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宇野千代

日本の小説家 (1897-1996) From Wikipedia, the free encyclopedia

宇野 千代(うの ちよ、1897年明治30年〉11月28日 - 1996年平成8年〉6月10日)は、大正昭和・平成にかけて活躍した日本小説家随筆家。多才で知られ、編集者着物デザイナー実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎北原武夫梶井基次郎、画家の東郷青児など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。

墓地 山口県岩国市教蓮寺
概要 宇野 千代(うの ちよ), 生誕 ...
宇野 千代
(うの ちよ)
若き日の宇野千代(1930年代
生誕 1897年11月28日
大日本帝国の旗 日本 山口県玖珂郡横山村(現 岩国市川西
死没 (1996-06-10) 1996年6月10日(98歳没)
日本の旗 日本 東京都港区虎ノ門虎の門病院[1]
墓地 山口県岩国市教蓮寺
職業 小説家随筆家編集者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒業
活動期間 1921年 - 1996年
代表作 『色ざんげ』(1933年 - 1935年)
『人形師天狗屋久吉』(1942年)
おはん』(1947年 - 1957年)
『刺す』(1966年)
『或る一人の女の話』(1971年)
生きて行く私』(1983年)
主な受賞歴 野間文芸賞(1957年)
女流文学賞(1970年)
日本芸術院賞(1972年)
勲三等瑞宝章(1974年)
菊池寛賞(1982年)
文化功労者(1990年)
勲二等瑞宝章(1996年,没後)
デビュー作 『脂粉の顔』(1921年)
配偶者 藤村亮一(1911年
藤村忠(1919年 - 1924年
尾崎士郎1926年 - 1930年
北原武夫1939年 - 1964年
パートナー 東郷青児1930年 - 1934年
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来歴

女人藝術』1928年11月号より
尾崎士郎と結婚していた時期(1926年 - 1930年)に撮られた写真
左から林芙美子佐多稲子吉屋信子、宇野千代。1935年11月撮影。
真杉静枝村岡花子、井上まつ、林芙美子円地文子、関露、吉屋信子佐多稲子、宇野千代、三宅艶子ら。1943年、麹町の吉屋の自宅で撮影。

成績抜群の少女時代

1897年(明治30年)11月28日、山口県玖珂郡横山村(現・岩国市川西町)で誕生。実家は酒造業を営む裕福な「宇野酒造」だが、宇野本家の次男である父・俊次は生涯生業に就くことはなかった。千代によれば「バルザックドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人ないし狂人」で、「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし、放蕩を極めた」無頼者。家計は本家からの仕送り頼みで苦しかった。1899年(明治32年)、1歳半の時に実母の土井トモが肺結核で没し、翌1900年(明治33年)、俊次は千代とわずか12歳差の娘・佐伯リュウと再婚。千代はリュウを実母と思って育ち、終生慕っていた。なお、このリュウが代表作『おはん』に登場するおはんのモデルとされる[2]

1904年(明治37年)岩国尋常小学校(現・岩国市立岩国小学校)入学。小学校時代の成績は全甲で通し、1910年(明治43年)、岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)本科(四年制)進学。第四学年の学籍簿は、一、二、三学期の全15教科の平均点が92点を超え成績抜群だった。在学中は「校友会雑誌」に作文が数回掲載される。1911年(明治44年)11月、14歳で実母トモの姉・藤村カツの長男で、千代の従兄にあたる藤村亮一と結婚するが、婚家の雰囲気に馴染めず、亮一が女通いをしていたこともあり10日ほどで実家へ帰る。1913年(大正2年)、父・俊次没。この頃文学に興味を待ち始め、変名で『女子文壇』などの文芸誌に投稿を始める。

1914年(大正3年)女学校を卒業し、川下村尋常小学校(現・岩国市立川下小学校)の代用教員(全教科)となり、鑓田研一、菊池寛一ら同人7名で回覧文学雑誌『海鳥』を3号まで刊行。だが、同期の新任教師・佐伯正夫と職場恋愛し、教え子に恋文(ラブレター)を運ばせるなどの大胆な行動がスキャンダルとなって1915年(大正4年)秋に免職処分となり、正夫とも破局する。

