サッカーオーストリア代表
オーストリアの男子サッカーナショナルチーム
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サッカーオーストリア代表(サッカーオーストリアだいひょう、ドイツ語: Österreichische Fußballnationalmannschaft)は、オーストリアサッカー協会(ÖFB)によって構成される、オーストリアのサッカーのナショナルチームである。ホームスタジアムは、首都ウィーンにあるエルンスト・ハッペル・シュターディオン。
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| 国または地域 |
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| 協会 | オーストリアサッカー協会 | |||
| FIFAコード | AUT | |||
| 監督 |
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| キャプテン | ダヴィド・アラバ | |||
| 最多出場選手 | マルコ・アルナウトヴィッチ(128試合) | |||
| 最多得点選手 | マルコ・アルナウトヴィッチ(45得点) | |||
| ホームスタジアム | エルンスト・ハッペル・シュターディオン | |||
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| 初の国際試合 | ||||
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(ウィーン, 1902年10月12日) | ||||
| 最大差勝利試合 | ||||
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(ウィーン, 2025年10月9日) | ||||
| 最大差敗戦試合 | ||||
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(ウィーン, 1908年6月8日) | ||||
| FIFAワールドカップ | ||||
| 出場回数 | 7回(初出場は1934) | |||
| 最高成績 | 3位 (1954) | |||
| UEFA欧州選手権 | ||||
| 出場回数 | 4回 | |||
| 最高成績 | ベスト16 (2020, 2024) | |||

歴史
1890年代 - 1900年代
オーストリアへ19世紀後半に入ってきたサッカーが発展したのは1890年頃である。ウィーンのロスチャイルド家に仕えていたイギリス人庭師たちがよくサッカーに興じていたことから、ウィーンの人々へ広まったとされる。[1]
1894年にファースト・ヴィエナ・フットボールクラブ1894とウィーン・クリケット・アンド・フットボールクラブ(de:Vienna Cricket and Football-Club)(1892年に在ウィーンイギリス人が“Vienna Cricket Club Wien”という名で始めたクリケットクラブが改名)が、オーストリア初のサッカークラブとしてウィーンに設立された。また1904年にはオーストリアサッカー協会が組織された[1]。
その中で、オーストリア代表が最初に試合を行ったのは1902年10月12日のハンガリー代表戦で、5-0で勝利した。1918年まで両国はオーストリア=ハンガリー帝国を形成しており、「ウィーン対ブダペストの都市対抗戦」としてのゲームだった。その後現在に至るまで、サッカーにおけるオーストリアとハンガリーのライバル関係(en:Austria–Hungary football rivalry)は続いており、両国は世界で2番目に多く国際試合をしている組み合わせである[1][2]。
1902年当時、オーストリア=ハンガリー帝国で単一の協会やナショナルチームは結成されず、この時点でのオーストリア代表は、オーストリア・ハンガリー帝国内のオーストリア地域(オーストリア帝冠領)を代表するものであった。なお、このオーストリア地域にはボヘミアやモラヴィアといった現在のチェコに相当する地域の他、クライン州(現在のスロベニア)、ポーランドの一部を含んでいる。1903年にはボヘミア代表がハンガリー代表と試合を行っており、オーストリア内部でも統一性が保たれていたわけではない。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリーは分裂し、後継国家のナショナルチームとしてチェコスロバキア代表、ポーランド代表が誕生した。また、オーストリア代表は現在までとほぼ同じ地域を代表するナショナルチームとなった。
