ラカイン族
From Wikipedia, the free encyclopedia
ラカイン族(ラカインぞく、アラカン族とも。ビルマ語: ရခိုင်လူမျိုး、英語: RakhineもしくはArakanese)は、主にミャンマー西部の沿岸部であるラカイン州(旧アラカン州)に居住する主要な民族である。チベット・ビルマ語派に属し、ビルマ語の方言ともされるラカイン語(「r」の音や古い発音を保持しているのが特徴)を話し、大多数が敬虔な上座部仏教を信仰している。国境を接するバングラデシュ南東部(チッタゴン丘陵地帯など)やインドの一部にも居住しており、バングラデシュ側では「マルマ族(Marma)」などの名でも知られる。
歴史的に、ラカイン州はアラカン山脈によってビルマ中央部と隔てられていたため、独自の文化と独立国家を長らく維持してきた。特に15世紀から18世紀にかけて繁栄したミャウウー王国(Mrauk-U)は、ベンガル湾の海上交易を支配し、仏教文化とイスラム文化が交差する独自の黄金時代を築き上げた誇り高き歴史を持つ。1784年にビルマのコンバウン朝に征服され、その後のイギリス植民地時代を経て現在に至るまで、中央政府に対する強い民族的独立心(ナショナリズム)を保持している。
現代においては、「アラカンの道(Way of Rakhita)」という自治権回復の理念を掲げる強力な武装組織・アラカン軍(AA)が広く支持を集めており、ミャンマー軍(国軍)に対して激しい戦闘を繰り広げている。また、同州内に居住するイスラム教徒の少数民族(ロヒンギャ)との間の複雑な歴史的・政治的対立も、国内外において重要な課題となっている。
基本情報
名称
ラカイン (Rakhine、まれにRakhaing) はラカイン語、ビルマ語、英語における民族名かつ地域名である[1]。ビルマ語での発音から「ヤカイン」と書かれることもある。この言葉は11世紀中ごろまでには既に存在し、シッタウン寺院の柱の碑文に含まれていたほか、15世紀ごろまでのヨーロッパやペルシャ、スリランカの記述にも確認されている[1]。タウングー王朝の歴史家ウー・カラによって書かれた著名な歴史書『Maha Yazawin』はこの言葉の語源をパガン王朝時代のアラウンシードゥーによるこの地方の征服に求めているが、 この理論を支える碑文的証拠はあまりに不十分なままである[1]。イギリスの軍人・植民地官僚アーサー・フェイル は羅殺天を表わすサンスクリット語の「rākṣasa」 もしくはパーリ語の「rakkhasa」に語源を求めており、こちらの説の方がより現実的である[1]。一部のラカインの住民は 「ရက္ခိုင်」という別の綴りを好む[2]。

17世紀から18世紀の間にラカイン族が自称として「ムランマ (Mranma,မြန်မာ)」 やその派生語を使い始めたことが、『Rakhine Minrazagri Ayedaw Sadan』や『Dhanyawaddy Ayedawbon』などの文書により裏付けられている[3][1]。この言葉は、「バマー(Bamar,ビルマ族の自称)」 と同根であり、ラカイン語における「ミャンマー」 の発音である他、「マルマ(Marma)で」として知られるバングラデシュのラカイン系民族により使い続けられている[3]。この時代には、同時代のビルマや外国の資料に示されるように、ビルマ族はラカイン族のことを「 ミャンマジー(မြန်မာကြီး、Myanmagyi ;直訳: 大ムランマ/大ミャンマー)」と呼び始めた[3]。この民族名は、ラカイン族が親近感を抱いていた仏教徒のビルマ族との共通の起源を反映している[3]。
1585年までにはヨーロッパやペルシャ、ベンガルの記述は、ラカイン族を「マグ(Magh)」やそれから派生した名称(Mogh, Mugh, Mogなど)で呼び始めた[1]。この言葉はおそらくマガダ国の名称に由来している[3]。19世紀後半には、イギリス当局は「アラカンニーズ(Arakanese)」という名称を採用した。これは、当時現在のラカイン州に当たる地域がアラカンと呼ばれていたためで、このため日本語でもまれにアラカン族という名称が使われる。1991年以降、ビルマ政府は公式の民族名を「ラカイン」に変更した。これは、国内の英語の地名や民族名を現地化する政策の一環である[4][5]。
民族構成