朝鮮、京都、東京、札幌へ

その後、女学校時代の綴方の女性教師を頼って朝鮮京城へ出奔し、家庭教師や朝鮮雑誌社社長・釈尾春芿しゃくおしゅんじょう宅の子守りなどで生計を立てる。朝鮮渡航から3カ月が過ぎて佐伯正夫から京城に絶縁状が届き、1916年(大正5年)「母が急病」と偽って失意の帰国。真っ先に正夫を訪ねるが拒絶される。岩国では朝鮮雑誌社が発行する雑誌『朝鮮及満洲』の購読予約(契約・集金)で収入を得ていたが、前夫・藤村亮一の弟で京都から帰省していた第三高等学校生・藤村忠と懇意になり、京都・知恩院塔頭の小部屋で同棲をしたのち1917年(大正6年)、忠の三高卒業・東京帝国大学法科大学入学に合わせて上京する。

まず、前夫・藤村亮一とその恋人が同棲する浅草の部屋へ忠と転がり込み、湯島天満宮裏、ついで小石川区小石川駕籠町の髪結い床の2階に下宿。東京では、中国人留学生向けの日本語教師、写真モデル、実業之日本社事務員などの職を転々とするなかで『萬朝報』の懸賞小説で何度か賞金10円を得ている。さらに海軍省食堂料理長の西尾益吉が開いた本郷の高級洋食店「燕楽軒」で給仕のアルバイトを18日間している間に、菊池寛久米正雄佐藤春夫芥川龍之介今日出海ら文士の知遇を得て、今東光とは親交を結んだ[3]。芥川の短編小説『葱』はこの頃の千代と今東光の邂逅をモデルに書かれた。1919年(大正8年)8月、忠の帝大卒業を待って入籍(千代は再婚)。

1920年(大正9年)、忠の北海道拓殖銀行札幌支店への就職に伴い北海道札幌市に転居。文芸同人誌『啓明』(全7号)に参加。貯蓄のため仕立ての請負や頼母子講に精を出す。1921年(大正10年)、『時事新報』の懸賞短編小説に応募した『脂粉の顔』が一等当選し、作家デビュー。賞金は200円で「文章がこんなに金になるのか」と驚き、「なんて儲かるんだ、これは書かなきゃいけない!」と執筆活動に専念[4]。『墓をあばく』の原稿を、「燕楽軒」の常連客だった『中央公論』誌の編集長瀧田樗陰に送ったが、一向に音沙汰がなく、1922年(大正11年)4月、単身上京して瀧田に確認したところ、すでに『中央公論』5月号に掲載されていたことを知り原稿料366円(2026年の消費者物価指数から換算するとおよそ200万円)を受け取る。あまりの大金に驚愕し、その足で岩国の実家に戻って継母や祖母に原稿料の一部を渡す。

尾崎士郎、東郷青児と運命の出会い

岩国から北海道に戻る途中の東京で、御礼と今後の打ち合わせを兼ねて中央公論社に立ち寄った際、居合わせた尾崎士郎を瀧田に紹介され、ひと目惚れ。そのまま士郎の逗留していた菊富士ホテルに同宿する。千代、士郎、東京へ迎えに来た忠と3人で話し合って北海道への帰宅を取りやめ、東京で士郎と同棲を始める[2]。菊富士ホテルのあとは、大森海岸の旅館・三浩館、臼田坂下の下宿屋、大森山王の森の中の家、大森-蒲田間の線路脇の家などをふたりで転々とする。

1923年(大正12年)、荏原郡馬込町の大根畑の中に家を建て、短篇集『脂粉の顔』を改造社から処女出版。士郎との関係がスキャンダルとして報じられるようになる。1924年(大正13年)4月、忠との協議離婚が成立し、士郎と3度目の結婚。筆名も藤村千代から宇野千代に改め、作品集『幸福』を金星堂から刊行する。このころ妊娠。1926年(大正15年)3-9月、士郎とともに故郷岩国の新港に滞在。1927年(昭和2年)、川端康成に誘われ伊豆湯ケ島温泉に初めて逗留し、梶井基次郎三好達治藤沢恒夫らと知り合い、特に基次郎と交情を深める。帰京してからも基次郎との交流は続いたことから士郎との関係が悪化。1929年(昭和4年)断髪を実行。萩原朔太郎夫人稲子、川端康成夫人秀子も千代の後に続いて断髪し、馬込文士村の耳目を集める。名作短篇集『新選宇野千代集』を改造社から刊行。

