1960年自由民主党総裁選挙
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党所属参議院議員:135
地方代議員票 :92
合計 :513
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1960年自由民主党総裁選挙(1960ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1960年(昭和35年)7月14日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。
前政権の第2次岸内閣は、主流派の十日会(岸信介派)、周山会(佐藤栄作派)、中間派の宏池会(池田勇人派)、睦政会(大野伴睦派)、水曜会(石井光次郎派)、反主流派の政策研究所(三木武夫派)、春秋会(河野一郎派)、火曜会(石橋湛山派)という党内情勢であり、岸首相は懸案の新日米安保条約締結を成し遂げ、これを成果に解散総選挙、政権の安定化を目論むが、中間・反主流の6派は反発。安保闘争の逆風の中で条約批准に協力するのと引き換えに、岸内閣は内閣総辞職を余儀なくされる。
- 大野伴睦…党副総裁。大野派は前回総裁選時は河野派、佐藤派とともに岸総裁を主流派として支え、その際、安保条約批准後は岸から大野に禅譲するとの密約を結んだ。自派の他、河野派からの支持を受ける。
- 池田勇人…通産相。池田派は前回総裁選時は反主流派であったが、その後の内閣改造の頃には派閥領袖の入閣を求める岸首相に呼応して、中間派となった(入れ違いに河野派が反主流派に転向)。自派からの支持。
- 石井光次郎…反・岸系の有力候補として1956年総裁選に次ぐ立候補。自派からの支持。
- 松村謙三…三木派の長老として前回総裁選時は反・岸系の統一候補として立候補した。自派からの支持。
- 藤山愛一郎…岸政権に外相と迎えられ、自身の派閥は持たないが、岸派の中の一部議員(藤山派)の支持を受ける。
岸派は、後継に指名した福田赳夫直系、福田継承に反対する川島正次郎らベテラン系、藤山を支持するグループに三分されてまとめきれず、また佐藤派は前述の密約の取り扱いを決めかねて静観を保った。
選挙は、岸執行部の主流派の後継を巡って大野と池田が争うかたちとなり、特に岸・佐藤両派の支持を期待した。大野は、岸に前年の密約の履行を求めたが、岸は言を左右にして態度を明言せず、また岸は、誓約書の作成から年月を経たこと、密約の関係者の一人であった河野が反主流派に転じていることから密約は無効とみなし、大野へ後を譲る考えはなかった[4]。そのため大野は岸本人とは距離をとり、川島系が自身と近しかったことから、これを足掛かりとして岸派に浸透する考えであった。岸派は三分裂し、岸、福田らは池田支持、川島、赤城宗徳らは大野支持、綾部健太郎、南条徳男、武知勇記らは藤山支持、さらに一万田尚登は石井派だった[1]。
選挙直前、大野と石井の間で、いわゆる「2位・3位連合」が持ち上がる。大会2日前の7月11日、河野一郎の奔走によって、大野、石井に川島、一万田、高碕達之助、正力松太郎の六者が会談し「党人派結集」へ一致、「岸亜流政権反対」「官僚政治反対」を打ち出した[1]。しかし党人派の結集は諸刃の剣であった。支持の範囲を広げる効果を持ったものの、主力の河野や三木武夫は安保の採決の本会議を欠席していた[5]。それは安保に政治生命を賭けた岸にとって許しがたい行為であった[5]。岸は特に三木を「世の中で一番嫌いな奴」と異常に嫌っていた[6]。池田支持派の参謀は佐藤、石井支持派の起動力は河野であったが、実際に佐藤派を引っ張って池田支持にまとめたのは田中角栄といわれる[7]。佐藤派内では、木村武雄、橋本登美三郎、愛知揆一、松野頼三の4人が反池田であったが、佐藤派の内部が乱れれば、河野にしてやられるという危機感から派内の結集がなった[8]。12日時点での予測では、大野と池田が決選投票にもつれ込む見通しであった[注釈 1]。
しかし13日未明、事態は急転する。石井派の参議院議員が池田陣営に切り崩されたことが判明、たとえ決選投票に大野が進んでも、石井派がまとまって大野に票を投じることは難しく、固められるのは70票の内せいぜい20から25票程度で、2位・3位連合による逆転は不可能になったのである。大野陣営は急遽善後策を協議。結果、大野が選挙戦を降り、石井に一本化することで一致した。これは、大野派は結束が堅く大野が降りても石井に票を集めることができるが、石井が降りると石井派の票が池田に流れるという見通しになったためである[10]。大野は、こちらが大所帯で結束が固いにもかかわらず、それ故にこちらが降りねばならないという不条理を、涙を呑んで受け入れざるを得なかった。さらに松村もおろすべく、13日、三木派とも接触を持ち、松村も降りて石井に一本化することで合意。この時点で石井ら反・岸陣営は大いに気勢を上げた[11]。
