高等遊民
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定義
高等遊民は何ら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。夏目漱石が『彼岸過迄』で用い[3]、『吾輩は猫である』の迷亭、『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生などは典型的な高等遊民であり、川端康成の『雪国』の主人公のように、他の作家にもしばしば文学のテーマとしても取り上げられている。石川啄木は、旧制中学校卒業後に立身出世がかなわず父兄の財産を食い潰して無駄話を事業として生活している者を遊民としていた[4]。
竹内洋によれば帝国大学(東京大学)卒業者であっても文系とくに文学系の就職は元々悪く、学者や教員、官員になる者が大半で、身の振り方が決まらない者は「就職するまでの待合室」として大学院に在籍するのが常であった(研究生であれば学費は徴収されなかった)。第一次世界大戦のような好景気が起きると就職状況は一気に改善し、一方で昭和恐慌が猖獗を極めた昭和6年の大学・専門学校卒業者の就職率は36.0%まで低下したという[5]。
最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった[6]。
岡本綺堂作半七捕物帖第1作「お文の魂」(元治元年(1864年)が時代設定、大正6年(1917年)文芸倶楽部発出)には、次の記載がある。
旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男というものは、概して無役の閑人であった。長男は無論その家を継ぐべく生まれたのであるが、次男三男に生まれたものは、自分に特殊の才能があって新規御召し出しの特典を受けるか、あるいは他家の養子にゆくか、この二つの場合を除いては、殆ど世に出る見込みもないのであった。かれらの多くは兄の屋敷に厄介となって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしているという、一面から見ると頗る呑気らしい、また一面から見ると頗る悲惨な境遇に置かれていた。こういう余儀ない事情はかれらを駆けて放縦懶惰な高等遊民たらしめるよりほかなかった。かれらの多くは道楽者であった。退屈しのぎに何か事あれと待ち構えている徒であった。
これからすると、江戸時代から高等遊民という存在があったと思われ、朱子学など高度な教育を受けた武士階級の子弟が、その教育の高さのゆえ旗本奴(かぶき者)にもならず、一方でその教養や才能を発揮する場所もなく婚姻もかなわず、鬱屈した人生を送った人々(部屋住み)であった。
長子相続を伝統とする英米[7]でも同様の存在がおり、次男以降は相続以外の方法で自身の財産を見つける必要があり、軍に所属したり実家の支援の下で植民地で新たな人生を切り開くなりする者が多くいた。とくに本国で恥を晒し家族にとって黒い羊と見なされた者は仕送り暮らしの男(リミッタンスマン)として遠隔地にやっかい払いされ、静かに自殺するか、可能であれば再生を図る者として現地の者に軽蔑の対象とされた。