1930年(昭和5年)報知新聞の連載小説『罌粟けしはなぜ紅い』(命題は梶井基次郎)でガス自殺を図る男女の情景を描くため、当時、愛人と情死未遂事件を起こし騒がれていたフランス帰りの洋画家・東郷青児を取材。2人は取材当日(初対面の日)から荏原郡世田ヶ谷町山崎で同棲を始め、11月、中央公論社から『罌粟はなぜ紅い』を刊行。青児の趣味に合わせて洋装が増える。1931年(昭和6年)荏原郡世田谷町に青児のアトリエがついたコルビュジエ風の白い洋館を新築し、青児と前妻明代の息子・志馬とも同居する。さらに青児の装幀・插画による15篇の限定豪華小品集『大人の絵本』を白水社から刊行。1934年(昭和9年)四谷区四谷大番町の借家に青児と転居。3月、青児とともに賭け麻雀をしていた容疑で検挙され(第二次文士賭博事件)警視庁に連行される。この年、青児が情死未遂事件の相手である西崎盈子と復縁したことで離別。1935年(昭和10年)青児の情死事件を本人に聞き書きした『色ざんげ』を中央公論社から刊行し、作家としての名声を高める。

北原武夫と『スタイル』

1936年(昭和11年)6月、スタイル社を創業し、日本初のファッション専門誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集者を務める。11月『別れも愉し』を第一書房から刊行。1937年(昭和12年)武夫と渋谷区千駄ヶ谷町に転居し、四谷大番町の借家は仕事場に。1938年(昭和13年)、スタイル社から三好達治編集による文芸誌『文體』を創刊するが失敗。1939年(昭和14年)武夫と4度目の結婚。藤田嗣治と吉屋信子の媒酌で帝国ホテルにて結婚披露宴を催し小石川区林町に転居する。

1941年(昭和16年)4月、武夫、三好達治と満州国中華民国を旅行し、現地の文壇や文化、情勢を視察・取材。北平天津大連奉天新京などを巡るが、6月、異母弟(三弟)の宇野光雄が危篤となり千代のみ先に帰国、光雄を看取る。広津和郎は千代に「あなたは(母親の違う5人の)弟妹たちを惣領のようによく面倒をみる」と感心していた。1942年(昭和17年)武夫が陸軍歩兵第1連隊から報道班員としてジャワ島に出征。戦時体制による他誌との統合に伴い、敵性語の『スタイル』は『女性生活』と改題し、「スタイル社」も「文體社」となる。1943年(昭和18年)、武夫が復員。『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』を文體社から刊行。1944年(昭和19年)『女性生活』を廃刊し、文體社を解散して熱海来宮へ疎開。近所に疎開して来た谷崎潤一郎松子夫妻と交流を深める。1945年(昭和20年)、熱海から、武夫の郷里・栃木県下都賀郡壬生町へ再疎開し終戦を迎える。

1946年(昭和21年)武夫を社長、千代を副社長として、麹町区有楽町の焼け残った時事新報ビルの一室で「スタイル社」を再興。ファッション誌『スタイル』を復刊し、高野三三男の表紙絵も好評で大きな成功を収める[5]着物のデザインも自ら手掛け、同誌で紹介・販売もした。京橋区尾張町、銀座みゆき通り沿いにスタイル社を移し1階を千代と武夫の自宅とする。翌1947年(昭和22年)に文芸誌『文體』を復刊。1949年(昭和24年)、戦後のライフスタイルに合う新しい着物デザインを追求する「宇野千代きもの研究所」を設立。1950年(昭和25年)、中央区木挽町に自宅を新築し、スタイル社の1階(それまでの自宅)にライフスタイル提案ショップ「スタイルの店」をオープン。洋装とインテリア雑貨の紹介に注力する。

