フサイン・ブン・ハムダーン
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| フサイン・ブン・ハムダーン حسين بن حمدان | |
|---|---|
| 生誕 | 不明 |
| 死没 |
918年10月または11月 バグダード |
| 所属組織 |
アッバース朝 ハムダーン朝 |
| 軍歴 | 895年 - 915年 |
| 戦闘 |
ハワーリジュ派、ドゥラフ朝、カルマト派、およびサッファール朝に対する軍事行動 ハマーの戦い |
| 親族 |
父: ハムダーン・ブン・ハムドゥーン 兄弟: イブラーヒーム アブドゥッラー ダーウード ナスル サイード 甥: ナースィル・アッダウラ サイフ・アッダウラ |
フサイン・ブン・ハムダーン・ブン・ハムドゥーン・ブン・アルハーリス・アルアダウィー・アッタグリビー(アラビア語: حسين بن حمدان بن حمدون بن الحارث العدوي التغلبي, ラテン文字転写: Ḥusayn b. Ḥamdān b. Ḥamdūn b. al-Ḥārit̲h̲ al-ʿAdawī al-Tag̲h̲libī, 918年没)[1]は、ハムダーン朝の初期の成員であり、アッバース朝の将軍としての顕著な功績を通じてジャズィーラ地方とアッバース朝の宮廷におけるハムダーン家の台頭に重要な貢献を果たした人物である。
ハムダーン朝の名祖であるハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子として生まれたフサインは895年にアッバース朝の臣下となり、その後ジャズィーラで続いていたハワーリジュ派の反乱を鎮圧した功績の見返りとして自らの部隊を編成する権利を得たことでジャズィーラにおける指導者の地位を確立した。続く数年にわたりフサインはドゥラフ朝とカルマト派、およびトゥールーン朝に対する戦役で勝利を重ねた。
アッバース朝における最も傑出した将軍の一人としてフサインは権力と影響力を拡大させていったが、908年に発生したカリフのムクタディルの廃位を目論んだクーデター未遂事件において主導的な役割を担っていたことから、事件後にバグダードからの逃亡を余儀なくされた。しかし、最終的に恩赦を得てクムとカーシャーンの総督に就任し、将軍のムウニス・ハーディムとともにペルシア中南部における軍事作戦で再び顕著な功績を立てた。
911年頃にはジャズィーラ東部のディヤール・ラビーアの総督に任命されたが、914年頃に原因がはっきりとしない反乱を起こし、916年に敗れて捕らえられると918年にカリフのムクタディルの命令によって処刑された。しかし、フサインの功績によって一族が要職に就任するようになっていたハムダーン家はフサインの死後も影響力を維持し続け、後に甥のナースィル・アッダウラとサイフ・アッダウラがそれぞれモースルとアレッポにハムダーン家の自立政権を樹立することになった。

フサインはハムダーン朝の名祖であるハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子として生まれた[1][2]。ハムダーンの一族は7世紀のイスラーム教徒による征服活動が起こる以前からジャズィーラに定着していたアラブ部族の一つであるタグリブ族に属していた[注 1]。そのタグリブ族は10年に及んだサーマッラーの政治混乱(861年 - 870年)として知られるアッバース朝の中央政府の混乱期にモースルを支配するようになり、ウマイヤ朝時代の後期以降、地域内を脅かしていた草原地帯のハワーリジュ派の盗賊から都市を守った[7]。ハムダーンはこの時期に部族の指導者たちを統率する立場を確立し、879年頃にアッバース朝がジャズィーラの直接支配の回復に乗り出してくるとアッバース朝に対して頑強に抵抗しただけでなく、それまで対立していたハワーリジュ派の反乱勢力とも手を結んだ。これに対しアッバース朝では新しくカリフとなったムウタディド(在位:892年 - 902年)が断固とした態度でジャズィーラの奪還を決意し、893年に同地域に対する攻撃を開始した。そして895年にはついにハムダーンがカリフの軍隊の進軍を前にして逃亡し、長い追跡劇の末に捕らえられて投獄された[2][8]。
