ラカイン族の民族運動

From Wikipedia, the free encyclopedia

ラカイン州旗

ラカイン族の民族運動(ラカインぞくのみんぞくうんどう)は、ミャンマー西部のラカイン州を拠点とするラカイン族による、自決権確立や自治・独立を目的とした政治・武装活動の総称である。

1785年のアラカン王国滅亡以降、ラカイン族は独自の民族意識を堅持してきた。イギリス植民地時代に近代的な運動が本格化したが、第二次世界大戦中の日本軍とイギリス軍の攻防過程で、地元のムスリム住民との間に深刻な流血の対立(1942年暴動など)が発生し、その後の民族問題に決定的な禍根を残した。

1948年のミャンマー独立後、中央政府による直接統治への反発から、ウー・セインダ率いる勢力や共産主義組織による武装闘争が激化。1962年の軍政移行後も、アラカン解放軍(ALA)や近年のアラカン軍(AA)など、複数の勢力が国軍と対峙し続けている。本稿では、ビルマ族中心の国家体制に対する抵抗と、複雑な宗教・民族対立の歴史を詳述する。

イギリス植民地時代

17世紀のアラカン王国

英緬戦争とラカインの併合

ラカイン[注釈 1]では、1429年から1785年にかけてアラカン王国というラカイン族の王国が栄えていたが、1785年にビルマ族コンバウン朝によって滅ぼされた。1824年には第一次英緬戦争でコンバウン朝がイギリスに敗れ、ラカインはテナセリウム(現在のタニンダーリ地方域)とともにイギリスに割譲され、イギリス領インドアラカン管区となった。1886年に第三次英緬戦争に敗れたの後、ミャンマーは完全にイギリスの植民地となり、1937年にはイギリス領インドから分離されイギリス領ビルマとなった[1]

イギリス植民地政府は、ビルマ族が住む平野部を「管区ビルマ」(英語: Ministerial Burma)として直接統治し、少数民族が多く住む山岳部を「辺境地域」(英語: Excluded areas)として間接統治する二元統治制度を導入した。ラカインはビルマ族と区別する積極的理由がないとされ、前者に分類された。イギリス植民地下でラカインは農漁業と交易の要衝としてそれなりに発展を遂げたが、このイギリスの統治政策は、ビルマ族によって自分たちの王国を滅ぼされ、民族の象徴だったマハムニ仏英語版まで奪われたラカイン族の人々の民族意識を強く刺激するものだった[2]

二元統治と民族意識の覚醒

他のミャンマーの地域より約60年早くイギリスの植民地になったということで、ラカイン族の人々は教育水準が高く、多くのラカイン族の人々がイギリス植民地下で、銀行員や公務員などの要職に就いた。弁護士のポートゥン英語版は、1941年1月12日に当時の首相・ウー・ソオ日本軍と通謀したかどで逮捕された後、首相に就任した[注釈 2][2]

1937年にイギリス領ビルマが成立した頃から、ラカイン族の民族運動が活発化し、同年、ラカイン族のさまざまな組織・団体を統合してアラカン民族評議会(Arakan National Congress:ANC)が結成された。これはポートゥンや、ヤンゴンで独立運動を展開していたラカイン族僧侶・ウー・オッタマ英語版同様、多数派のビルマ族と協力してラカインの独立・自治の獲得を目指す動きだった。一方、ラカイン族独自でラカインの独立・自治獲得を目指す動きもあり、その急先鋒だったラカイン族僧侶・ウー・セインダ(U Seinda)は、同年、仏教徒中央アウワダサルヤ機構(Buddhist Central Auwadasaruya Organisation:BCAO)を結成した[注釈 3][3]