着物デザイナーとしても成功

1951年(昭和26年)宮田文子と2カ月間、パリを拠点にヨーロッパ各地を旅行し、『毎日新聞』に「巴里通信」を寄稿。闘病中の哲学者アランから献辞入り自著を贈られる。同年継母のリュウ死去。1952年(昭和27年)、同業者からの投書による告発をきっかけに国税庁の査察が入ったことで「スタイル社」の脱税が明るみになり、巨額の追徴課税を科される。1955年(昭和30年)、銀座から港区青山南町に転居。1957年(昭和32年)、日本貿易振興会の依頼を受け、米シアトルの国際見本市で着物のファッションショー「International KIMONO show」を開催するため40日間渡米(※シアトル万国博覧会で開催、とする各種記述は間違い)。同年、中央公論社から『おはん』を刊行。同作で第10回野間文芸賞と第9回女流文学者賞を受賞。1959年(昭和34年)「スタイル社」倒産。1968年(昭和38年)2月、雪道で転倒し腰骨を折って東京医科歯科大学附属病院に入院。千代の看病をした「宇野千代きもの研究所」社員の藤江淳子あつこはその後、千代が亡くなるまで秘書を務める。1964年(昭和39年)尾崎士郎、三好達治病没。中村天風の「天風会」に入会。千代と武夫、負債を完済し離婚。

86歳でミリオンセラー

戦後の千代は作家として10年近く沈黙していた。1960年代から再び書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く執筆した。小説は10年の歳月かけて執筆・推敲された『おはん』のほか、『色ざんげ』(『中央公論』1933年9月-1935年3月連載、4月刊行)、『或る一人の女の話』などがあるものの寡作。1970年(昭和45年)に『幸福』で第10回女流文学賞受賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞を受賞[6]し、同年日本芸術院会員。1973年(昭和48年)、那須高原の映山湖そばに別荘を設ける。1973年(昭和48年)私費を投じて岩国市川西の生家を修復。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表し、勲三等瑞宝章受章。1977年(昭和53年)6月、『宇野千代全集』(中央公論社)全12巻が完結。1982年(昭和57年)には菊池寛賞受賞し、「透徹した文体で、情念の世界を凝視しつづける強靭な作家精神」と評価された。1983年(昭和58年)に発表した自伝的小説『生きて行く私』は100万部を超えるベストセラーになり、以後千代の代名詞となる。1985年(昭和60年)11月には、龍村仁演出・山本陽子司会の「米寿を祝う会」が帝国ホテルで盛大に催される。1990年(平成2年)度の文化功労者に。野上弥生子円地文子芝木好子に続き女流作家として4人目の選出となる。1992年(平成4年)4月、日本橋高島屋が「宇野千代展」を開催。6日間でのべ5万人が來場し、死去直前の1996年(平成8年)4-5月には、山梨県立文学館で「宇野千代の世界」展が開催された。

最晩年に到るまで旺盛な活動を続けた、女性実業家の先駆者としても知られ、1967年(昭和42年)、着物関連の事業を一本化して「株式会社宇野千代」を設立。千代のデザインした着物は「宇野千代小紋」として大手百貨店などが取り扱う。結婚離婚を繰り返すたびに自宅を建て替えて、「数えてみると、十一軒建てた勘定になるから」「もう一度、家を建てたい」と家への思いを、わたしの建てた家」「夏と私の建てた家」「人生とは、行動すること」といった随筆にまとめたり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』というタイトルのエッセイにまとめてしまう愛嬌があった。

1996年(平成8年)6月10日、急性肺炎のため港区虎の門病院で死去[1]享年100(満98歳没)。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と命名された[7]。通夜・密葬が6月14-15日に「桐ケ谷斎場」で営まれ、6月29に「青山葬儀所」にて《お別れの会》が開かれ1300人余が弔問に訪れた。墓所は岩国市の宇野家菩提寺・教蓮寺。千代の著作権は秘書の藤江淳子が継承した。

