鶴洋丸
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建造に至る経緯
| 鶴洋丸 (初代) | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 船種 | 練習船 |
| 船籍 |
|
| 運用者 | 長崎大学[2] |
| 建造所 | 林兼造船横須賀造船所[2] |
| 母港 | 長崎[2] |
| 建造費 | 14億900万円[3] |
| 航行区域 | 第三種漁船[2] |
| 信号符字 | JEXD[2] |
| IMO番号 | 7429401 |
| 経歴 | |
| 起工 | 1974年10月[4] |
| 進水 | 1975年4月26日[4] |
| 竣工 | 1975年6月30日[1] |
| 処女航海 | 1975年9月30日[1] |
| 現況 | 退役 |
| 要目 | |
| 総トン数 | 1044.38トン[5] |
| 純トン数 | 352.72トン[5] |
| 全長 | 63.65 m[5] |
| 垂線間長 | 58.00 m[5] |
| 型幅 | 11.85 m[5] |
| 型深さ | 7.60 m[5] |
| 満載喫水 | 4.80 m[2] |
| 主機関 | ダイハツ製4サイクル過給機付ディーゼル機関8DSM-32 1基[2][5] |
| 推進器 | 可変ピッチプロペラ 1軸[5] |
| 出力 | 2,800PS×600RPM[5] |
| 最大速力 | 16ノット[2] |
| 航海速力 | 14ノット[2] |
| 航続距離 | 14,000海里[2] |
| 乗組員 | 78名(職員12名、部員20名、研究員4名、学生42名)[5] |
長崎大学水産学部附属練習船の歴史は、1952年6月の長崎丸 (初代)の誕生をもって始まる。長崎丸 (初代)は総トン数103トン[6]と極小型の練習船で、学生の海技免許取得にあたっても他大学で乗船実習を受けなければならなかった。そこで長期航海が可能な練習船として1964年に総トン数562.98トンの長崎丸(2代)が建造された[7]が、その後の法改正でさらに大型の練習船が乗船実習に必要となり、総トン数1,000トンを超える本船が建造された。船名は学内で公募され、長崎港の雅称に因んで「鶴洋丸」と命名された[1]。日本の練習船としては初めての旋網漁船であった[5]。
設計
船型
本船は船体中央から前部を船橋甲板室を含む居住区画とし、その後方に機関室を有する全通甲板船型で、 船尾にスリップウェイを設けている。全体配置は米国式カツオマグロ旋網漁船 (American style Tuna Purse Seiner) に準じており、船首寄りに船橋、船体ほぼ中央に見張台を設けていた[4]。
漁撈設備
船尾作業甲板の前部にパースウィンチ、スリップウェイ直前に漁網格納場を設けており、付属漁艇として9 mスキフボート1隻と6 m漁艇2隻を搭載していた。また、左舷にウインチ制御卓を設け、バウスラスター、パワーブロックおよび計12台の漁撈用ウインチを集中制御できるシステムとされた。魚艙(80m³)は機関室の後部に配置され、濃塩水を冷媒(-17℃) とするブライン方式凍結であった[8]。
教育研究設備
ウェットおよびドライの2種の研究室を備えていた。学生居住区画は下甲板中央より前方に、食堂兼講義室を囲んで各6人用の学生室7室が配置されていた。海洋観測用ウインチおよびウェット研究室が右舷に置かれ、電磁海流計、深層測流計、X-BT、BT、 STD、塩分計、溶存酸素測定器などが配置された。またドライ研究室には電子計算機が置かれていた[8]。
運用
1975年9月30日海技コース4年次生12名を乗せて、南太平洋・ハワイへ処女航海に船出[1]して以来、1978年には政府主催の公式慰霊巡拝としてアッツ島、キスカ島を訪問し、同年からソロモン政府と共同調査を実施、1982年からは台湾国立海洋学院及びミクロネシア連邦政府との共同調査を実施し、ポンペイ島では同国のナカヤマ大統領の歓迎を受ける[9]など国内、国外の別を問わず活躍した[1]。毎年の主な実習航海は、6~7月の三陸沖漁場で操業する前期の内航と、9~11 月の南西太平洋漁場で操業する後期の外航であった[10]。