1959年自由民主党総裁選挙
1959年の自由民主党総裁選挙
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概要
1959年に岸信介総裁の任期が満了したことを受けて行われた自由民主党総裁選挙である。
総裁選前の党内勢力は、岸総裁の主流派である十日会(岸派)、春秋会(河野一郎派)、睦政会(大野伴睦派)、周山会(佐藤栄作派)の四派と、非主流派である政策研究所(三木武夫派)、宏池会(池田勇人派)、水曜会(石井光次郎派)、火曜会(石橋湛山派)の四派に二分されていた。総裁選直前の1958年秋、警察官職務執行法(警職法)の改正案審議において、野党・日本社会党の反対運動を世論が支持して法案不成立に終わるという失態を前に非主流派は揺さぶりをかけ、三木、池田、灘尾弘吉(石井派)の三閣僚が辞職、非主流派による党内クラブ「刷新懇話会」を結成するに至る。これに対して岸は、総裁選を当初予定の3月から1月に繰り上げ、非主流派の準備が整う前にこれを行う作戦に出る。
この動きの名kで、大野が非主流派の勧誘を受けているとの風聞が岸の下にもたされたことから、岸は、大野への禅譲をちらつかせることでの引き留めを図る。1月16日、主流派の領袖4人と立会人として萩原吉太郎北海道炭礦汽船社長、永田雅一大映社長、児玉誉士夫が一堂に会して、証文を作成。岸は内閣の最大の目標に掲げた安保改定が果たされたら辞職して、その後は大野、河野、佐藤の順に政権を回すことを密約した[1]。
密約の効果により主流四派は結束し、総裁選では岸が勝利。しかし非主流派は三木派の長老である松村謙三を敗戦覚悟で押し立てて、320対166と善戦する[2]。
- 後史
非主流派の予想以上の勢いを見た岸は、非主流派の一部の取り込みを画策。白羽の矢が立ったのは池田派で、6月18日の内閣改造で池田は通産相に就任。池田と折り合いの悪かった河野が入れ違いで非主流派に転じる。
翌1960年、岸は安保改定と同時に退陣するが、上述の内閣改造とともに大野・河野は非主流派に転じていたため証文は空手形となり、首相は池田、佐藤の順に就任することになる。