高木作右衛門
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初代高木作右衛門忠雄は当初勘右衛門と名乗っていた[8]。代々肥前国高木荘に住んでいたが、長崎が開港した永禄から元亀年間ごろに父・弾正忠康宗とともに長崎に移住する[8][2]。同地で頭人と呼ばれる町の中心的役割を果たす人物の1人となり[9][10]、朱印船貿易で財をなした[11]。文禄元年(1592年)に豊臣秀吉により頭人は町年寄と改称され、以後長崎の町政を担うこととなる[8][9][12][13][14]。
慶長12年(1607年)に駿府に出頭し、長崎奉行の小笠原一庵の不正を証言して、小笠原を失脚させた[2]。
当初はキリシタンであったが[10]、寛永3年(1626年)にキリシタン禁令が出された際には、町年寄の町田宗賀ジョアンや後藤宗印トメが棄教を拒み、長崎の町を出たのとは逆に、仏教に改宗し[4][15]、同様にキリシタンから改宗した長崎代官・末次平蔵と共にキリシタン弾圧を行なった[16][17][18]。
寛永5年(1628年)5月、作右衛門が送り出した朱印船がシャム湾でフィリピン総督ドン・ファン・デ・アルカラーソ率いるスペイン艦隊によって焼打ちにされ、朱印状を奪われた上、船員57人がマニラに連行されるという事件(メナム河事件)が起きている[19][20]。これを受け、将軍交付の朱印状が奪われるのを阻止するため、海外に渡航する者は幕府老中の奉書を長崎まで携行し、それと引き替えに長崎奉行が通航許可書を発行するという奉書船の制度が定められた[20][21]。
長崎の出島は江戸幕府の命を受け、長崎町人の請負で造られた。その時の25人の出資者を出島町人と呼び、高木作右衛門もその1人に名を連ねている[22][23][24]。