1930年代 - 1940年代
大戦間期、特に1930年代前半においてオーストリアは“ヴンダーチーム”と呼ばれ世界最強チームの一角とみなされていた(ただしイングランドが国際大会に登場しない限りにおいてである)。1934年のワールドカップイタリア大会は、ベニート・ムッソリーニが極めてファシストらしいやり方で大会を演出し、イタリアを優勝させた大会として名高いが、ヴンダーチームはイタリアに準決勝で敗れて4位に終わった。
1938年のワールドカップフランス大会でもイタリアへの対抗馬としてオーストリアに対する期待感は非常に高く、予選を通過していたものの、開催の3か月前にナチス・ドイツによりオーストリアが併合(アンシュルス)されたため出場権を失った。アドルフ・ヒトラーは、元オーストリア代表の面々に対してドイツ代表に加わる事を強いた。オーストリアに代わって俄かにドイツが優勝候補に祭り上げられたが、選手のモチベーションは上がらず、ドイツも初戦で敗退した。
第二次世界大戦後、オーストリア代表はまもなく再建され、1945年8月にはブダペストにてハンガリー代表と2回対戦している。プラーターシュターディオンが修復されると、同年12月6日に8年ぶりとなるホームゲームを行った。フランス代表とのこの歴史的な試合にオーストリアは4-1で勝利し、チームは“ヴンダーチーム”と呼ばれた頃を彷彿とさせる好調期に再び入る。
1950年代 - 1960年代
そのハイライトとも言えるのが、1954年のワールドカップスイス大会である。予選ではポルトガルを圧倒したほか、続くグループリーグではスコットランドに1-0で勝利、チェコスロバキアに5-0という大勝を収めた。オーストリアサッカー史で最も有名な試合とされているスイスとの準々決勝では、ゴールキーパーのKurt Schmied(de:Kurt Schmied)が開始後すぐに熱中症にかかるも交代が許されず、マッサージ師のPepi Ulrich氏がゴール裏に控えてサポートするアクシデントが発生、またPKを失敗するなど、スリリングな内容ながらも7-5で勝利した。ワールドカップでの3点差からの逆転勝利は、1966年大会の準々決勝の北朝鮮戦で5-3で勝ったポルトガルと共に最高記録である。準決勝では西ドイツに6-1で敗れたものの、3位決定戦でウルグアイを3-1で破り3位となった[3]。
1958年ワールドカップスウェーデン大会でのオーストリア代表は1954年のチームとは比較にならず、グループリーグでブラジルに0-3、ソ連に0-2で敗れ、イングランドに2-2で引き分けたことで最下位となり、早々に敗退した。その後、20年間に渡ってオーストリアは予選敗退を繰り返し(1962年のチリ大会は資金不足のために棄権)、ワールドカップ出場は叶わなかった[4]。
1970年代 - 1980年代
20年ぶりのワールドカップ出場となったアルゼンチン大会でオーストリアは1次リーグでブラジル、スペイン、スウェーデンと強豪と同グループになるも、首位で突破しベスト8に進出した。しかし、オランダやイタリアに敗れ、決勝進出には至らなかった。その後、行われた西ドイツ戦は敗退が決まっていたオーストリアにとっては消化試合だったが、西ドイツにとっては勝てば決勝進出、引き分けても3位決定戦進出の可能性がそれぞれある試合だった。蓋を開けてみると、ハンス・クランクルの2得点の活躍や、フランツ・ベッケンバウアーに代わって今大会から新たな西ドイツの主将となったベルティ・フォクツのオウンゴールなどもあり、オーストリアが3-2で逆転勝利した。47年ぶりに隣国を下したこの試合は、オーストリアではコルドバの奇跡(de:Córdoba 1978)と呼ばれ、広く知られている[5]。
チリ、アルジェリア、西ドイツと同グループとなった1982年ワールドカップスペイン大会1次リーグでは、オーストリアはチリとアルジェリアにそれぞれ1-0、2-0で勝利し、西ドイツ戦を残して2次リーグへの出場はほぼ確実となった。のちにヒホンの恥と呼ばれる一戦は、西ドイツにとっては2次リーグ進出のために勝利が絶対条件となっていた。なお、同グループの他試合が終了していたため3点以上の差で負けない限りはオーストリアの敗退はなく、西ドイツが1点あるいは2点差で勝利すると、両国揃って第2グループに進出できることが確定していた。
