鵜崎多一
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1905年(明治38年)、学校法人鎮西学院院長などを務めた宗教家鵜崎庚五郎の四男として京都府京都市で生まれる。鎮西中学校、第二高等学校理科甲類[1]を経て1928年(昭和3年)に東京大学農学部農経科卒業。卒業後、農林省に入省し、福島県農地部長や福岡地方経済安定局調整部長、福岡県知事室長などを歴任した。
1959年(昭和34年)4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。 1961年(昭和36年)6月15日、昭和天皇が各県知事(12の県知事)から地方事情の奏上を受ける場を設けた際には、鵜崎は「産炭地の進講と工場立地のための水資源の開発」と題して福岡県の状況を説明した[2]。 その後も、炭鉱閉鎖による失業者救済のための黒い羽募金運動の提唱をするなど、産炭地の振興、労働者や住民の福祉の確保などを進めた。 また、1961年(昭和36年)には日中友好協会訪中地方自治友好代表団長として中国を訪問するなど日中友好運動にも尽力した。
3選を目指した1967年(昭和42年)の選挙で亀井光に4,000票差で敗れた。1971年(昭和46年)9月11日、癌性腹膜炎のため66歳で逝去。