しかし、ここで石井陣営にとって誤算であったのは、大野が立候補を投開票日の朝になって取り止め、日中に調整を行っていたことにより会場の産経ホールの予約時間が切れてしまい、翌14日に日比谷公会堂に場所を移して行われることになったことである。この一夜のうちに、それまで沈黙を保っていた岸・佐藤両派は猛然と動き、池田支持を固めた。岸の動きには、池田と近しかった財界主流が河野を警戒して岸に要請したこともあった。岸の派内引き締めに対して、それまで大野を推し、石井への一本化にも関与していた川島は、「自分は大野を支持していたのであって石井を支持する義理はない」として、系列の議員を引き揚げた。一方、第三の候補として残った藤山は「筋を通す」建て前から選挙戦にはとどまりつつも[3]、決選投票では池田支持という態度を明らかにするなど、池田支持派が一気に巻き返した。
こうして1960年7月14日、池田、石井、藤山の3名による選挙が行われ、池田が大勝した[12]。保守本流の危機を突破する役割を池田が果しえた主因は、勿論運もあるが、池田の決断とブレーンの後押しにあったといえる[13]。
その日の午後、首相官邸における新総裁披露宴の最中、岸はテロに見舞われ重傷を負い、後味の悪い幕切れとなった[8][14]。刺された理由は、先に岸が4人全員に渡していたとされる次期総裁を約束した空手形と関係するといわれる[15]。
池田陣営は財界主流をバックに総額10億円ともいわれる空前の実弾爆弾を仕掛けたとされる[16]。これに対して大野が用意した実弾は3億円だったとされる[17]。後で川島は大野に3000万円返したといわれる[16]。但し宏池会の裏方を任された大平は池田に「"ビタ一文、金を使うようなことは相ならん"と言われ、事実その通り実行した」と述べている[18]。
選挙データ
選挙活動
選挙結果
第1回総裁選から1972年(昭和47年)の第12回総裁選までは立候補制ではなかったため、自民党所属の国会議員への票はすべて有効票として扱われた。
候補者別得票数
| 候補者 | 第1回投票 | 第2回投票 | ||
|---|---|---|---|---|
| 得票数 | 得票率 | 得票数 | 得票率 | |
| 池田勇人 | 246 | 49.40% | 302 | 60.89% |
| 石井光次郎 | 196 | 39.36% | 194 | 39.11% |
| 藤山愛一郎 | 49 | 9.84% | ||
| 松村謙三 | 5 | 1.00% | ||
| 大野伴睦 | 1 | 0.20% | ||
| 佐藤栄作 | 1 | 0.20% | ||
| 総計 | 498 | 100.0% | 496 | 100.0% |
| 有効投票数(有効率) | 498 | % | 496 | % |
| 無効票・白票数(無効率) | % | % | ||
| 投票者数(投票率) | % | % | ||
| 棄権者数(棄権率) | % | % | ||
| 有権者数 | 100.0% | 100.0% | ||
| 出典:朝日新聞 | ||||
備考
- この総裁選の後、当時、自民党政治家のゴーストライターをやっていた渡邉恒雄に『サンデー毎日』から、「大野伴睦の名前で、池田の金権政治に抗議するという内容の手記を書いてくれ」という注文がきた。大野は鷹揚で「大野さん、『サンデー毎日』から手記を頼まれましたけども、書いていいですか」と渡邉が聞いたら「おう、適当に書いておいてくれ」という調子で、「原稿を見てくれませんか」と言っても「いい、いい、任せた」などと言われた。それで大野の手記の体裁で『サンデー毎日』1960年7月31日号に「陰謀政治は許されない 伴睦ここに大死一番」というタイトルで30枚の記事を書いた。当時の渡邊の原稿料は1枚千円だったが、大野の名前で書いた原稿料は1枚1万円で30万円になった。渡邊の月給は当時2万円だったので、思わぬ大金が入り毎晩後輩記者を飲ませていたら「渡邊が派閥を作っている」と言われたという[20]。なお、大野は池田が一年生ながら大蔵大臣に抜擢された際に、猛反発する党人派を宥めて池田を推したことから、大野と池田は仲が良く、大野が「池田は正々堂々と(?)戦ってくれた。池田に恨みは全くない」と渡邊に「池田に言って衆議院議長を取ってきてくれ」と頼み、渡邊が仲の良い大平に頼んだが、衆議院議長はダメで副総理を予定したが、佐藤栄作が反対し、1962年の第2次池田内閣 (第2次改造)のとき、副総裁に就任している[21]。