なお、ラカイン族の民族主義者に僧侶が多いのは、ラカインにある仏教遺跡に対する誇りがナショナリズムに結びつきやすいという事情があったことが理由である[4]。後述するアラカン共産党(CPA)の幹部・シュエター(Shwe Tha)とカインソー(Khaing Soe)の2人は神学の学位を持ち、かつては仏法の教師だった。アラカン民族解放軍(ANLA)の幹部・バーソーアウン(Ba Saw Aung)、トゥワンレー(Twan Re)、チョータンウー(Kyaw Than Oo)は元僧侶、アラカン解放軍(ALA)の元リーダー・カインイェカイン(Khaing Ye Khaing)、ソーナインアウン(Soe Naing Aung)、カインプレイテイン(Khaing Pray Thein)も全員元僧侶だった[5]

日本占領時代

1930年1938年ヤンゴンでは大規模な反インド系移民暴動が発生したが、ラカイン地方ではほとんどコミュニティ紛争は見られなかったとされる。その理由について、ラカイン研究の第一人者であるジャックス・P・ライダー英語版は、(1)当時のラカイン地方北部は人口密度が低く、耕作可能な空き地が十分あった、(2)ムスリムとラカイン族との間に住み分けができていた、(3)ラカイン族の耕地所有者がムスリムの季節労働者の労働力に依存していたからと分析している[6]

しかい1942年、日本軍の侵攻によりイギリス軍がラカイン地方から撤退すると、それまでの植民地支配による「重し」が外れ、潜在していた仏教徒(ラカイン族)とムスリムの対立が一気に表面化した。この時期の混乱は、両集団の間に決定的な亀裂を生じさせることとなった[7]

1942年4月3日、日本軍より一足先にシットウェ(アキャブ)に到着したビルマ独立義勇軍(BIA)の部隊が、シットウェの南にあるミンビャ(Minbya)、ミエボン(Myebon)、パウトー(Pauktaw)において、現地ムスリム住民への襲撃を開始した。この攻撃によって多くのムスリムが殺害・追放され、さらに6月には、BIAがチャウトー英語版においても、BIAによるムスリム居住区への放火やモスクの破壊が相次いだ。これらの苛烈な行動の背景には、BIAの主力であったビルマ族兵士たちが、ムスリムと接する機会が乏しい中で抱いていた根深い反ムスリム感情があったとされる[8]

一方、ラカイン地方北部のブティダウン英語版マウンドーに逃亡したムスリムも、当地で仏教施設やラカイン族の家屋を襲撃・破壊するなどの報復行動に出た。またこの時期、ラカイン族がビルマ国民軍(BNA)傘下のアラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA)に編成される一方、ムスリムはイギリス軍が結成したVフォース英語版に編成されて諜報・破壊活動に携わり[9]、双方の対立が悪化した。一説には、この一連のコミュニティ紛争による死者はムスリム・ラカイン族双方で4万人に達したと言われ、現在のバングラデシュ領(当時の英領インド)への避難民も発生した[10][8][11][12]

イギリス軍の司令官だったアンソニー・アーウィンは、1944年に日本軍への反撃に出た際に以下のように述べている[13]

当時われわれの占領していた地域は、ほぼ完全にムスリム地域であった....(そこから)われわれの偵察兵と秘密情報員をリクルートした。戦争前のラカインは、全域がムスリムとマー(ラカイン族)によって占められていたが、1941年に2派がにらみ合い戦いを始めた。この結果、マーがおおよそ南半分を取り、ムスリムが北を取った。戦いが続いた間はかなり血なまぐさいもので…私の現在の砲手でブーディータウン近くに住んでいたムスリムは、マーを200人殺したと豪語していた。アンソニー・アーウィン

一連の衝突により、ラカイン族とムスリム住民の関係は修復不可能なまでに悪化した。また、ラカイン族・ムスリム双方がバングラデシュに流出したことにより、両民族は国境を挟んでミャンマー側とバングラデシュ側に分断されることになった。しかし、後年は「ロヒンギャ」としてその民族的・政治的地位を厳しく問われ続つけたムスリムと違い、バングラデシュに流出したラカイン族は、マルマ族として同地に同化し、バングラデシュで3番目に大きな民族グループと認識され、その市民的地位を確立している[14][15]

