1978 FIFAワールドカップ
1978年にアルゼンチンで行われた第11回FIFAワールドカップ
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予選
出場国
出場選手は1978 FIFAワールドカップ参加チームを参照。
| 大陸連盟 | 出場 枠数 | 予選 | 組 予選順位 | 出場国・地域 | 出場回数 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| CONMEBOL | 1+2.5 | 開催国 | 2大会連続7回目 | ||||
| 最終予選 | 1位 | 11大会連続11回目 | |||||
| 2位 | 2大会ぶり3回目 | ||||||
| UEFA | 1+8.5 | 前回優勝国 | 7大会連続9回目[1] | ||||
| 欧州予選 | 1組 | 1位 | 2大会連続3回目 | ||||
| 2組 | 1位 | 5大会連続9回目 | |||||
| 3組 | 1位 | 5大会ぶり4回目 | |||||
| 4組 | 1位 | 2大会連続4回目 | |||||
| 5組 | 1位 | 3大会ぶり7回目 | |||||
| 6組 | 1位 | 3大会連続7回目 | |||||
| 7組 | 1位 | 2大会連続4回目 | |||||
| 8組 | 1位 | 3大会ぶり5回目 | |||||
| 9組 | 1位 | 3大会ぶり7回目 | ○ | ||||
| CONCACAF | 1 | 最終予選 | 1位 | 2大会ぶり8回目 | |||
| CAF | 1 | 最終予選 | 1位 | 初出場 | |||
| AFC/OFC | 1 | 最終予選 | 1位 | 初出場 | |||
- 備考欄の「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。
本大会
概要
前回の西ドイツ大会と同じ大会方式が採用された。16チームが地区予選を通じて選ばれ、4つごとに4グループに分けられた。各グループの1位と2位が通過し、8チームは4つごとに2グループに分けられた。各組の1位が決勝戦を争い、2位は3位決定戦を戦う。また今大会よりPK戦が導入された[2][3]。ただし3位決定戦も決勝も延長までに決着がついたので、本大会でのPK戦の機会はなかった[4]。
第1回大会での準優勝以来、出場はするものの今一つ芳しい成績を挙げていなかったアルゼンチンにとって初の地元開催は優勝を狙う絶好の機会であっただけに、アルゼンチンサッカー協会は代表監督にセサル・ルイス・メノッティを招聘。発足したばかりの軍事政権からも諸外国への宣伝のために優勝を厳命された彼は、ダーティなラフプレーで悪名高かったアルゼンチン・サッカーを攻撃サッカーへと変貌させるべく、首都ブエノスアイレスのビッグクラブに所属する選手や海外でプレーする有力選手ばかりを大会直前に慌しくかき集めていた従来の選抜方式をやめ、地方の小さなクラブも丹念に回り人材発掘に傾注。そしてリカルド・ビジャ、ノルベルト・アロンソ、レネ・オウセマンといった当時のスター選手を招集はしたが重用せず、レオポルド・ルケ、ダニエル・パサレラ、オズワルド・アルディレス、ホルヘ・マリオ・オルギン、ダニエル・ベルトーニ、アルベルト・タランティーニ、ルイス・ガルバン、アメリコ・ガジェゴら代表経験のない無名の若手選手に代表の運命を託すという賭けに出た。軍事政権の全面協力を取り付けたメノッティは選手の海外移籍を禁じ、国内での入念な合宿を敢行して代表メンバーの結束を図った。
前回大会の経験者としてはGKウバルド・フィジョールに唯一の海外プレーヤーであるFWマリオ・ケンペス(と控えのレネ・オウセマン)を加えただけの若い代表チームだったが、優勝への道程は険しいものとなった。1次リーグでは、ハンガリー、フランス、イタリアと強豪ひしめくグループ1に組み込まれた上に、ケンペスが不発だったこともあって、予想以上の苦戦を強いられた。ルケらの活躍によりハンガリー戦、フランス戦には連勝したものの、ルケが負傷欠場した最終のイタリア戦に敗れグループ2位での2次リーグ進出となった。
八百長の疑惑