1978年(昭和53年)5月に新築し、終の棲家となった南青山の自宅ビルは、千代の没後にリノベーションされて賃貸オフィス「DeLCCS南青山(デルックス南青山)」となり、3階の千代旧宅は女性専用のシェアハウス「東京コマドリ南青山3丁目」としても活用されたが[8]、一帯の再開発に伴いビルは2023年(令和5年)に解体。2026年(令和8年)三井不動産が38階建ての高層複合施設「表参道 Grid Tower」をオープンした[9]

薄墨桜に命を吹き込む

1968年(昭和43年)岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)に「薄墨桜」を初めて見に行く。「薄墨桜」は樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木だが、1959年(昭和34年)に発生した伊勢湾台風で甚大な被害を受け、既に枯死寸前だった。小林秀雄からこの老木の存在を聞いた千代は現地でその惨状に心を痛め、全国規模の募金活動や寄付を提唱。雑誌にもたびたび「薄墨桜」にまつわるエッセイを寄稿した。さらに当時の岐阜県知事平野三郎に保護を直訴。この行動をきっかけに専門家による診断や大規模な保護・蘇生措置が実現して樹勢が回復し、現在の姿が守られた。[10]1974年(昭和49年)、小説『薄墨の桜』を新潮社から刊行。本巣市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品を展示している[11]。「桜は、私の故郷の花であった。私の心の花であったのである」「さくらは幸福の花。私は桜が大好き」と記したように、桜は千代の好んだモチーフで、着物のデザインのほか身の回りの品にも桜のデザインを採り入れた。生家の庭と教蓮寺の千代の墓には、のちに淡墨桜の苗木が植えられた

多治見市美濃焼陶磁器商社ヤマカ陶器は1990年(平成2年)から2008年(平成20年)まで、生前の千代に監修を依頼した淡墨桜モチーフの和洋食器セットを発売。毎年新しいデザインを発表するヒットシリーズとなった[12]。現在は瀬戸焼・美濃焼の企画卸・製造を行う陶磁器商社アイトーが、正式なライセンス保有者として「宇野千代」ブランドの食器シリーズを継承。「花笑み」「花和み」といった桜柄のうつわを企画・販売している[13]。また、日本香堂2003年(平成15年)から、正規の許諾を得て、宇野千代プロデュース線香「薄墨の桜シリーズ」を発売している[14]

人物

幼少期や女学校時代は、父や学校側の方針で男女関係の事柄を掲載した新聞や雑誌の購読を禁じられた。しかし、文章を書くことは好きだったため、女学校を卒業する頃には同人誌の活動に参加し、ガリ版刷りなどを担当していた[15]

生前には「声質が良かった」と発言しており、「大きな声で歌うと、自分の声に自分が聴き惚れるくらい」と語っている[16]

