鳥山新三郎
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1819年(文政2年)2月2日、安房国朝夷郡大川村(七浦村→千倉町→南房総市)の漁船三隻を所有する網元、宇山孫兵衛正質の二男として生まれる。8歳の時左眼を負傷し、失明寸前のなか学問に目覚める。宇山家が南朝の忠臣・新田義貞の末裔であるとの自覚を高め、後に尊王論を抱くに至った[2]。
20歳で江戸に出て、東条一堂に儒学、加藤環亀に兵学を学ぶ。また安中藩士で、千葉周作道場の高弟であった浅田五郎作に剣術を指南された。なお浅田は小栗上野介を捕え、処刑したとされる人物の一人(もう一人は園部藩士の原保太郎)として知られている。28歳(または31歳)で京橋桶町に私塾蒼龍軒を開く。1851年(嘉永4年)、学友の江帾五郎(後の那珂通高)の紹介で、21歳の吉田松陰が寄宿した。門人には他に長州藩士(土屋矢之助(土屋蕭海)・同弟土屋恭平・来原良蔵・桂小五郎(木戸孝允)・中村百合蔵・中村九郎、白井小助、赤川淡水・井上壮太郎・金子重之助・中谷正亮・久保清太郎・坪井竹槌など)や出羽国庄内人村上寛斎、熊本藩士(宮部鼎蔵・松田重助・永鳥三平・佐々淳二郎)、薩摩藩士胆付七之丞などがいた。
1854年、松陰が下田に停泊していた黒船から密航を企てたが、失敗し伝馬町牢屋敷に幽閉された際、下田奉行所から尋問をうけた。釈放はされたものの、幕府から謹慎を命じられ、新発田藩邸に預けられた。赦免後も藩邸に留まり、藩士への講義を行なった。また、オランダ語辞典『和蘭文典筌』を完成させた。この頃から頻繁に吐血していたが、獄中にいる松陰のための義援金集めに奔走した。新発田藩士や江帾五郎、筒井明俊などの看病もむなしく、1856年(安政3年)7月29日病のため没した。享年38歳。