独立期

ラカイン系武装勢力乱立

大戦末期、日本軍が劣勢になると、1945年1月1日にアラカン防衛軍(ADA)は反乱を起こし、3月27日の反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の蜂起よりも早く、日本軍をラカインから放逐した。しかしその後やって来たイギリス軍は、ADA始めウー・セインダなど武装したラカイン族に対して武装解除を迫り、さらに、ラカインの行政職に戦中協力したムスリムを起用したので、ラカイン族の人々は憤慨した[16]。また戦後、新たにラカイン北部に流入してきた「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれる人々が組織したムジャヒディーンが反乱を起こしたり、パキスタンへの併合や独立国家の樹立を画策したことで、ムスリムとの関係も険悪なものになった[17]

この時、ラカイン族の民族運動は、次のように三派に分かれていた[16]

  1. 議会グループ:元首相ポートゥンを中心としてラカイン族の議員が緩やかに連帯していた。
  2. アラカン民族会議(ANC):当時アウンザンウェイ英語版[注釈 4]という人物が率い、彼はAFPFLの一員として活動した。
  3. アラカン人民解放党(Arakan People Liberation Party:APLP):ウー・セインダが1945年1月に結成した。3,000人の兵力を擁し、日本軍を放逐するとすぐさまイギリス軍に攻撃を仕掛けた。

これらに加え、ビルマ共産党(CPB)、CPBから分裂した赤旗共産党がラカインでも活動していた。この中でAFPFLは、旧体制派の議会グループを避けてANCとのみ協力する選択をしたが[注釈 5]、これが各派の分断にさらに拍車をかけたとされる[16]

AFPFLの活動の結果、ANCがアラカン全土を独立闘争で団結させたという成功はばらばらに引き裂かれ、赤、白、黄色などさまざまな色の旗を掲げる派閥が出現した。私たちが新しい国家、新しい国民、新しい人々を建設し始めたばかりのときに、アラカンの少数民族の進歩的な若者の一部が、突然、互いに宿敵として対峙したのである。アウンザンウェイ

AFPFL体制下の疎外と民族的反発

AFPFLの失策はさらに続いた。1947年2月、第2回パンロン会議が開かれたが、ラカイン族からはアウンザンウェイがAFPFLの一員として参加したのみで、ラカイン族の代表は招かれなかった。同年4月、ウー・セインダと赤旗共産党が連帯してアラカン左翼統一戦線(Aarakan Leftist Unity Front:ALUF)[注釈 6]を結成、4月1日から3日にかけて全アラカン会議を開催し、700人の代表者が出席し、6万人の群衆が見守った[18]。そして会議ではアウンサンビルマ社会党英語版バスエも演説を行ったが、群衆は抗議と罵声で応えたと伝えられる。また1947年に制定された憲法では、「アラカン州」の設置が認められず、7つある「管区」の1つとされたばかりか[注釈 7]、伝統的にラカインに所属するとされていたパレッワ英語版を含むアラカン丘陵地北部[注釈 8]がチン特別区に編入され、ラカイン族の人々の激しい怒りを買った[19]

その結果、ラカイン全土で数百人の地方首長によるストライキ、僧侶が率いる大規模なデモ、さまざまな武装勢力による警察署、穀倉、倉庫への襲撃が起き、反乱鎮圧のために、グルカ兵パンジャブ人、ビルマ警察からなる約7,000人のイギリス軍が投入された。これに対するアウンサンの態度は曖昧なままで、アウンサンは原則としてラカイン族の国家樹立要求を受け入れるとしながらも、憲法制定の際には、アウンザンウェイ以下AFPFLのラカイン族議員に対し、今その要求を認めると国家不統一の印象を国内外に与え、独立が遅れると述べたと伝えられている[20]

このように独立を機に、ラカインではむしろ分断と対立が深まっていった。

議会政治時代(1948年 - 1962年)