フサインはこのハムダーンの逃亡と関連した出来事の中で初めて歴史の表舞台に登場する[9]。この時フサインはティグリス川の左岸に位置するアルダムシュト(歴史的にはアラビア語でジャズィーラト・イブン・ウマルと呼ばれていた現代のジズレの近郊)の要塞を任されていたが、最終的にこの要塞をカリフに明け渡すことを決断し、アッバース朝に仕える意志を示した。降伏したフサインは当初は投獄されたものの、程なくして解放されると軍を率いてハワーリジュ派の指導者のハールーン・アッシャーリーを捕らえることに成功し、ジャズィーラにおけるハワーリジュ派の反乱を終結に導いた。カリフのムウタディドはこの功績の見返りとしてフサインの父親であるハムダーンの赦免だけでなく、タグリブ族に課せられていた貢納の免除、そして政府が費用を負担する形で500人のタグリブ族の騎兵隊を編成する権利もフサインに与えた[1][10][9]。これは大きな成功であり、フサイン自身とその一族が権力を確立していく上での基盤となった。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディは、「フサインは自分の指揮下にある主君に対し忠実で経験豊富な戦士集団をカリフに提供した。一方でタグリブ族とジャズィーラ地方の他の臣下たちには俸給の支払いと戦利品の獲得の見通しを示した。そして自身の一族には軍隊の指揮と公務の遂行に伴う富の獲得の機会を提供した。実際にフサインが一族の富を築いたのは自立した部族の指導者としてではなく、政府とジャズィーラのアラブ人とクルド人の間の仲介者としてであった」と述べている[11]。
アッバース朝の下での軍役
フサインはアッバース朝の下でその後の数年にわたりタグリブ族の部隊を率いて顕著な活躍を見せた。896年にはジバール地方で自立していたドゥラフ朝のバクル・ブン・アブドゥルアズィーズ・ブン・アフマド・ブン・アビー・ドゥラフとの戦いの中で重要な役割を担った[1][9]。また、903年以降はアッバース朝の将軍のムハンマド・ブン・スライマーン・カーティブの下でシリア砂漠のカルマト派に対する戦いに従事し、戦闘においてフサインの経験豊富な騎兵隊は高い機動カを備えていたカルマト派の軍隊に対抗する上で極めて重要な役割を果たした。903年にハマーの近郊で起こった戦闘ではカルマト派の指導者のフサイン・ブン・ズィクラワイフ(サーヒブ・アッシャマーの尊称でも知られている)が率いる軍隊に対してムハンマドとともに戦い、完全な勝利を収めた。カルマト派の指導者たちは砂漠へ逃れたが、すぐに捕らえられ、軍の凱旋に伴う形でバグダードへ連行された[1][12][13]。
その後、フサインは904年から905年にかけてムハンマドの指揮下で行われたトゥールーン朝に対する遠征に先鋒部隊の指揮官として参加した。当時のトゥールーン朝は内紛とカルマト派の襲撃によって大きく弱体化しており、アッバース朝の軍隊はほとんど抵抗を受けることなくエジプトに入り、そのままトゥールーン朝を滅ぼしてシリアとエジプトをアッバース朝の直接統治下へ復帰させることに成功した。伝えられるところによれば、ムハンマドはフサインのためにエジプトの総督職を用意したが、フサインはこれを辞退し、遠征で獲得した莫大な戦利品とともにバグダードに帰還することを選んだ[1][14][15]。
905年から906年にかけてエジプトから帰還したフサインはカルマト派の扇動によって反乱を起こしたシリアのカルブ族の討伐に派遣された。フサインは反乱軍を砂漠へ追い込んだものの、カルブ族が撤退時に井戸を埋め尽くしていったためにラフバで追撃を断念して引き返さざるを得なかった。その結果、反乱軍はユーフラテス川下流域に到達し、カーディスィーヤで別のアッバース朝の軍隊を破っただけでなく、906年の後半にはマッカに向かっていた巡礼(ハッジ)中のキャラバンを襲撃した。最終的に中央政府の軍隊がカルマト派を撃破して敗走させたが、フサインは907年の3月か4月にユーフラテス川に沿ってシリアへ撤退する途中であったカルマト派の軍隊を襲撃してこれを全滅させた[1][14]。カルマト派はこれらの敗北を喫した後もバフライン(東アラビア)を拠点として活動を続け、イラク南部に対する襲撃を続けたためにその脅威が完全に取り除かれたわけではなかったものの、シリアからはこの宗派がほぼ根絶される結果となった[16]。その後、フサインはユーフラテス川とアレッポの間に残存していたカルブ族の反乱勢力を制圧した。さらに、略奪を目的として907年から908年にかけてジャズィーラ地方に侵入したタミーム族と対峙し、フナースィラの近郊でこれを撃破してシリアへ追い返した[1][14]。
908年までにフサインはこれらの顕著な功績によってアッバース朝の「主要な将軍の一人」(ケネディ)としての地位を確立し、自分の兄弟たちを権力の座に引き上げさせることを可能にした。この時期と前後してフサインの兄弟たちはさまざまな官職を与えられたが、その中でも905年に兄弟の内の一人であるアブドゥッラーがモースルの総督に任命された出来事は一族にとって特に重要性の高い成果となった[11]。
