アラカン王国

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アラカン王国
မြောက်ဦး ဘုရင့်နိုင်ငံတော် (ミャンマー語)
アラカン王国の位置
宗教 仏教
首都 ミャウウー

アラカン王国(アラカンおうこく、英語: Kingdom of Arakan)は、現在のミャンマー西部のラカイン州からバングラデシュチッタゴン管区にかけての沿岸地域を支配していた独立王国。特に1430年に建設された都市ムラウ・ウー(現ミャウウー)を王都としたムラウ・ウー朝(1430年 - 1784年)の時代に、ベンガル湾を股に掛ける海上交易国家として全盛期を迎えた。

地理的にビルマ中央部(エーヤーワディー流域)からアラカン山脈によって隔てられていたため、古くからインド亜大陸の影響を強く受けつつ、独自の自律的な歴史を歩んできた。宗教的には上座部仏教を国教としたが、西に接するベンガル地方やムスリム社会との交流が深く、歴代の王が自らの称号にイスラム式の名称を併用したり、宮廷にベンガル人ムスリムを登用したりするなど、多様な文化的・宗教的要素が融合した国際色豊かな政治文化を形成した。

16世紀から17世紀にかけては、ポルトガル人傭兵や強力な海軍力を背景にベンガル湾の制海権を掌握し、オランダの東インド会社とも奴隷貿易や物資交易を通じて密接な関係を築いた。当時の王都ムラウ・ウーは、ヨーロッパの商人から「東方のヴェネツィア」と評されるほどの繁栄を誇った。しかし、17世紀後半からムガル帝国の台頭や内部抗争によって衰退し、1784年にビルマのコンバウン王朝によって征服され、その独立した歴史に終止符を打った。この征服と、その後のイギリス植民地時代における人口移動が、現代に至るラカイン州のエスニック・宗教的分断の歴史的背景となっている。

仏教とイスラム教の融合

レムロ王朝英語版最後の王・ナラメイッラ(別名:ミン・ソー・モン英語版)は、1406年にビルマのインワ王朝(アヴァ王国)の侵攻を受けてベンガルへ亡命。その後24年間、ベンガルのスルタン朝(ガウル)に滞在した。1430年、スルタンのジャラルッディン・ムハンマド・シャーの軍事支援を受けて復位を果たし、新しい都ムラウ・ウーを建設した[1]

スルタン朝の支援を受けて建国された経緯から、ムラウ・ウー朝の下では、上座部仏教の伝統とイスラム教的な宮廷文化が、政治的戦略として高度に融合していた。歴代王は「タラーミン(正法王)」といった仏教的称号を持つ一方で、自身の硬貨や公式文書にはアリ・カーン、ザビッ・シャーといったイスラム式の称号を刻んだ。これは、ベンガル地方(チッタゴン等)のムスリム臣民に対して統治の正当性を示すとともに、西のベンガル・スルタン朝と同等の権威を持つ君主であることを誇示するための戦略であった。また、宮廷には多くのムスリム官僚、武官、宦官が仕え、ペルシア語ベンガル語が公用語に近い地位を占めた。17世紀には、ダウラ・カズィーやアラウルといった著名なベンガル人詩人が王の庇護下で傑出した文学作品を残している[1]

制海権と国際貿易

アラカン王ミン・ビンの像

16世紀から17世紀にかけては、ムラウ・ウー朝は「ベンガル湾の覇者」として恐れられた。ミン・ビン王の時代以降、ディアンガ(チッタゴン対岸)などの拠点にポルトガル人傭兵部隊を配置。1545年のタウングー王朝(ダビンシュエティー王)の侵攻を撃退した際、双方の軍勢がヨーロッパ製のマスケット銃を使用していたことが記録されている。また、ポルトガルの造船・砲術技術を取り入れた強力な海軍を有し、ベンガル、トリプラ、テッ族(チャクマ族)の領土を次々と服属させた。16世紀半ばにはチッタゴンを完全併合し、1666年までベンガル湾北東部の通商を支配した[1]

王都ムラウ・ウーは、天然の河川と複雑に張り巡らされた水路を防御と交通に利用し、ヨーロッパの商人から「ヴェネツィアに似ている」と称賛されたるほど栄えた。バウンドゥッ港を外港とし、アチェ、マスリパタン(インド)、さらにはオランダや日本とも交易を行った。輸入品は香辛料、鉄、宝飾品、銀など多岐にわたった。17世紀に入ると、オランダ東インド会社と提携し、大規模な奴隷貿易に従事した。アラカンの海軍や海賊(ポルトガル人含む)はガンジス・デルタを襲撃し、捕らえた数万人を農業労働力や商品としてムラウ・ウーの市場へ供給した[1]

衰退

しかし1666年、ムガル帝国の太守シャーイスタ・カーンの攻撃により、最大の貿易拠点であり銀の供給源であったチッタゴンを喪失。これにより国家収入と制海権に壊滅的な打撃を受けた。また、宮廷では「コラングリー」と呼ばれる近衛部隊が王の擁立を左右するようになり、18世紀前半には王の平均在位期間が2年半という混乱期に陥った。1737年にはインド系の反乱グループが一時的に王宮を占拠する事態も発生した。1784年、コンバウン王朝ボードーパヤー英語版は、弱体化したアラカンの内情を見抜き、軍を派遣。内紛に疲弊していたアラカンのエリート層は容易に降伏し、350年以上続いたムラウ・ウー朝は滅亡した[1]

脚注

参考文献

関連項目

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