肥前国国人・龍造寺氏13代当主・龍造寺家氏の子として誕生。初名は忠俊[3]、又は家満。
肥前の有力大名である九州千葉氏や少弐氏に従い、大内氏としばしば戦った。文明5年(1473年)、恵日山実琳院を再興し子・澄覚を住持としている[2]。文明17年(1485年)には肥前津町に押買や強盗等の禁制を発している[4]。
明応年間(1492年から1501年)の末に隠居し[2]、家督を次男・家和に譲り[5]、自らは水ヶ江の地に新たな館を築き隠居所とした[2][6]。永正2年(1505年)頃、剃髪し隠岐入道と号した[6]。
永正7年(1510年)、死去。
康家没後、水ヶ江の館を継いだ五男・家兼は館を改修し水ヶ江城とした。これが水ヶ江龍造寺氏の始まりである。