ミャンマー政府が公認する135の民族(タインインダー)のうち、ラカイン系列には以下の9つの主なサブグループが存在すると分類されている[6]。
- ラカイン (Rakhine)
- カメイン
- クウェ・ミ (Kwe Myi)
- ダイネッ
- ムラマージー(Maramagyi)
- ムロ
- テッ
居住
ラカイン族の総人口は推定で約300万人から400万人とされ、その大半がミャンマー国内に居住している。ミャンマー国内における最大の居住地は、アラカン山脈の西側沿岸部に位置するラカイン州であり、州人口において多数派を占める。また、ヤンゴン地方域やエーヤワディ地方域をはじめ、ミャンマーの他の地域にも一定規模のラカイン族コミュニティが存在する[7]。
ミャンマー国外にも、ラカイン族をルーツに持つコミュニティが複数存在している。特にバングラデシュ南東部のチッタゴン丘陵地帯(カグラチャリ県、ランガマティ県、バンダルバン県)には、現地でマルマ族として知られる大規模なコミュニティが存在し、同国最大の仏教徒グループの一つを形成している。カグラチャリ県を中心とする地域では、伝統的な行政機構であるモン・サークルが、ラカイン族を含む加盟コミュニティの行政を担当している。また、パトゥアカリ県、ボルグナ県、およびコックスバザール沿岸部には、現在の国境線が確立される以前に移住した歴史的な小規模コミュニティも点在する。バングラデシュ国内の人口統計については諸説あり、公式な統計では約1万6,000人とされるが[8]、宣教団体であるジョシュア・プロジェクトは、独自に約2万人と推計している[9]。言語面では、現地のラカイン族とベンガル人の間で、互いの言語が混ざり合った独特の方言が発達しており、これが両グループ間の日常的な意思疎通の手段となっている。一方で、彼らはラカイン族としての独自の文化、言語、宗教(仏教)を維持しており、サングレン(Sanggreng:水祭り)やナイチャイ・カ(Nai-chai ka)といった伝統的な祭礼を現代に伝えている[10]。
人口
- 推計約300万人~400万人。内務省総務局(GAD)の2019年報告では、232万46人(全人口の4.61%)である[12]。
言語

言語はチベット・ビルマ語派に属するラカイン語を使用する。ビルマ語の方言の一つとみなされているが、ビルマ中央部の標準的なビルマ語が「r」音を「y」音へと変化させたのに対し、ラカイン語では「r」音を維持するなど、より古風な発音形態を留めているのが特徴である。なお、表記にはビルマ文字とほぼ同様のラッカウンナ文字(ヤカイン文字)を用いる[13][14][15]。
地理的な孤立性により長らく独自の自治を維持してきたため、語彙や言い回しにも独自の発達が見られるが、パガン王朝期以降、ビルマやモンの文化との接触を通じて文字体系や仏教用語が定着した。言語学者の加藤昌彦は、ラカイン族の用いる言語をビルマ語シットゥエー方言、ビルマ語チャウビュー方言などとして、ラカイン族の話す言語は言語学的にみればビルマ語の方言であるとしている。ラカイン族の学者・エーチャン(Aye Chan)もまた、ラカイン族の人々はビルマ語の方言を話し、ベンガル語の語彙を少し採り入れているとする[16]。
宗教
- 仏教:ラカイン族の99%が上座部仏教徒であり、自らを「仏教世界の西端の守護者」であると自負している。1784年のコンバウン王朝による征服後、ビルマの影響を受けてドヴァーラ派とスーダンマ(トゥダンマ)派の二派に分かれた。信仰においては、「功徳」の蓄積が重視され、男子は一生に一度は僧院生活を送ることが義務とされる。得度式は家族にとって最大の功徳を積む行事とされる[17]。
- アニミズム(ナッ信仰):仏教と並行して、超自然的な力を持つ精霊「ナッ」への信仰も根強く残っている。ビルマの「37柱のナッ」のような体系化されたパンテオンはなく、地理的・場所的な守護神(ムラウ・ウーの女神、メーユ川の女神、家の守護神など)を崇拝するのが特徴である。病気の際などに悪霊をなだめるための供え物をする「クワーザーピッテー」などの儀礼が行われる[17]。
生業