これにより首都ブエノスアイレスを離れロサリオへの転戦を余儀なくされたが、結果的に見ればこの1次リーグにおける苦戦とロサリオ転戦が若手主体の代表チームを急成長させることになった。さらにこの2次リーグで“エル・マタドール(闘牛士)”の異名を取るケンペスが復調した。彼にとってロサリオのスタジアム「ヒガンテ・デ・アロジート」はかつての古巣CAロサリオ・セントラルの本拠地であり、首都以上に馴染み深い場所だったのが大きかった。かくしてケンペスはポーランド戦2得点、ペルー戦2得点を挙げる大活躍を見せる。特に2次リーグ最終戦のペルー戦では4点差以上で勝たなければ決勝進出の夢を断たれるという絶体絶命のピンチに追い込まれたが、6-0と圧勝したこと(軍事政権がペルーを買収した八百長の疑い)が大きくものを言って同組ライバルのブラジルを得失点差で上回り、決勝進出を決めた[5]。ペルー代表選手ベラスケスの暴露によると八百長はアルゼンチンのビデラ大統領とペルーのベルムーデス大統領の間で決めらた。ペルーのカルデロン監督はセンターフォワードが一人もいない布陣とした。試合直前に、ペルーのロッカールームにアルゼンチンのビデラ大統領が選手激励に訪れている。また、米国キッシンジャー元国務長官も同席した。ペルーのロッカールームにおいてアルゼンチンのビデラ大統領がペルーのベルムーデス大統領の祝辞「我々は同盟国だ。アルゼンチンが優勝しなければ、大変なことが起こる」と読み上げた。キッシンジャーはアルゼンチン優勝で東西冷戦の均等を希望した。ベラスケスは、「多数が買収されて八百長をした」と、実名を述べている。また、ブラジル代表のリベリーノはコウチーニョ監督からペルー戦・アルゼンチン戦・ポーランド戦の出場を認められず、アルゼンチンの決勝進出決定後の3位決定戦で出場停止が解けた[6][7][8]。
決勝のオランダ戦でもケンペスの勢いは止まらず、2得点を決め延長の末に3対1で勝利し、初優勝を果たした。通算で6得点を挙げたケンペスは優勝国から出た初の単独得点王となった。メノッティは軍事政権から与えられた使命を果たし、攻撃的なサッカーで優勝するという賭けに勝った。
名将エルンスト・ハッペルが率いたオランダはニースケンス、クロル、レンセンブリンク、レップ、ハーン、ヤンセンら前回メンバーの大半が健在であり、トータルフットボールが影を潜めた1次リーグではスコットランドに敗れるなど少々もたついたものの2次リーグに入って調子を上げ、粘り強く決勝まで勝ち残った。しかし、1974年西ドイツ大会に続き2大会連続で開催国相手に決勝戦で敗れる結果となった。トータルフットボールの中心的存在だったヨハン・クライフがアルゼンチン軍事政権の弾圧政策に反対する立場から出場しなかった(後に子どもの誘拐未遂事件に遭ったためだったことを明らかにした[9])ことが結果的に大きく響いた。
前回優勝国の西ドイツはフランツ・ベッケンバウアーが大会直前に代表を引退し(当時ニューヨークコスモスに在籍し、ペレ及びベッケンバウアーは、キッシンジャー(米国)からの不参加の要請を拒否できなかった。)、ベルティ・フォクツが主将を引き継いでチームを牽引した。しかし、2次リーグ最終戦、オーストリア戦で、フォクツ自ら痛恨のオウンゴールを献上し、ハンス・クランクルに2得点を許したことが響いて2対3の逆転負け、ベスト4進出目前で敗退した。
ブラジルは70年大会優勝時の攻撃力には及ばないものの、ジーコ、ジルセウやロベルト・ディナミッチ、トニーニョ・セレーゾ、オスカル、レオンらを中心とし、無敗のまま2次リーグを終える強さで歴代最多優勝国の意地を見せた。ホスト国をあと1歩まで追い詰めたが、最後は得失点差により3位に終わった。
監督のエンツォ・ベアルツォットに率いられ、ヨーロッパ地区予選でイングランドに競り勝って出場を決めたイタリアは、ベッテガ、アントニョーニらアタッカー陣とGKゾフ、DFカブリーニ、シレアらディフェンス陣との攻守バランスが程よく取れており、今大会で地元アルゼンチンを破った唯一のチームとなった。2次リーグ最終戦でオランダに逆転負け、3位決定戦でもブラジルに敗れて4位に終わったが、メンバーの大半はそのまま残り、次回スペイン大会では優勝を果たした。
1次リーグの対オランダ戦で、スコットランドのアーチー・ゲミルが決めた得点シーンは映画『トレインスポッティング』の中で演出として使われた。2次リーグに進むためにはスコットランドは3点差が必要であり、ゲミルの得点が試合を3対1にした。しかし、その後オランダが1点を返し、3対2となり、スコットランドは1次リーグで姿を消した。
なお、今大会でブラジルからジーコ、西ドイツからカール=ハインツ・ルンメニゲ、イタリアからパオロ・ロッシ、フランスからミシェル・プラティニが期待の若手として本大会デビューを果たし、各々ゴールも決めている。
