論社、1984年、のち中公文庫)
- 『私のおとぎ話』(中央公論社、1985年、のち文芸社)
- 『私は幸福昔もいまもこれからも』(海竜社、1985年)
- 『私の作ったお惣菜』(海竜社、1986年、のち集英社文庫)
- 『幸福は幸福を呼ぶ』(海竜社、1986年、のち広済堂文庫、集英社文庫)
- 『普段着の「生きて行く私」』(毎日新聞社、1986年、のち集英社文庫)
- 『しあはせな話』(中央公論社、1987年、のち中公文庫)
- 『倖せを求めて生きる』(海竜社、1987年、のち集英社文庫)
- 『行動することが生きることである』(海竜社、1988年、のち集英社文庫)
- 『一ぺんに春風が吹いて来た』(中央公論社、1989年、のち中公文庫)
- 『私のしあわせ人生』(毎日新聞社、1990年、のち集英社文庫)
- 『恋愛作法』(海竜社、1991年、のち集英社文庫)
- 『生きる幸福老いる幸福』(海竜社、1992年、のち集英社文庫)
- 『私は夢を見るのが上手』(中央公論社、1992年、のち中公文庫)
- 『私の幸福論』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)
- 『幸福に生きる知恵』(講談社、1993年、のち中公文庫)
- 『私の長生き料理』(海竜社、1993年、のち集英社文庫)
- 『人生学校』(海竜社、1994年)
- 『私の作ったきもの』(海竜社、1994年)
- 『私何だか死なないような気がするんですよ』(海竜社、1995年、のち集英社文庫)
- 『幸福人生まっしぐら』(大和書房、1996年)
- 『不思議な事があるものだ』(中央公論社、1996年、のち中公文庫)
- 『百歳ゆきゆきて』(世界文化社、2002年)
- 『老女マノン・脂粉の顔 他四篇』(岩波文庫、2019年)、新編
- 『青山二郎の話・小林秀雄の話』(中公文庫、2019年)、新編
- 『98歳まで生きてわかった、「超ポジティブ思考」がいちばん!』 (幻冬舎、2022年)
- 『98歳ポジティブ人生のコツ「いつだって今が最高!」 』(WAVE出版、2023年)
- 『九十歳、イキのいい毎日』(中央公論新社、2023年)
- 『その恋は愛なのか』(だいわ文庫、2026年7月)
復刊
- 『脂粉の顔』近代女性作家精選集 10 (ゆまに書房、1999年)
- 『あひびき』近代女性作家精選集 11 (ゆまに書房、1999年)
- 『幸福』近代女性作家精選集 31 (ゆまに書房、2000年)
- 『新選宇野千代集』近代女性作家精選集 32 (ゆまに書房、2000年)
評伝
派生作品
映画
テレビドラマ
舞台
楽曲
その他

岩国市のJR西日本各駅に、以下の展示物・記念物がある。
- 岩国駅西口(正面)側
- 錦帯橋上で撮影された本人の写真パネル(1番線ホーム西口改札横)
- 書斎机を再現した展示ケース(西口駅舎出入口・正面北寄り付近)
- 「おはんベンチ」と名付けられた、バス待合客用木製ベンチ(駅舎外通路にあるバス停留所)
- 西岩国駅
- 本人を写した写真パネル(待合室内)
- 「宇野千代のふるさと」と記した看板(駅舎出入口の軒、駅名表記板の上)
- 川西駅
- 「ようこそ 私のふるさと 川西へ」と書かれた本人の写真入りの看板(駅ホーム)
また、岩国市交通局により運行されているギャラリーバスの中に千代本人および代表作であるおはんを題材として扱った「おはんバス」がある。
なお岩国市川西に現在でも生家が保存されており、維持管理業務を目的に特定非営利活動法人宇野千代生家が2005年8月3日に設立されている(生家そのものは岩国市が所有)。
オリーブとの関わり
若い時からオリーブを美容に用い、「私はもう永年、小豆島のオリーブオイルしか、顔に塗ったことがない」「数十年続けたおかげで絹のような肌だと評判である」と語ったと言われており、小豆島ヘルシーランド株式会社と提携し、宇野千代ブランドを立ち上げている[14]。
ただし、宇野の年齢から考えると小豆島ヘルシーランドのオリーブオイルを使ったのは最晩年の数年程度であり、若年から使っていたのは他の会社のオリーブオイルである(同社の創業が1985年、宇野千代BRANDオリーヴオイルの発売が1992年)。「数十年続けた」という言葉を信じれば、1940年創業の有限会社 井上誠耕園、1949年創業の日本オリーブ株式会社、1950年創業の小豆島オリーブ株式会社、1955年創業の東洋オリーブ株式会社が候補に挙がる。しかし、井上誠耕園がオリーブ事業を本格化したのは1990年頃、小豆島オリーブと東洋オリーブについても美容オリーブオイルを発売したのは創業から遅く、小豆島ヘルシーランド同様に該当しない。日本オリーブのみ創業の1949年と同時に美容オリーブオイルを展開していたため年代的には合致するが、同社は岡山に拠点を置くため「小豆島のオリーブオイル」という言葉を信じれば該当せず、宇野がこれを小豆島産と思い込んでいた可能性もあるが裏付ける資料は無い。[15][16][17][18]
