日本民主党
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教科書問題
1954年当時の日本政界は、戦前の二大保守政党の系譜を引く自由党と改進党、戦後伸長しつつ左右両派に分裂していた日本社会党の三党鼎立の状態にあった。第5次吉田内閣は、自由党を単独与党としつつ、改進党の閣外協力を得て成立していたが、吉田首相のワンマン体制による政権の長期化が党内で軋轢を生み、反主流派の鳩山一郎系との長い党内抗争の最中にあった。
1954年3月、造船疑獄による風当たりを前に、自改両党の合同による保守新党結成が志されるが、6月になってこの動きは頓挫。するとこの時の合同協議会を流用する形で、自由党鳩山系と改進党、日本自由党(自由党内の反吉田系の強硬派が先んじる形で離党して結成した小政党)による、反吉田系保守新党の構想が持ち上がる。かくして11月24日、これらの勢力が糾合して、日本民主党が結党。吉田は衆議院解散を試みるも果たせず、12月10日、第1次鳩山一郎内閣が発足した[6]。
民主党は少数与党のため、1955年1月24日に衆議院解散。2月27日の第27回衆議院議員総選挙では第1党となったが過半数には達せず、社会党が左右両派あわせると民主党とほぼ匹敵する議席数を獲得した。
社会党の伸長を受けて、民主党と自由党の合同、いわゆる保守合同が政治日程に登ってきた。民主党は三木武吉総務会長を中心として岸信介幹事長らが保守合同を牽引した。しかし三木武夫や松村謙三ら旧改進党の左派系は合同に反対した。三木は、保守政党と革新政党の二大政党制が実現すると、保守政党はより保守化し、革新政党はより革新化する力学が働くため、健全な議会政治が育たないことを理由として挙げ反対した。また自由党内も緒方竹虎総裁は合同に積極的であったものの、吉田前総裁を中心に強硬な反対派が存在した。民主、自由両党ともに反対派を抱え、保守合同はたやすく実現しなかったが、革新側の社会党再統一(10月13日)と財界からの要望もあり、1955年(昭和30年)11月15日、保守合同が実現し自由民主党が結成された[7][8][9]。
自由民主党の派閥である「清和会」(後の清和政策研究会)・「政策科学研究所」(志帥会に合流)・「新政策研究会」(志公会に合流)が潮流を継いでおり、自由党が保守本流と呼ばれたのに対して保守傍流と呼ばれた。
1955年8月13日、民主党は学校教科書の偏向問題を指摘した『うれうべき教科書の問題第一集』を発行。教科書のあり方に一石を投じた。これに反論する教科書の執筆者らは同年10月8日に反論パンフレットを刊行。さらに学術会議が同年10月20日に批判声明を発表するなど議論を呼んだ[10]。