ラカイン族の経済生活の基盤は農業であり、特に沿岸地域の低地における水田稲作が主流である。耕作期は主に6月から12月にかけてであるが、灌漑システムが整った地域では二期作も行われる。耕作の牽引力としては、伝統的に雄牛や水牛が使用されている。米以外にも、サトウキビ、落花生、ココナッツ、サツマイモ、大豆などが重要な作物として栽培されている。特にタバコは、小河川の氾濫原を利用して栽培され、かつては品質の高さからインドのコルカタ)へ大量に輸出されていた歴史を持つ[18]。
沿岸部や河川に近い地域では、漁業、舟乗り、舟大工、樵(きこり)などに従事する者も多い。また、沿岸の島々で生産される塩は、ラカイン州の重要な産物の一つである。植民地時代には、生産される塩の3分の2以上がインドへ輸出されていた時期もあり、19世紀初頭にはイギリス東インド会社による専売が行われていた[18]。
歴史
起源

ラカイン族の伝説や一部のラカイン族によれば、ラカイン族はインドの釈迦族の土地(シャーキャ)から来たアーリア人を祖先とするとされているが、歴史的・言語学的にはその信憑性は低い。ラカイン語とビルマ語はともに古ビルマ語を起源に持つチベット・ビルマ語派の言語であり、極めて近縁な関係にあるためである。むしろ、およそ3000年から2800年前(紀元前10世紀〜紀元前8世紀頃)に、ダニャワディとウェーサリー(ラカイン語:ワイタリ)を統治していたチャンドラ王朝(ダニャワディ王朝、ウェーサリー王朝)はインド・アーリア系であった可能性が高いと考えられている。ラカイン族の伝説によれば、詳細不明な民族集団がダニャワディは詳細不明の民族集団によって統治されていたとされるが、現在では彼らはラカイン族と同化・混血していると考えられている[19][20]。
9世紀には、ラカイン族はレムロ王朝が建国された。同王朝は1103年にはラカイン地域の支配を固めたが、1167年頃まではパガン王朝の属国としての立場にあった。その後、1406年から1429年にかけてはアヴァ王朝がラカイン北部を支配したが、南部はいずれの勢力にも属することはなかった。1429年にはアラカン王国の設立者であるミン・ソー・モンがベンガル・スルターン朝の支援を受けてラカイン族による支配を回復させた。ただし、建国直後の1430年頃まではベンガル側の属国としての側面も持っていた[19]。
ちなみに、口頭伝承や文字資料はこれら以外にも複数の他の建国神話が残されている。例えば、高地に住むムル族と低地に住む女王との婚姻を起源とするものや、仏教宇宙論における世界最初の君主マハーサンマタを起源とする伝説などがある[21]。
1784年にアラカン王国がコンバウン王朝(ビルマ)に征服されて以降、多くのラカイン族の難民が現在のバングラデシュにあたるコックスバザールやポトゥアカリ県などに逃れ、定住し始めた。イギリス東インド会社は当時、多数の難民(ある記録によれば1799年時点のコックスバザール地方だけで4万~5万人)の流入を確認しており、彼らに対する定住支援を行っている。現在、こうしたラカイン族の末裔はインドのトリプラ州にまで居住域を広げており、同地では「モグ(Mog / Magh)」という呼称で知られている。
ロヒンギャとの関係
ラカイン族の民族主義的な言説においてはしばしば看過されがちであるが、現在のラカイン州域にはイギリスの植民地化以前から、ベンガル人の奴隷やその子孫など非ラカイン族のムスリム(イスラム教徒)が存在し、ラカイン族と共存してきた歴史がある。イギリス植民地時代初期には多くのムスリムが英領インドからラカイン州北部に大量に流入し、その規模は植民地当局が将来の対立を懸念するほどであった[22]。第二次世界大戦中の1942年から1944年にかけては、日本軍の進軍に伴い同地域の行政機能が崩壊し、仏教徒とムスリムの間で深刻なコミュニティ紛争(暴力衝突)が勃発した。この凄惨な経験は州内の宗教的・民族的分断を決定的に深め、以後のラカイン族に対してムスリム人口の増加に対する強い危機感を植え付けることとなった [23]。
今日においても、多くのラカイン族はロヒンギャ(ムスリム)の人口増加に対して強い警戒感を抱いてい。1823年時点では州人口の10〜13%を占めるに過ぎなかったムスリムは、植民地時代以降の人口流入や高い出生率を背景に急増し、2014年時点では州人口の35.1%に達し、特に北部地域においては多数派を形成するに至っている[22][24]。他、ラカイン族より高い出生率を維持している。2012年に発生した大規模な民族間衝突の際には、調査に回答した8割以上のラカイン族が、暴力の原因を「ベンガル人(ロヒンギャ)がラカイン州を乗っ取ろうとしているため」であると認識していた[25]。
