Yak-50 (航空機・初代)
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1948年1月に提示された全天候戦闘機の開発要求に対し、ミコヤン・グレヴィッチ設計局の製品«R»(後のI-320)やラヴォーチキン設計局の製品«200»(別名La-200)が複座双発機、スホーイ設計局の製品«P»(後の初代Su-15)が単座双発機と、比較的大型な機体だったのに対し、ヤコヴレフ設計局は単発単座で小型のYak-50案を提示した[1][2]。
Yak-50はYak-30の発展型であり、主翼の後退角を45度にした点、降着装置を自転車式降着装置に変更した点が変更点であった[3][4]。レーダーは「コーショーン(Коршун)」レーダーで、機首上部のレドームに搭載した[4]。
Yak-50は1949年7月15日に初飛行した[5]。軽量な単発機に仕上げたため競合機と比べて速度や上昇力、操縦性では勝っていたが[6][5]、37 mm砲を搭載していないことによる火力不足、自転車式降着装置の採用に伴う横風着陸の困難さが指摘された[5][6]。また、黎明期のレーダーである「コーショーン」レーダーは操作が複雑で、操縦者が操作を兼任するのは現実的ではなかった[5](同時期に試作されたミコヤン・グレヴィッチ設計局のSP-1も同じ問題を抱えることになる[7])。これらの問題が解決できず、2機が試作されたYak-50は1950年5月30日に開発中止となった[8][5]。
当時、ヤコブレフ設計局にいた設計者であるアドラーの回想録によると、アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ヤコヴレフは設計局職員に対し、「Yak-50の主翼や降着装置は悪くなく、これにミクリン製新型エンジンを主翼に搭載すれば胴体は自由に設計でき、Yak-50よりも強力なレーダーや燃料を搭載できる」と説いたという[3]。実際にこの方針で設計されたのがYak-120で、これが後にYak-25として採用されることになる[6]。