龍嶽寺 (長野県下條村)
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| 龍嶽寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 長野県下伊那郡下條村陽皐4616 |
| 位置 | 北緯35度22分42.5秒 東経137度46分54.4秒 / 北緯35.378472度 東経137.781778度座標: 北緯35度22分42.5秒 東経137度46分54.4秒 / 北緯35.378472度 東経137.781778度 |
| 山号 | 萬松山 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 本尊 | 聖観世音菩薩 |
| 創建年 | 天文5年(1536年) |
| 開山 | 東渓興春 |
| 開基 | 下条頼氏 |
| 正式名 | 萬松山 龍嶽禅寺 |
| 札所等 | 伊那坂東三十三ヶ所観音霊場一番 |
| 法人番号 | 1100005009868 |
龍嶽寺(りゅうがくじ)は長野県下伊那郡下條村陽皐にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は萬松山。伊那坂東三十三ヶ所観音霊場一番。
開眼寺
応永2年(1395年)、下条頼氏が信濃国伊那郡粟野村[1]に開眼寺を開基し靜山玄壽が開山した。
開眼寺跡地の南に接する字他所根の丘の中腹の字開厳寺に小堂があって、堂内には一体の薬師如来石像が安置されていたが、1978年(昭和53年)に他所根に工場団地を醸成することになって小堂は取り払われたたため、土地の所有者が自宅に安置した。
延享元年(1744年)の「寺社改帳」に、貝岩寺とあるほか、開眼地・開厳寺とあるのは宛字である。
靜山玄壽の後は、明峯道賢 - 徳翁運磧 - 禅寶専定 らが住持となったが、文明6年(1474年)、下条康氏が大沢城から吉岡城(富山城)に移ると、開眼寺は廃寺となった。
寶積寺
文明年間、吉岡城の大手裏に接した堅町を北に入った40メートルの場所に下条康氏が開基し、鎌倉の建長寺の法流である孝堂素圓の開山により、吉岡山 寶積寺が建立された。
龍嶽寺
爾後、幾星霜を経て、一時期寺門の衰頽を招いたが、天文5年(1536年)、吉岡城主の下条時氏が父の下条家氏の菩提を弔うために、芦が平に下条氏の菩提寺として開基し、長久寺の東渓興春[2]を勧請して開山し、山号を萬松山とした。
龍嶽の寺号は、下条家氏の法名「龍嶽源蒼」から名付けられたと云われ、天正15年(1587年)3月、徳川家康によって下条康長が改易され、当地を去った後も寺運を維持し、慶安2年(1649年)8月17日、徳川家光より朱印地として5石を与えられ、万延元年(1860年)まで寺中門前、山林竹林の諸役を免ぜられた。
正徳3年(1713年)5月、鐘楼門を建立したが、享保3年(1718年)7月26日に南信州を震源とした遠山地震と火災によって諸堂が失なわれたため、享保4年(1719年)、山門・本堂・庫裡を再建し、享保6年(1721年)、鐘楼門を再建した。
鐘楼門は入母屋造で瓦葺屋根で階上に梵鐘を吊るした3間1戸の楼門である。太平洋戦争時の金属供出したため、現在の梵鐘は再興したものである。
瑠璃殿
山門の脇には、文安元年(1444年)、開眼寺3世の徳翁運磧によって建造された方1間3尺の瑠璃殿があり、室町時代の作とされる薬師如来像・毘沙門天像・大黒天像を祀っている。大黒天像は、付近にある大山田神社の前立であったと伝わっている。
五輪塔
境内の西側にある丘陵の上段には、3基の五輪塔が祀られているが、向かって右側の五輪塔はもっとも古く、開眼寺から移された下条頼氏の墓塔とされ、地輪・水輪・火輪は原形を保っているものの、頭部の風輪・空輪は、地震の際に背後の谷に転落し[3]花崗岩の野石をもって補っている。
造立年代は不明である。左側の2基の五輪塔は、頼氏と家氏の墓塔と云われている。
文化財
関連寺院
太子堂
龍嶽寺の末寺で、下條村睦沢6459-3にある。本尊は観世音菩薩像。他に、阿弥陀如来像・弘法大師像・聖徳太子像が安置されている。
元は、極楽山 大松寺[4]であったが、火災により消失し、時の住職は責任を取って火定[5]にて入滅したと伝わる。
天文4年(1535年)正月に草庵として再建され、太子堂に改号した。
文化14年(1817年)、堂宇荒廃の為に再修し、相田堂を併せて、茅葺の屋根を板葺に替え、外縁の板張り等も修理した。
当時の住職は、松平氏の血脈の浄土宗の潤誉で、次いで三河国松平郷の高月院の弟子の法誉、次いで善誉が住職となったが、逐次衰退の止むなきに至った。
嘉永6年(1853年)4月、当時の親田村庄屋の亀吉の日記によると、
太子堂の坊主に扶持米として、1か月に米5升づつを布施することなっていて、4月17日に、4・5月分の米を1斗を、太子堂の坊主に相渡す。
とあり、太子堂の住職は檀家が少なく経済的に困窮していたことが解る。
明治21年(1888年)3月31日に、寺院としては解散したが、太子堂の堂宇は現在も残っている。
吉岡山 圓通軒
廃寺となった吉岡山 寶積寺の跡に観音堂があった。龍嶽寺の附属であったが、1874年(明治7年)7月に廃寺となった。
明治14年(1881年)4月5日に、宅地27坪と耕地2畝19歩を寄付して永続するように所管府の許可を得て、吉岡山 圓通軒と改号した。
堂の後ろの草むらの中に3基の卵塔墓石がある。
天文13年(1544年)の銘がある径が16センチメートルの鰐口が残っており、下條村の指定文化財となっている。
信州 伊那郡 義岡[6]観音堂 大前〇〇〇 天文十三年 甲辰 四月〇〇日
このことから、寶積寺の本尊は観世音菩薩であったことが分かる。
東光山 遊林寺
慶安2年(1649年)2月、龍嶽寺8世の霊谷租信が、下條村の山田河内に開山した寺院で、本尊は観世音菩薩であった。本堂は、方4間3尺。建物は、24坪。境内は、168坪であった。
昭和34年(1959年)の集中豪雨の際に、急傾斜の裏山肌が崩壊して家屋が壊滅したため、当時居住していた家族の中で、7歳の女児が下敷きになって死亡した。その後、廃寺となった遊林寺跡を、山田河内の老人クラブが古材等で改築して使用し、下条頼氏の位牌や諸仏の法要を行っていた。
木彫の仏像については作者が不明である。境内にあった小祠には藤原香姫(紫式部)と伝わる画像があった。