政党政治とラカイン系武装勢力

ラカイン中部と南部の主要都市アン英語版グワ英語版では、1956年から1958年まで人民民主戦線(PDF)という統一戦線を結成していたビルマ共産党(CPB)、赤旗共産党、 人民義勇軍(PVO)[注釈 9]、アラカン人民解放党(APLP)などさまざまな部隊の支配下にあった。 1957年には、チン族とその他の山岳民族の3つの小組織が結集し、ラカイン北部で武装組織を結成した。ラカイン北部では他にムスリムによるムジャヒディーンの乱が続いていた[4]

一方、議会政治に活路を見出す勢力もあり、1951年の総選挙では、独立アラカン議会グループ英語版(のちにアラカン民族統一機構英語版〈ANUO〉に発展)という政党が、アラカン管区で17議席を獲得し、3議席しか獲得できなかったAFPFLを圧倒した。彼らもまたラカインの独立と自治の獲得を目指す組織だったが、当時、ウー・ヌ首相は、ラカイン族、モン族カレン族のための新州設立に「100%反対」と明言しており、結局、この時期には1952年にカレン州の設置が認められただけだった[4]

またこの時期、ラカインのムスリム[注釈 10]からも議会に議員を送り出していたが、当初はラカイン族議員との間に同盟関係は築かれなかった。しかし、1955年にAFPFL以外の左右の政治勢力を結集した政治組織・国民統一戦線英語版(NUF)が結成されると、ANUOやビルマ・ムスリム会議英語版[注釈 11]もこれを支持し、さらにウー・セインダのAPLP[注釈 12]、ラカイン内のPVO、CPBの一部[注釈 13]もこれに同調した。そして1956年の総選挙でNUFは47議席を獲得し、左右のラカイン族の政治運動およびロヒンギャの政治運動が同盟関係を築き、さらには全国的な和平が推進されるかのように見えた。しかし、1958年に成立したネ・ウィン選挙管理内閣の下、国軍の反乱軍に対する掃討作戦が激化するとこの機運も萎み、1960年の総選挙でNUFは1議席も獲得できない大敗を喫して瓦解した[21]

幻の「アラカン州」

ウー・ヌが再び政権を回復した1960年、今度はシャン族で、ビルマ連邦の初代大統領サオ・シュエタイが、「真の連邦制」を求める運動(フェデラルムーブメント)を起こし、1961年6月、さまざまな民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催し、次のような5項目の声明を決議した[22]

  1. 諸州団結評議会の設立
  2. 憲法改正
  3. 国民会議の開催
  4. モン州、アラカン州(ラカイン州)、チン州の設置[注釈 14]
  5. 中国国民党軍の排除

この会議にはラカイン族の代表も多数参加しており、会議後、ウー・ヌはアラカン調査委員会を設置して、1962年9月までにモン州とアラカン州を設置すると発表した[23]。もっともラカイン族のすべての政治勢力がこの動きを支持したわけではなく、あくまでも武装闘争による独立・自治の獲得を目指す勢力も存在しており、1960年6月、退役軍人のマウンセインニュン(Maung Sein Nyunt)が元APLP幹部30人とともに親マルクス主義のアラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA)を結成。さらに赤旗共産党の一部がアラカン共産党(CPA)の結成を画策する不穏な動きもあり、1962年3月にこれは実現した[23]

ところが、ウー・ヌは、アラカン州の設置に先立つ1961年5月、ラカイン北部にマユ辺境行政区(MFA)というロヒンギャの自治区を設置した。しかも1962年に議会に提出されたアラカン州の設立に関する法案の中でも、MFAアラカン州から除外されていた。自治区とはいえ、政府直轄地であり、その実態は反乱軍や密輸業者や不法移民の取締りを目的とした行政機構ではあったが、ラカイン族の人々の目には政府の裏切り行為に映った[24]

しかし、1962年にネ・ウィンがクーデターを起こし、軍事政権が成立すると、アラカン州もMFAも水疱に帰した[24]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代(1962年 - 1988年)