中央政府との関係
一方でラカイン族は、長らく独立王国を保ってきた歴史から独自の強い民族意識を持っており、ビルマ族が主導する中央政府にも強く反発している。彼らはビルマ族への同化政策によって「ラカイン族らしさ」が失われることを危惧し、高度な自治を求めている。とりわけ、かつての王都ミャウウー(アラカン王国)の破壊や、ビルマ族によるラカイン「占領」の歴史は、現在もビルマ族に対する怨恨の核心となっており、ミャンマー軍(国軍)や中央政府による抑圧への恐怖を語る際にしばしば引き合いに出されている[22]。
このようなラカイン族の民族主義的感情は、独自のラカインの歴史書から多大な影響を受けている。これらの歴史書が多く編纂されたのは、アラカン王国の崩壊前夜から1930年代にかけての時期である。これは、ビルマ族が歴史書『大王統史』などによって支配の正統性を強化していく中で、国家の崩壊に直面したラカイン族の知識人たちが、対抗して独自の正統性やアイデンティティを確立する必要に迫られたためであった。これらの歴史記述は、ラカインの歴代の王たちを仏教の宇宙論における人類の起源や、仏陀、さらにはインドの仏教王と直接結びつけることでその血統を正統化した。興味深いことに、これらの書物には当時のムスリムとの共存や対立についての言及がほとんど見られない。これは、逆説的ではあるが当時のラカイン社会において、ムスリムとの間に現代のような深刻な緊張関係が存在していなかったことを示唆していると考えられる[22]。
近年では、中央政府に対する否定的感情に加え、指導力に欠ける既存の合法的な民族政党に対する不満も蓄積している[26]。経済的・社会的な生活改善が一向に進まない中で、議会などの民主的諸機関は急速に支持を失った。それに代わり、武装勢力であるアラカン軍(AA)がSNSなどを駆使してラカイン族の民族自決を力強く訴え、若者を中心に広範な支持を集めており、現在も州内における実効支配地域を拡大し続けている[27]。なお、直近の動向として、アラカン軍が実効支配を確立した一部の地域では、これまで対立していた仏教徒(ラカイン族)とムスリム(ロヒンギャ)の間で、民族関係を修復し共存を模索する動きも進みつつある[28]。
社会
ラカイン社会は核家族が基本であるが、親類を含む拡大家族も一般的である。家父長制が基本でありながら、長老や年配者への絶対的な敬意が家族の結合力として機能している。一家を保護し、扶養する義務は父にあるが、主婦(母)も家計や商いにおいて重要な役割を担っており、女性の社会的地位は自立している[29]。
結婚
一夫一婦制が一般的であり、結婚は男女の前世における「因縁(カルマ)」の結果(ヤカイン語でリーザッスンレー)であると信じられている。結婚式は「婿が義父母の家に入る儀式」という意味を持つ。結婚後1週間は女性の両親の家で過ごし、その後男性の両親の家や別居へと移行する傾向がある。また父の姉妹の娘、あるいは母の兄弟の息子との結婚は、富と健康と満足に恵まれる吉祥なものとして認められている[29]。
出産と命名
出産後7日間は、母子は部屋の火の側で過ごす習慣がある。生後約2週間後に行われる命名式では、占星術師が作成したホロスコープ(出生表)に基づき、年長者や父親が名前を決定する。この出生表は一生保存される[29]。
通過儀礼
12〜13歳頃に行われる穿耳式は、少女が女性となったことを示す人生で最も重要な儀式の一つとされる[29]。
葬儀
火葬または土葬が行われる。高僧が亡くなった際は、遺体を防腐処理して一定期間保存し、盛大な祭りと共に送り出す「ボウングリーン」という大規模な葬儀が営まれる[29]。
文化
ラカイン族の文化はビルマ族と共通する部分が多い一方で、地理的にアラカン山脈によってミャンマー中央部と隔てられ、ベンガル湾を通じて古くからインド亜大陸と接してきた歴史的背景を持つため、文学や音楽、建築、食文化などの面においてインドからの強い影響が見られる[誰によって?]。
旗とシンボル

ラカイン州やラカイン族を象徴する旗は、白と赤の横二色旗の中央に青い円が配置され、その中に「シュリーヴァッサ(Shrivatsa:エンドレスノットに似た吉祥文様)が描かれている。これは古代アラカンの硬貨などにも刻まれてきた伝統的なシンボルであり、ラカイン族の歴史的アイデンティティや誇りを示す意匠として広く用いられている。
