黒木弘重

日本の元プロ野球選手 (1933-) From Wikipedia, the free encyclopedia

黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - 2023年5月17日[2])は、宮崎県児湯郡高鍋町[3]出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手外野手

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1933-04-15) 1933年4月15日
没年月日 (2023-05-17) 2023年5月17日(90歳没)
概要 基本情報, 国籍 ...
黒木 弘重
明治大学時代(1955年撮影)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県児湯郡高鍋町
生年月日 (1933-04-15) 1933年4月15日
没年月日 (2023-05-17) 2023年5月17日(90歳没)
身長
体重
180 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年3月25日[1]
最終出場 1960年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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大洋ホエールズで活躍した黒木基康は実弟に当たり、1960年には大洋でチームメイトとして所属した[3]

来歴・人物

高鍋高校在学中は甲子園出場なし[4](弟の基康は1954年、3年生の時に一塁手として夏の甲子園に出場している)。1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする岩岡保宏がいた。

高校時代、たまたま宮崎に来ていた明大の原勝彦らの指導を受けた縁で、岩岡とともに明治大学に進学[5]東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年[6]1955年[7]全日本大学野球選手権大会での明大の連覇に貢献した。

1956年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)へ入団[3]。同期の岩岡、秋山、土井淳沖山光利とともに「明大五人衆」と呼ばれ話題になった。同年は開幕から一軍で起用され、3月25日広島とのダブルヘッダー第2戦(広島県総合グランド野球場)には藤井勇に代わり、いきなり一塁手、四番打者として初先発出場を果たす。しかし同年はこの試合も含めて3試合の先発にとどまった。その後は主に代打や守備固めとして起用されるが、1959年には自己最多の12試合に先発出場。1960年には実弟の基康が入団。6月5日国鉄とのダブルヘッダー第2戦(川崎球場)では兄弟出場を果たした[8](ただし、守備に就いたのみで打撃はすぐに浜中祥和に交代。三原マジックの一環である)。1960年限りで現役引退[3]

引退後は基康と共に、1966年に急逝した義父の事業を手伝っていた。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1956 大洋 36393625000530000300110.139.205.139.344
1957 23242202000211010100110.091.130.091.221
1958 1513121210030001000050.167.250.167.417
1959 5376730141001580020100130.192.203.205.408
1960 1921202401060000010050.200.238.300.538
通算:5年 14617316352721031121040600450.166.195.190.385
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背番号

  • 6 (1956年 - 1960年)

関連項目

脚注

外部リンク

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