年譜

生家
千代と尾崎の旧居跡の碑(東京都大田区南馬込四丁目)
宇野千代の墓(山口県岩国市
  • 1911年(明治44年) - 従兄の藤村亮一に嫁入りするが十日ほどで帰宅する。
  • 1913年(大正2年) - 父・俊次が57歳で没。
  • 1914年(大正3年) - 岩国高等女学校卒、川上村小学校代用教員となる。
  • 1915年(大正4年) - 鑓田研一らと回覧雑誌を作る。同僚教師との恋愛で退職、大池房代を頼って朝鮮京城に渡る。
  • 1916年(大正5年) - 帰国し、亮一の弟の忠が第三高等学校学生だったので共に京都へ行き同棲。
  • 1917年(大正6年) - 忠が東京帝国大学に入学、ともに上京。各種職業を転々とし、燕楽軒に働く。
  • 1919年(大正8年) - 忠と再婚し藤村姓となる。
  • 1920年(大正9年) - 忠が大学卒業、北海道拓殖銀行札幌支店に勤務、北海道に暮らす。
  • 1921年(大正10年) - 『脂粉の顔』が「時事新報」懸賞で一等に。二等は尾崎士郎、選外佳作に横光利一
    貧しく若い一人の女給が、ひいき客から競馬に誘われ、きおい立って勢一杯の期待で出かけたところ、その客は一人の美しい自信ありげな女性を連れていて、女主人公は自分にだけ分っている自分の気持で切なく苦しむという短編[17]
  • 1922年(大正11年) - 滝田樗陰に送った原稿の返事がなく上京。『墓を發く』が中央公論に掲載されたことを知る。岩国へ里帰りし北海道への帰途、上京。尾崎士郎と同棲を始める。
  • 1923年(大正12年) - 尾崎とともに馬込に住み小説を発表する。短編集『脂粉の顔』を上梓。
  • 1924年(大正13年) - 忠と協議離婚。筆名を宇野千代に改める。吉屋信子と親しくなる。
  • 1926年(大正15年) - 尾崎と正式に結婚。
  • 1928年(昭和3年) - 梶井基次郎との関係が噂となり尾崎と別居。
  • 1930年(昭和5年) - 東郷青児と知り合い同棲。尾崎とは正式に離婚。
  • 1933年(昭和8年) - 『色ざんげ』を発表。
  • 1934年(昭和9年) - 東郷とともに麻雀賭博に参加していた容疑で検挙[18]。同年、東郷と別れる。
  • 1936年(昭和11年) - 「スタイル」誌を創刊。
  • 1939年(昭和14年) - 北原武夫と結婚。媒酌人は、吉屋信子と藤田嗣治。
  • 1947年(昭和22年) - スタイル社の「文体」誌に『おはん』の連載を始める。
  • 1949年(昭和24年) - 井上友一郎の『絶壁』が宇野夫妻をモデルとしたものと言われ紛糾する。
  • 1951年(昭和26年) - フランス旅行。
  • 1957年(昭和32年) - 『おはん』を上梓、野間文芸賞を受賞。
  • 1959年(昭和34年) - スタイル社が倒産。
  • 1964年(昭和39年) - 北原と離婚。
  • 1966年(昭和41年) - 『刺す』を上梓。
  • 1971年(昭和46年) - 女流文学賞を受賞。
  • 1972年(昭和47年) - 芸術院賞受賞、芸術院会員。
  • 1974年(昭和49年) - 勲三等瑞宝章受章。
  • 1977年(昭和52年) - 『宇野千代全集』の刊行始まる。
  • 1982年(昭和57年) - 菊池寛賞受賞。
  • 1983年(昭和58年) - 『生きて行く私』を刊行。
  • 1990年(平成2年) - 文化功労者。

著作

復刊

  • 『脂粉の顔』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 10、1999年12月 ISBN 4-89714-851-0
  • 『あひびき』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 11、1999年12月 ISBN 4-89714-852-9
  • 『幸福』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 31、2000年11月 ISBN 4-8433-0193-0
  • 『新選 宇野千代集』(ゆまに書房 近代女性作家精選集 32、2000年11月 ISBN 4-8433-0194-9

全集・作品集

アンソロジー

  • 『新装 きもの随筆』(双雅房、1938年 000000719947)「お洒落隨筆」収録
  • 『きぬいと』(きもの編輯部、1939年 000000710227)「バタ臭さと粹さ」収録
  • 『甘味 お菓子随筆』(双雅房、1941年 000000695773)「願望の菓子」収録
  • 『十字路の残照』(集英社文庫、1982年11月 000001593905) 「それは木枯か」収録
  • 『幸せのつくり方』(小学館、1984年3月 ISBN 4-09-397301-6
  • 『日本の名随筆 31 婚』(作品社、1985年5月 ISBN 4-87893-931-1)「私の結婚論」収録
  • 『日本の名随筆 38 装』(作品社、1985年12月 ISBN 4-87893-938-9) 「着物は着たきり雀の貧乏な娘が顔だけを念入りにお化粧していたという話」収録
  • 『日本の名随筆 47 惑』(作品社、1986年9月 ISBN 4-87893-947-8) 「残された者の悲しさとは何か」収録
  • 『死ぬための生き方』(新潮社、1988年5月 ISBN 4-10-354002-8) 「風もなく散る木の葉のように」収録
  • 『モダン都市文学 5』(平凡社、1990年5月 ISBN 4-582-30085-5) 「新京行特急」収録
  • 『日本の名随筆 別巻 39 化粧』(作品社、1994年4月 ISBN 4-87893-859-5) 「宇野千代的お洒落哲学」収録
  • 『この国で戦争があった』(PHP研究所、2000年8月 ISBN 4-569-61242-3) 「石油缶いっぱいの胡麻油」収録

