サイード・ブン・ハムダーン
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アブー・アル=アラー・サイード・ブン・ハムダーン(アラビア語: ابو العلاء سعيد بن حمدان, ラテン文字転写: Abū al-ʿAlāʾ Saʿīd b. Ḥamdān)は、初期のハムダーン朝の成員であり、アッバース朝の下で地方総督や軍司令官を務めた人物である。また、著名な詩人であるアブー・フィラース・アル=ハムダーニーの父親としても知られている。

サイードはハムダーン朝の開祖であるハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子として生まれた[1]。サイードの一族はアラブ部族のタグリブ族に属しており、そのタグリブ族は7世紀のイスラーム教徒による征服活動が起こる以前からジャズィーラ地方(メソポタミア北部)に居住していた。アッバース朝の各地で繰り返し見られた事例と同様に、タグリブ族の指導者たちは861年から870年にかけて続いたサーマッラーの政治混乱として知られる時期に起こった中央政府の権威の崩壊を乗じ、モースルを中心とする部族地域内の支配権を次第に強く主張するようになった[2]。その後、カリフのムウタディド(在位:892年 - 902年)の下でアッバース朝の権威が再確立されたにもかかわらず、一族はサイードの兄弟のフサイン・ブン・ハムダーンがアッバース朝に仕える著名な将軍となったことで地域内における影響力を維持し、強化することができた[1][3]。そのフサインはアッバース朝のワズィール(宰相)との確執から914年から915年にかけて反乱を起こし、最終的に敗れて918年に処刑されたが、他の兄弟たちはアッバース朝政府に対する忠誠を維持し、要職を委ねられた[1]。その後、927年から928年にかけてサイードとその兄弟たちはバフラインのカルマト派がバグダードに到達するのを阻止するために派遣されたアッバース朝軍の活動に従事した[1]。
サイードは兄弟のアブル=サルジャ・ナスルとともにモースルの支配権を甥のハサン(後のナースィル・アッ=ダウラ)と争った[1]。931年にヨハネス・クルクアスに率いられたビザンツ軍が国境地帯(スグール)のアミール政権の本拠地があったメリテネを征服すると、カリフのムクタディル(在位:908年 - 932年)はサイードをモースルの総督に任命し、メリテネを奪還する任務を与えた。10月に出陣したサイードはメリテネへ向かう前にサモサタのビザンツ軍を打ち破ることに成功した。アルメニア人の将軍であるメリアスの配下の兵士で構成されていた現地のビザンツ軍の守備隊は反乱を恐れてパニックに陥り、多くの住民を虐殺した。その後、ビザンツ軍は可能な限り都市を破壊して撤退した。サイードはサモサタの支配権を掌握し、副官の一人を総督に任命してモースルに帰還した。そして11月にモースルからビザンツ帝国の領内への襲撃を開始した[4]。しかし、934年になるとサイードと対立していた甥のハサンがモースルを奪取した。サイードは宮廷内の工作によってハサンをモースルから追放したものの、そのハサンは逃亡先のアルメニアからサイードを暗殺することに成功した。そして935年の後半に帰還し、再びモースルの総督となった。自身の地位を固めたハサンは事実上の独立政権であるハムダーン朝のモースル政権を確立し、967年まで統治した[1]。
サイードはビザンツ帝国出身のギリシア人のウンム・ワラド(主人の子供を産んだ女奴隷)との間に著名な将軍であり詩人であるアブー・フィラース・アル=ハムダーニーを儲けた[5][6]。もう一人の息子であるフサインはナースィル・アッ=ダウラとサイフ・アッ=ダウラの下で将軍を務め、娘のサヒーナはサイフ・アッ=ダウラの妻となってその後継者のサアド・アッ=ダウラを産んだ[1]。