暦(カレンダー)
ラカイン族の伝統的な暦(アラカン暦)は、ミャンマー全土で使われるビルマ暦(太陰太陽暦)と共通のシステムを基礎としつつも、歴史的にアラカン王国として独立していたことによる地域特有の運用が存在する。たとえば、閏日(イェッルン)の挿入時期の違いなど独自の計算方法や慣習を持っている。現在でも、仏教の祭事や伝統行事の日取りを決める際にはこの伝統暦が重要な役割を果たしている[30]。
音楽
舞踊
ラカイン族の代表的な伝統舞踊として、油灯舞踊(英語: Oil lamp dance)がある。踊り手が小さな土の器に油と芯を入れた灯明を手に載せて舞うもので、仏陀への敬虔な祈りを表現しており、ダニャワディ王朝時代に起源を持つとされる。また、キインの試合前には、「キイン・クウィン」と呼ばれる準備の踊りが披露される[31]。
美術
文学
ラカイン文学は、僧院教育を通じてパーリ語文学が導入されたことで発展し、15世紀のムラウ・ウー朝期に黄金時代を迎えた。エージンは王子や王女に対し、その祖先の偉大な業績を教え聞かせるための歴史的な叙情詩であり、16世紀のアドゥ・ミン・ニョーによる『ヤカイン王女のエージン』は、ラカイン史研究の一次史料としても極めて高い価値を持つ。ピョは主に仏陀の功徳や正しい生き方を説く教訓詩で、僧正による『ローカタヤー・ピョ』などが代表的である。ラトゥは、季節の移ろいや愛、叙景を詠んだ詩で、宮廷吟唱詩人ウガビャンによる12のラトゥは、16世紀末のラカインの社会・宗教生活を伝える貴重な記録となっている。シャウトウンは、王の政策決定に対する廷臣の助言や言上書を編纂したもので、当時の政治思想や社会観を示す史料となっている[15]。
祭り
衣装
料理
ラカイン料理は、ビルマ料理と密接な関係にありながら、インド料理からの強い影響が見られるのが特徴である。ビルマ料理に比べて使用する食用油の量が少なく、唐辛子、魚醤(ンガピ)、ニンニク、ショウガ、ターメリック、レモングラス、コリアンダー、コショウなどで多用な味付けがなされる[18]。
また、海岸線と多くの河川を持つため、魚は最も重要なタンパク源である。フグ以外のあらゆる魚やイガイなどが好まれるが、イルカだけは「海で溺れる人を助ける存在」と信じられているため、食用にされない。他にも宗教上の理由(または伝統的な規範)により、象、馬、犬、蛇、熊、虎、あるいは地元の猿の一種「アウン」を食べることは禁じられている[18]。
モンティはラカイン族を代表する米粉の細麺料理。ハモなどの焼き魚をほぐしたもの、ガピ(魚の発酵ペースト)、ニンニク、大量の青唐辛子を使用し、辛く酸っぱい魚介スープで食べる汁そばスタイルと、サラダのように和えて食べるスタイルがある。ミャンマー全土で広く親しまれている[33]。
また、自家製の米の発泡酒「フローザー」や、米から作られる強いウイスキーのような「アラック」も好まれている。これらは余暇や儀礼、祭りの際に飲まれるのが一般的である[18]。
スポーツ

ラカイン暦10月(1月頃)にボートレースが行われ、若者用(7メートル)と大人用(10メートル)のボートに分かれて競われる。また祭りの際には、棒登りが行われる[32]。
ラカイン族の伝統的格闘技としててキインと呼ばれる独自のレスリングがある。俊敏なトラ(Kyar + Yun = 素早い虎)に例えられた動きがその名の由来で、歴代のラカイン王の治世から続く長い歴史を持ち、1531年建立のシッタウン寺院の壁画にもその姿が描かれている[34]。
競技は上半身裸で腰布に白黒の帯を巻いた2人のレスラーが「キャッチャー(攻め)」と「ディフェンダー(守り)」に分かれて広く平らな地面で組み合い、28の技と23のルールに基づき、3回の攻撃機会の中で相手を倒すことを競う。勝敗は2人の審判によって判定され、試合レベルは新人向けの「銀ゴング」と実力者向けの「金ゴング」に分かれている[34]。
現在でもパゴダ祭りや水祭り(ティンジャン)などの行事で盛んに行われており、幼少期から鍛錬を重ねた優れた競技者は「キインタン(Kyun than)」と呼ばれて尊敬され、勝者には観衆から純金や純銀のゴングが贈られるなど、ラカイン族の男性にとって名誉ある重要な武術・身体文化として受け継がれている[34]。