宮廷クーデターへの関与と逃亡

908年8月にカリフのムクタフィー(在位:902年 - 908年)が死去した[17][18]。後継者候補には以前のカリフであるムウタッズ(在位:866年 - 869年)の息子で高名な文人として知られていた当時47歳のイブン・ムウタッズと、ムクタフィーの弟で当時まだ13歳であったジャアファルの二人が浮上したが、最終的にジャアファルが後継者に選ばれ、そのジャアファルはムクタディル(在位:908年 - 932年)の即位名を名乗って即位した[17][19][注 2]。しかしながら、ムクタディルの即位に不満を抱いていたイブン・ムウタッズ支持派の人々はムクタディルの廃位とイブン・ムウタッズの擁立を目指す陰謀を計画し始めた。フサインもこの陰謀に関与しており、陰謀者たちはムクタディルの即位からおよそ4か月後の908年12月17日に行動を起こした[1][21]。
フサインは後にエジプトでイフシード朝を樹立することになるムハンマド・ブン・トゥグジュとその兄弟のウバイドゥッラーと協力し、ムクタディルを支持していたワズィール(宰相)のアッバース・ブン・ハサン・ジャルジャラーイーを本人が郊外の庭園に向かっていた道中で襲撃して殺害した[21][22][注 3]。その後、陰謀者たちはイブン・ムウタッズをカリフであると宣言し、フサインは若いカリフを捕らえて退位を促すべくハサニー宮に向かったが、カリフはすでに宮殿に立て籠っていた。さらに、宮殿の侍従のサウサーン、ムウニス・ファフル、そしてムウニス・ハーディムらに率いられた宮殿内の人々がこの攻撃に抵抗したためにフサインは宮殿に押し入ることができず、逆に反撃に出たムウニス・ハーディムが陰謀者たちに攻撃を加えて最終的に追い散らしたことでクーデターの失敗は明白となった。結局ムクタディルはこの事態を乗り切り、一方のフサインはバグダードからモースル、さらにはバラドへと逃れた[1][24][注 4]。
その後、フサインは自分に付き従っていた者たちとともにジャズィーラ一帯をしばらく彷徨った。カリフはフサインの兄弟のアブドゥッラーを追跡のために派遣したが、フサインは奇襲を仕掛けてアブドゥッラーの軍隊を打ち破った。この成功はクーデター未遂後に新たにワズィールとなっていたアリー・ブン・フラートとの接触を兄弟のイブラーヒームによる仲介を通す形でフサインに促すことになった。フサインはクーデターの首謀者の一人であり、クーデターへの参加者の大部分が処刑か投獄されていたにもかかわらず、恩赦を得ることに成功した。しかし、バグダードへの帰還は認められず、代わりにジバール地方のクムとカーシャーンの総督に任命された[1][5]。
反乱の失敗と処刑

クムとカーシャーンの総督としての立場から、フサインはムウニス・ハーディムがスィジスターンとファールスで遂行していたサッファール朝のライス・ブン・アリーに対する軍事作戦を支援した。その後はライスから離反したサッファール朝の将軍でアッバース朝に対する反乱を起こしたスブカラーとその副官のアブドゥッラー・ブン・ムハンマド・カッタールに対する軍事作戦を支援し、ムウニス・ハーディムに率いられたアッバース朝の軍隊は910年か911年までにこの反乱を鎮圧することに成功した。ハムダーン家出身の詩人であるアブー・フィラースが後に残した祝賀の詩によれば、スブカラーがサーマーン朝に逃れた一方で、カッタールは直接フサインの手によって捕らえられた[1][14]。
アブー・フィラースは、その後フサインがファールス総督の地位を打診されたものの拒否し、バグダードに戻ったと伝えている。恐らく依然としてフサインの本心に疑いの目を向けていたアリー・ブン・フラートは直ちにフサインをディヤール・ラビーア(この行政区域はモースルを含むジャズィーラ東部を統轄していた)の総督に任命し、現地に送り出した[1][5]。ディヤール・ラビーアの総督としての職責から、フサインは913年から914年にかけてビザンツ帝国に対する襲撃作戦を指揮した[1]。そして遠征先のタルスースからカリフに宛てた手紙の中で、多数の要塞を征服し、多くのビザンツ軍の兵士を殺害したと報告している[27]。