派生作品

映画

テレビドラマ

舞台

楽曲

  • 『おはん』(1984年8月、作詞:たかたかし、作曲:岡千秋、編曲:斉藤恒夫、歌:五木ひろし)同名映画の主題歌
  • 『夢色舞い』(1989年1月、作詞:宇野千代・安麻呂、作曲:五木ひろし 歌:五木ひろし)五木の『テレビ・映画主題歌集』(徳間ジャパン、型番:32NT-147)に収録

オーディオブック

  • 2001年12月- 『おはん』(朗読藤岡琢也新潮社CD)、Audible
  • 2010年8月- 『新版 幸福を知る才能』(ナレーター:岡崎弥保)パンローリング(CD、配信)、Audible、audiobook.jp
  • 2010年12月- 『幸福の言葉』(ナレーター:斉藤範子) パンローリング(CD)、Audible、audiobook.jp
  • 2018年5月- 『天風先生座談』(ナレーター:金井淳郎、楠木華子)パンローリング(CD)、Audible、audiobook.jp
  • 2026年11月リリース予定- 『生きて行く私』、Audible

評伝

その他

岩国市営バス「おはんバス」

岩国市のJR西日本各駅に、以下の展示物・記念物がある。

  • 岩国駅西口(正面)側
    • 錦帯橋上で撮影された本人の写真パネル(1番線ホーム西口改札横)
    • 書斎机を再現した展示ケース(西口駅舎出入口・正面北寄り付近)
    • 「おはんベンチ」と名付けられた、バス待合客用木製ベンチ(駅舎外通路にあるバス停留所
  • 西岩国駅
    • 本人を写した写真パネル(待合室内)
    • 「宇野千代のふるさと」と記した看板(駅舎出入口の軒、駅名表記板の上)
  • 川西駅
    • 「ようこそ 私のふるさと 川西へ」と書かれた本人の写真入りの看板(駅ホーム)

また、岩国市交通局により運行されているギャラリーバスの中に千代本人および代表作であるおはんを題材として扱った「おはんバス」がある。

なお岩国市川西に現在でも生家が保存されており、維持管理業務を目的に特定非営利活動法人宇野千代生家が2005年8月3日に設立されている(生家そのものは岩国市が所有)。

オリーブオイルを愛用

若い時からオリーブを美容に用い、「私はもう永年、小豆島のオリーブオイルしか、顔に塗ったことがない」「数十年続けたおかげで絹のような肌だと評判である」と語ったと言われており、小豆島ヘルシーランドと提携して「宇野千代BRANDオリーヴオイルを立ち上げた[22]

千代の年齢から考えると小豆島ヘルシーランドのオリーブオイルを使ったのは最晩年の数年程度で、若年から使っていたのは他社のオリーブオイルである(同社の創業が1985年、宇野千代BRANDオリーヴオイルの発売が1992年)。「数十年続けた」という言葉どおりなら1940年創業の 井上誠耕園、1949年創業の日本オリーブ、1950年創業の小豆島オリーブ、1955年創業の東洋オリーブの製品が候補に挙がる。しかし、井上誠耕園がオリーブ事業を本格化したのは1990年頃、小豆島オリーブと東洋オリーブについても美容オリーブオイルを発売したのは創業から遅く、小豆島ヘルシーランド同様に該当しない。日本オリーブのみ1949年の創業と同時に美容オリーブオイルを展開し年代的には合致するが、同社は岡山拠点で「小豆島のオリーブオイル」には該当せず、千代がこれを小豆島産と思い込んでいた可能性もあるが裏付ける資料は無い。[23][24][25][26]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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