試合は西ドイツが前半に先制するも、それ以降は両チームともに無難なボール回しに終始し、そのまま0-1でオーストリアが敗れた。結果的にオーストリアと西ドイツが2次リーグに進出した。しかし両チームは互いに試合をコントロールしたとして、西ドイツの得点によっては2次リーグ出場の可能性を残していたアルジェリアや開催国のスペインをはじめ、世界中から大きく非難されることになる。この試合を受けて、1984年のUEFA欧州選手権と1986年のワールドカップメキシコ大会から国際大会のグループリーグの最終戦は同時開催されることになった。その後、オーストリアはフランスに敗れたため2次リーグで敗退した[6]。
1990年代 - 2000年代
のちにオーストリア代表の歴代最多得点をマークすることになるアントン・ポルスターや、“アルプスのマラドーナ”の異名を取ったアンドレアス・ヘルツォークなど国際レベルの若手選手がA代表として活躍するようになり、1990年のワールドカップイタリア大会にも出場が決まるが、グループリーグでイタリアとチェコスロバキアにそれぞれ0-1で敗れ、アメリカには2-1で勝利したが敗退となった。
1998年ワールドカップフランス大会では、予選で強豪のスウェーデンを下すなど危なげなく大会の切符を勝ち取った。しかし、カメルーンとチリにそれぞれ1-1で引き分け、優勝候補のイタリアにも1-2で敗れ、またしてもグループリーグで姿を消すこととなった[7]。続く2002年ワールドカップ日韓大会の予選では、プレーオフでトルコに敗れ出場権を逃した[8]。
なおもEURO本大会には縁が遠く、2008年大会をスイスと共同開催し、開催国特権で予選を戦わず本大会へ初出場した。だが、実力が十分ではないとしてサポーターの一部が大会の参加辞退を求める嘆願書の署名運動を行い、一万人を超える署名が集まる事態となった[9]。結果はポーランドに引き分けたが、クロアチア、ドイツに敗れグループリーグで敗退した。
2010年代 - 2020年代
EURO2016年大会は予選で9勝1分の好成績を残しグループリーグを首位で通過、2015年のFIFAランクで10位まで上り詰め、本大会での期待も大きかった。だが、大会本番では1勝もあげられずグループステージを最下位で敗退した[10]。
1年延期されたEURO2020年大会では、北マケドニア戦で大会初勝利を記録。2位で初めてグループステージを突破し、ノックアウトステージへ進出した。ベスト16では優勝国のイタリアと対戦したが、延長戦の末に敗れた[11]。
2022年ワールドカップカタール大会予選ではヨーロッパ予選グループF4位に終わったものの、UEFAネーションズリーグ2020-21の成績要件によりプレーオフに進出したが、パスA準決勝でウェールズに敗れ出場権を逃した[12]。
UEFA EURO 2024ではEURO優勝経験国でもあるオランダとフランス、ポーランドと同居する比較的厳しい組み合わせに入った。初戦ではフランスに1-0で敗れるも、第2戦ではポーランドに3-1、第3戦ではオランダに3-2でそれぞれ勝利した。一方、裏の試合でフランスがポーランドに引き分けたため、EURO優勝経験国2ヶ国を凌いでオーストリアの1位通過が決定した[13]。だが、ラウンド16ではトルコと対戦して敗れ、オーストリアの初となる準々決勝進出はならなかった。
2026年ワールドカップカ北中米大会予選ではヨーロッパ予選グループHの首位を独走し、最終戦ではグループ2位のボスニア・ヘルツェゴビナと1-1で引き分けたため、フランス大会となる以来7大会ぶりのワールドカップ出場を決めた[14]。
成績
FIFAワールドカップ
UEFA欧州選手権
歴代監督
エルンスト・ハッペル 1992
ヨーゼフ・ヒッケルスベルガー 2006-2008
カレル・ブリュックナー 2008
ディートマー・コンスタンティーニ 2008-2011
ヴィリー・ルッテンシュタイナー 2011
マルセル・コラー 2011-2018
フランコ・フォーダ 2018-2022
ラルフ・ラングニック 2022-
歴代選手
主要大会のメンバー
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主な代表選手
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歴代記録
- 出典[15]
出場数ランキング 水色は現役代表選手
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得点数ランキング 水色は現役代表選手
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