しかしながら、その後フサインと当時のワズィールのアリー・ブン・イーサー・ジャッラーフの間で対立が起きた。両者が対立に発展した正確な原因は分かっていないものの、歴史家のマリウス・カナールはその原因について、ワズィールがディヤール・ラビーアにおけるフサインの財政管理の権限を剥奪した可能性、フサインが財政的義務を十分に果たそうとしなかった可能性、あるいはフサインが独立を志向していた可能性などを挙げており、一方でケネディは、ワズィールによる政府支出削減の試みとバグダードにおけるフサインの権力からの排除に対する抗議といった可能性を挙げている。いずれにせよフサインは914年から915年の間に公然と反乱を起こし、ジャズィーラでアラブ人とクルド人からなる3万人に及ぶ軍隊を編成したが、これだけの規模の軍勢を招集できたことは現地におけるフサインの影響力の高さを物語っている。当初フサインは派遣されてきたカリフの軍隊を破ることに成功したが、エジプトから呼び戻された強力な将軍であるムウニス・ハーディムとの対決に敗れ、北方のアルメニアへの逃亡を試みていた最中の916年2月に捕らえられた[1][5]。バグダードに連行されたフサインはラクダに乗せられて恥を象徴する帽子(ブルヌスと呼ばれる)を被せられ、市内を公衆の面前で引き回されるという屈辱を与えられた。そして数年間投獄された後の918年10月か11月にカリフのムクタディルの命令によって処刑された[1][5]。

フサインが最終的に処刑された理由は明らかではない。カナールは仮説に過ぎないとしつつも、当時のアーザルバーイジャーンとアルメニアの総督であったユースフ・ブン・アビッサージュが起こした反乱とフサインの処刑が関連していた可能性が非常に高いと述べている。その上で、ムウニス・ハーディムと(当時復職していた)ワズィールのアリー・ブン・フラートのどちらかがフサインをユースフと戦わせるために釈放を計画したものの、フサインがこれを断っていた可能性があり、このことからカリフはユースフとフサインが手を結んでいると疑い、フサインの処刑を命じたのかもしれないと論じている。また、アリー・ブン・フラートの(二度目の)ワズィール職の解任とフサインの処刑が同時期に起こっていることから、アリー・ブン・フラートとフサインがともに信奉していたシーア派の大義を実現するために両者が陰謀を企てていた可能性についても指摘している[1][注 5]。カナールは、「いずれにせよカリフはフサインが釈放されればフサインの独立への願望、あるいはシーア派としての信念からフサインが再び反乱を起こすことを恐れたに違いない。フサインの釈放を望む者たち(恐らく多数存在した)が実力行使によってそれを実現しようとする試みを避けるため、カリフはあらゆる陰謀を断ち切る手段を講じようとしたのである」と論じている[1]。
フサインの反乱と処刑という出来事があったにもかかわらず、ハムダーン家はすでにアッバース朝政府にとって極めて有用な存在となっており、確固とした立場も築いていたため、一族は排除されることなくその後も繁栄を続けた。フサインとともに捕らえられていた兄弟たちは間もなく釈放され、その中の一人であったアブドゥッラーはムウニス・ハーディムと協力関係を築き、バグダードの宮廷政治の浮き沈みをともに経験する中で頭角を現した。しかし、後にモースルとアレッポで成立した半独立的な政権を支配する王家としての家門を確立したのはアブドゥッラーの二人の息子のハサンとアリーであり、両者はそれぞれナースィル・アッダウラとサイフ・アッダウラの尊称によってよく知られている[2][29]。
評価と人物像
カナールはフサインについて、その勇敢さと反抗的で野心的な精神といった点において「最高軍司令官であったムウニスやその他の軍事指導者たちよりも明らかに際立っていた」と述べている。また、フサインは当時のアッバース朝政府の最高幹部の中では異例とも言えるアラブ系の人物であったという点でも特筆すべき存在だった[1]。カナールはフサインを非常に進取の気性に富んでいた人物と評価しており、当時の著名なスーフィーであるハッラージュと交流があったことからも窺えるように(ハッラージュは政治論の著作をフサインに献呈している)、フサインが当時のイスラーム世界における思想的混乱と政治的動揺に対して敏感であったと指摘している。さらに、フサインのシーア派に対する支持や失敗に終わった908年のクーデターへの関与は、実際のところシーア派に共感する人々にとっての典型的な願望 — すなわち腐敗し衰退したアッバース朝にはもはや不可能となったカリフ制国家の刷新と「理想的なイスラーム政権」の樹立 — の観点から理解するのが最も適切であると述べている[1]。結果としてハムダーン朝の実質的な創始者となったのは兄弟のアブドゥッラーであったが、一族に権力と栄光の体験を初めてもたらしたのはフサインであり[1]、その功績は後にアブー・フィラースの詩の中で称賛されることになった[1][14]。