新興ラカイン系武装勢力

1960年代、ラカインで優勢だった武装勢力はビルマ共産党(CPB)で、北部のシットウェ県に「アラカン州」本部、アラカン・ヨマの東側と西部のチャウピュー郡区タウングアッ郡区の間に「北西支部」を設置していた。一方で、赤旗共産党はCPBとANLAに押されて衰退気味で[注釈 15]、議長のタキン・ソーは1963年にネ・ウィンが各武装勢力に呼びかけた和平交渉に臨んだ。もう1つ、ラカインからはアラカン共産党(CPA)が和平交渉に臨み、「アラカン共和国」を要求したが、政府に拒否され、交渉は決裂した[25]

そのような状況下、新しい武装勢力が出現した[注釈 16]。アラカン防衛軍(ADA)、人民義勇軍(PVO)の元リーダー・ボー・クラフラアウン(Bo Kra Hla Aung)が結成したアラカン民族統一機構(ANUO:以前の同名のANUOとは無関係)は短命に終わったが、1967年8月13日、シットウェで米不足に抗議する人々に国軍が発砲し、400人以上の死傷者・行方不明者が出るという事件(米殺しの日/Rice Killing Day[26])が発生したのを機に、アラカン独立機構 (Arakan Independence Organisation:AIO) とアラカン解放軍 (ALA)という2つの新しい武装組織が結成された[注釈 17]。両方ともウー・ウータトゥン(U Oo Tha Tun)[27]というラカイン族の著名な歴史家の影響下にあり、CPBのマルクス主義もBSPPビルマ式社会主義も「ビルマ化」を促すものとして、否定的だった[28]

AIOは、1970年にマンダレー大学の学生組織が結成し、その後、KIO支配地域で軍事訓練を受けた。2年後、約80人のAIOの先遣隊は印緬国境に沿ってラカインに侵入し、チャウトーとミャウウーに拠点を築いた。一方、ALAは1967年からから68年にかけて海軍兵のカインモールン(Khaing Moe Lun)[29]が結成したが、結成メンバーが政府に逮捕されて一度頓挫。その後、1972年から74年にかけて、カインモールンたちはKNU支配地域で軍事訓練を受け、当地で正式にALAを結成した。ALAは、1976年に結成された少数民族武装勢力の連帯組織・民族民主戦線(NDF)の創設メンバーでもあった[28]

この時期、隣の東パキスタンでは1971年に第三次印パ戦争が勃発、インド北東部ではミゾ国民戦線(MNF)が武装闘争を続けており、三国境地帯[注釈 18]には兵器が溢れており、革命運動への共感と理解があったことも追い風となった[28]

標的とされたラカイン系武装勢力

1974年、新憲法が制定され、ラカインは念願の州へ昇格したが、その名称は伝統的名称にもとづく「アラカン州」ではなく、「ラカイン州」となった。そして1970年代後半から、長年放置状態だったラカイン州の武装勢力が国軍の標的になり始めた[30]

これまでラカイン州の武装勢力は小規模で取るに足らぬものだった。その理由について、バーティル・リントナーは、次の3つの要因を挙げている[31]

  1. ラカイン州が貧しく、武装勢力の資金源は米と医薬品の輸出から得られる利益のみだったこと。
  2. 兵器の闇市場がある中国・タイから離れていたこと。
  3. ラカイン族の人々が、バングラデシュからのムスリム流入に繋がる紛争よりも安定を望んでいたこと。

一方、この時期に国軍がラカイン州を標的にし始めた理由について、マーティン・スミスは、次の3つの要因を挙げている[32]

  1. ラカイン州の武装勢力が分裂していたこと。
  2. CPBやKNUの反乱鎮圧に目処がついたこと。
  3. 三国境地帯の不安定な状況により、外国の介入やムスリムの大量流入を招くことを懸念したから[注釈 19]