しかし、直前に勃発した政情不安、軍事政権による介入など暗い影を落としたこの大会は今日においても「ワールドカップ史上最も汚い大会」と、南米では頻繁に非難されている。
結果
1次リーグ
グループ 1
グループ 2
グループ 3
グループ 4
2次リーグ
グループ A
グループ B
3位決定戦
決勝
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優勝国
| 1978 FIFAワールドカップ優勝国 |
|---|
アルゼンチン 初優勝 |
得点ランキング
| 順位 | 選手名 | 国籍 | 得点数 |
|---|---|---|---|
| 1 | マリオ・ケンペス | 6 | |
| 2 | ロブ・レンセンブリンク | 5 | |
| テオフィロ・クビジャス | |||
| 4 | ハンス・クランクル | 4 | |
| レオポルド・ルケ | |||
| 6 | カール=ハインツ・ルンメニゲ | 3 | |
| パオロ・ロッシ | |||
| ヨニー・レップ | |||
| ジルセウ | |||
| ロベルト・ディナミッチ |
表彰
批判・問題点・トラブル
政治的混乱と人権
1978年のワールドカップをめぐる論争の一つとして、大会のわずか2年前(1976年)にイサベル・ペロン政権がクーデターによって軍事独裁政権(国家再編プロセスと呼ばれる)に取って代わられたことだった。軍事政権が政権を掌握してからワールドカップ開幕までの間、外国人ジャーナリストたちは、政権が左派勢力を排除しようとする中で、アルゼンチンの新聞記者や編集者をどのように扱っているのかを懸念しており、新政権は、自分たちを弱体化させようとするあらゆる社会勢力を標的にした[10]。ワールドカップ開催前の1977年9月、アルバノ・ハルギンデギー内務大臣は、5,618人が行方不明になったと発表したが、悪名高き海軍高等機械学校では汚い戦争の強制収容所囚人が収容されており、囚人たちはわずか1マイル(約1.6キロ)離れたリバープレートのモニュメンタル・スタジアムで行われる試合の観衆の歓声を聞くことができたと伝えられている[11]。これは、1936年のベルリンオリンピックと1934年のFIFAワールドカップにおけるアドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニによるスポーツウォッシングと比較されることになった[12]。また、軍事政権は設立当初から検閲を実施しており、アルゼンチンの実際の状況に関する報道を減らすよう促し、これはアルゼンチン国民の性格を変えようとする試みとして行われていた[10]。
ワールドカップ開催のわずか数ヶ月前、軍事政権は国民からの政府へのあらゆる批判を封じ込めるためのキャンペーンを開始したが、大会期間中、政権は権威主義的な姿勢を示して世界中から批判を受けることを避けるため、この作戦を中止したが、国際的な新聞や人権団体は既に、ワールドカップ開催国としてのアルゼンチンを批判していた[13]。
ウィル・ハーシーの記事「1978年アルゼンチン大会を振り返る:史上最も汚いワールドカップ」より[14]
抗議
軍事政権による政情不安のため、オランダやスウェーデンをはじめとする一部の代表チームは、大会への参加の是非を公に検討したが、最終的には全チームが制限なく参加した[15]。当時世界的にトッププレイヤーだったヨハン・クライフが、1978年のFIFAワールドカップ予選には出場していたにもかかわらず、本大会への出場を拒否したが、クライフが政治的信念のために出場を拒否したという疑惑は、30年後に彼自身によって否定されており、大会の数ヶ月前、彼と家族は誘拐未遂事件の被害に遭っており、バルセロナの自宅に夜中に複数の犯人が押し入り、銃を突きつけて彼と家族を縛り上げるという事件が起きていた[16]。
五月広場の母たちのメンバーであるエンリケータ・マロニは、オランダのテレビのインタビューで独裁政権の犯罪について率直に語ったことで国際的に知られるようになった[17]。
ラテンアメリカとヨーロッパ以外では、米国、カナダ、オーストラリアの人権団体も独裁政権の犯罪に注目を集めるための独自のキャンペーンを開始し、北米各地のアムネスティ・インターナショナル支部は、強制失踪に関するファクトシートを公表し、FIFAと各国政府にアルゼンチンの弾圧を非難するよう圧力をかけるための手紙を書く運動を組織した[18]。