アブドゥッラー・ブン・ハムダーン
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アブル=ハイジャー・アブドゥッラー・ブン・ハムダーン(アラビア語: أبو الهيجاء عبد الله بن حمدان, ラテン文字転写: Abu ’l-Hayjāʾ ʿAbdallāh b. Ḥamdān, 929年没)は、ハムダーン朝の初期の成員の一人であり、軍司令官や地方総督としてアッバース朝に仕えた人物である。
アブドゥッラーは当初アッバース朝の下で主にモースルとディーナワルの総督として活動した。その後、ディーナワルの総督職を罷免されたことを契機として発展した929年2月のカリフ位の簒奪事件において主導的な役割を果たしたが、この事件に反発した一派によって最終的に殺害された。しかし、アブドゥッラーの息子であるナースィル・アッ=ダウラとサイフ・アッ=ダウラは後にそれぞれモースルとアレッポにおいてハムダーン家の政権を樹立することに成功した。
アブドゥッラーはハムダーン朝の開祖であるタグリブ族の指導者のハムダーン・ブン・ハムドゥーンとクルド人女性の間に生まれた[1][2]。一族は10世紀になる頃にアッバース朝に仕えるようになり、アブドゥッラーは905年か906年にモースルの総督に任命された[1]。そして総督となって以降はクルド人に対する戦役に従事した[1]。
908年にアブドゥッラーは王族のアブドゥッラー・ブン・アル=ムウタッズをカリフに擁立しようとしたクーデター未遂事件に関与した自身の兄弟のフサインを追跡するように命じられたが、捕らえることはできなかった。代わりにもう一人の兄弟であるイブラーヒームがフサインの赦免を交渉し、その結果フサインはアッバース朝の臣下に復帰した[1][3]。その後、アブドゥッラーは913年か914年に総督職を解任されたが、その理由は不明である。この解任に反発したアブドゥッラーはすぐに反乱を起こしたが、短期間でアッバース朝軍の最高司令官のムウニス・アル=ムザッファルに降伏し、翌年には総督職に復帰した[1]。914年から915年にかけて兄弟のフサインが再び反乱を起こしたが、ムウニスに敗北して捕らえられ、バグダードに連行されるとそこで918年に処刑された[1][4]。この事件の結果、アブドゥッラーにも疑いの目が向けられ、兄弟のイブラーヒームとともに一時投獄された[1]。
しかし、アブドゥッラーは短期間で釈放され、919年にアーザルバーイジャーンで反乱を起こした現地の総督のユースフ・ブン・アビー・アッ=サージュに対する遠征にムウニスとともに参加し、920年にはタリーク・ホラーサーン地方とディーナワルの総督に任命された[1]。923年か924年にはハッジの巡礼路をカルマト派から守る任務を与えられたが、メッカからバグダードへ戻る巡礼団のキャラバンがアブー・ターヒル・アル=ジャンナービーに率いられたカルマト派の部隊に襲撃された。アブドゥッラーは多くの宮廷の要人とともに捕虜となったが、翌年に交渉によって自身を含む捕虜を解放させることに成功した[1][4][6]。925年にはモースルの総督に再任され、ティグリス川東岸のバーザブダーとカルダー地方もモースル総督の管轄下に置かれた[1] 。
アブドゥッラーはアッバース朝の宮廷の重臣であったために大半の時期をモースルから離れて過ごしており、代わりに息子のハサンを代官に任じて現地を統治させていた[1][7]。この時期の数年間、ハムダーン家はムウニスと同盟関係にあった[7]。ある時、アブドゥッラーとその兄弟たちは、ムウニスの「顎鬚が生えるまで」(ムウニスは宦官であった)ムウニスのために戦うと約束した[8]。927年にカルマト派がイラクに侵攻し、バグダードを脅かすと、アブドゥッラーはカルマト派と戦うために派遣されたアッバース朝軍に当時存命中であった兄弟たちとともに加わった。史料はカルマト派の攻撃を撃退する上でアブドゥッラーが重要な役割を果たしたと評価しており、例として特にズバーラ川にかかる橋を破壊することでカルマト派のバグダードへの進軍を阻止したという作戦を挙げている[1][9]。
その後、カリフのムクタディル(在位:908年 - 932年)の従兄弟にあたるハールーン・ブン・ガリーブがムウニスから最高軍司令官の地位を奪い取ろうと目論み、自身をジバール地方の総督に任命させることに成功した。ハールーンは同地域内のディーナワルの総督職にあったアブドゥッラーを罷免したが、この措置はハムダーン家を激怒させ、アブドゥッラーを軍とともにバグダードに向かわせ、ハールーンへの報復に駆り立てる原因となった[1][10]。アブドゥッラーはバグダードの警察長官のナーズークと同盟を結び、ともにムウニスをハールーンとカリフに敵対させる工作を開始した。ムクタディルはすぐにムウニスの要求に屈してハールーンを追放したが、ナーズークに煽動された陰謀者たちは今度はカリフ自身を廃位させる決意を固めた[11]。929年2月27日の朝に陰謀者たちは宮殿に侵入し、ムクタディルを廃位してムクタディルの異母弟のカーヒルを擁立した[12]。アブドゥッラーはこの功績によって広範な地域を監督する総督職を手に入れたが、数日も経たないうちに新政権への反発が起こり、カーヒルとその支持者たちはカリフの宮殿で包囲された。アブドゥッラーは守ることを誓約していたカーヒル(後に932年から934年にかけて実際にカリフとして統治することになる)を防衛する戦いの中で命を落とした[13][14][15]。誠実で寛大な人柄や勇敢な戦士としての資質を広く称賛されていたアブドゥッラーは、この事件後に復位したカリフであるムクタディルでさえ生け捕りにできるかもしれないと期待してアブドゥッラーの恩赦を発し、その死を悼んだほどであった[16][17]。
子孫
アブドゥッラーの息子のハサン(通常はナースィル・アッ=ダウラの名で知られる)はモースルとジャズィーラ地方の支配権を確立し、そこに半独立的なアミール政権を築いた。父親と同様にハサンはバグダードの宮廷の陰謀に関与し、942年にはバグダードの支配権とアッバース朝のカリフを統制する権力さえ手に入れたが、持続的な成功には至らなかった[16][18]。ハサンの子孫は990年にウカイル朝に取って代わられるまでモースルを支配した[19][20]。アブドゥッラーの次男のアリー(通常はサイフ・アッ=ダウラの名で知られる)は940年代半ばにアレッポとシリア北部で自らの政権を樹立し、ビザンツ帝国に対するイスラームの守護者として、また自身の宮廷における芸術と文学の庇護者として名声を博した[21][22]。アリーの系統のハムダーン朝は1002年までアレッポを支配した[23][24]。