いずれにしろ国軍は、ラカイン州に2つの戦術師団を設置して、1977年頃から「四断(フォーカッツ)作戦[注釈 20]」を実施し、アラカン・ヨマに陣取っていたCPBを壊滅させた。同年、AIOの第二陣がカチン州からラカイン州内の拠点に向かっている途中、チン州の国境沿いで、国軍とインド軍双方の待ち伏せ攻撃に遭い、58人のメンバーのうち15人が戦死し、ラカイン州に到り着いたのは6人のみという惨憺たる様で、事実上壊滅した。また、ALAもKNU支配地域からラカイン州へ向かう途中、チン州で国軍とインド軍双方の待ち伏せ攻撃に遭い、カインモールンを含む50人以上のメンバーが戦死した。以後、ALAは三国境地帯に本部を置き、KNU支配地域に50~100人の部隊を置く小規模な活動に留まっている[33]。その後も国軍のラカイン州における掃討作戦は続き、1980年に恩赦が発表された際には、CPB北西支部司令官テットゥン(Thet Tun)、CPA創設者・チョーザンリー(Kyaw Zan Rhee)、AIO共同創設者・トゥンシュエマウン(Tun Shwe Maung)が政府に降伏した[34]

それでもBSPPの経済失策により生まれた闇市場からの利益、インド政府と停戦合意を結んでインドに撤退したMNFが三国境地帯に残していった兵器・設備を元手に、各武装勢力は細々と活動を続けていた。1985年にはAIO、ALA、CPAが連帯してアラカン民族統一戦線(National United Front of Arakan:NUFA)を設立したものの、内紛が激しく、その活動は低調なものに終わった。ただし、教育水準が高いラカイン族は武装勢力の世界では重宝され、たとえば1985年にはCPBとKNU/NDFが画期的な停戦合意を結んだが、その際のCPB代表団団長はチョーミャ(Kyaw Mya)、KNU/NDF代表団団長はウー・ソーアウン(U Soe Aung)で、いずれもラカイン族だった[35]

ラカイン族とロヒンギャの対立の顕在化

ただこの時期、1978年の「ナガーミン作戦」、1982年の国籍法改正[注釈 21]を受けて、ロヒンギャ愛国戦線(RPF)やロヒンギャ連帯機構(RSO)などのロヒンギャ武装勢力が、ロヒンギャのアイデンティティを強く訴える動きを見せたことにより、1978年の大量流出劇の際にはAIOが同情の意を示すなど、これまで比較的ロヒンギャに寛容だったラカイン族の武装勢力が、ロヒンギャに対する警戒心が強めることになった。ALAはRPFがNDFに参加することに断固反対の立場を取り続けた。1982年には、カマン族[注釈 22]の妻を持つ自称「アラカン・ムスリム」のウー・チョーフラ(U Kyaw Hla)が、アラカン解放機構(Arakan Liberation Organisation:ALO)を結成し、非ロヒンギャ勢力としてNDFへの参加を試みたが、これもALAの反対に遭って頓挫した[36]

SLORC/SPDC時代 (1988年 - 2011年)

ラカイン系政党の躍進と挫折

8888民主化運動を鎮圧後、クーデターを起こして成立したソーマウン率いる国家法秩序回復評議会(SLORC、1997年に国家平和発展評議会〈SPDC〉に改組)の下で、1990年5月27日に複数政党による総選挙が実施された。ラカイン州からは、既述したAIO・ALAに影響を与えたウー・ウータトゥン率いるアラカン民主連盟英語版(ALD)と小規模な左派政党・アラカン人民連合機構(APUO)、そしてロヒンギャの人権国民民主党英語版(NDPHR)[注釈 23]が参加。ALDはラカイン州の総議席26のうち11議席を獲得して、9議席に終わったアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)を抑えて州第1党となり、全国レベルでもNLDとシャン諸民族民主連盟(SNLD)に次いで第3党と躍進した。ロヒンギャのNDPHRも4議席を獲得した。しかし選挙結果を受け入れないSLORCは、各政党に対する弾圧を開始。選挙前に逮捕されたウー・ウータトゥンは1990年に獄死し、ALD、NDPHRは1992年に活動禁止処分を受けた[37]

ラカイン系武装勢力の結集と「清潔で美しい国」作戦

このように政党活動が禁止されたため、この後しばらくラカイン州では武装勢力が活発化した。

8888民主化運動を機に、アラカン独立機構(AIO)、アラカン解放軍(ALA)、アラカン共産党(CPA)からなるアラカン民族統一戦線(NUFA)は、古参のアラカン民族解放党軍(ANLA)、部族民族党(TNP)[注釈 24]の他、若手活動家が結成したアラカン民族民主軍(National Democratic Force of Arakan:NDFA)[注釈 25]を加え、この際、AIOとALAは一時的に合併した[注釈 26]。新生NUFAの武装組織は、新アラカン建設軍(New Arakan Construction Army:NACA)と名付けられた。さらに1988年11月、全アラカン学生同盟(All Arakan Student Union:AASU)が設立され、その後、三国境地帯で全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)「901連隊」と、政府の迫害を受けたALDのメンバーからなる亡命ALD(ALD-in-exile:ALD〈E〉)が結成された。NDFのメンバーだったALAは、NUFA、ABSDFとともに泰緬国境地帯で結成されたビルマ民主同盟(DAB)の設立メンバーとなった。彼らが重視したのは、連邦主義、人権、民主主義といった価値観で、共産主義には関心を示さなかったこともあり、ラカイン州にわずかに残っていたビルマ共産党(CPB)の残党は孤立し、1997年に政府と停戦合意を結んでその活動を終えた[38]

しかし、このような武装勢力の活発化は国軍の警戒心を呼び起こした。当時、国軍はラカイン州に関する3つの不穏な情報を入手していたとされる[39]

  1. 反政府勢力の合流:元ALA司令官ボー・カインラザ(Bo Khaing Raza)率いるアラカン軍(AA2)[40]が、アラカン民族統一戦線(NUFA)[41]などと協力するためにカレン民族同盟(KNU)支配地域から三国境地帯[42]まで海路で移動し始めた。
  2. 武装の強化:RSOとARIFが新たな兵器と資金を得て、三国境地帯で軍事訓練を強化していた。
  3. KNUの進出:KNUがエーヤワディ・デルタ地帯に再進出しようとしていた。

これが実現すれば、カレン州 - エーヤワディー地方域 - ラカイン州が1つに繋がり、反政府統一戦線を構築される危険性があった。そこで国軍は、1991年から1992年にかけて大掛かりな掃討作戦を開始。まず1991年4月にAAとNUFAとの合流を阻止し、1991年後半には、エーヤワディー地方域ボガレ英語版に侵入したカレン民族解放軍(KNLA)の小部隊を壊滅させた。さらに、1991年から1992年にかけては、ラカイン州北部でロヒンギャ連帯機構(RSO)およびアラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)掃討を目的とした「清潔で美しい国作戦」を発動し、約25万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事態となった。この際も、ミャンマー・バングラデシュ両国の協定にもとづき、大半の難民が帰国した[43]

この掃討作戦を受けてNUFAは、拠点を印緬国境のパルヴァキャンプ(Parva Camp)に移動させ、1994年1月4日、アラカン民族統一党(The National United Party of Arakan:NUPA)という単一組織に改組した。しかし1年後、CPAのメンバー70人が離脱してアラカン民主党 (DPA) を結成し、同年NUPAはDABからも脱退した[44]

既存組織の離合集散ぶりに失望したラカイン族の若者たちは、1995年に全アラカン学生青年会議(All Arakan Students and Youth Congress :AASYC)を結成した。ABSDF(アラカン)の他、ラカイン州、バングラデシュ、インド、タイの若者や若い僧侶が参加し、のちにアラカン軍(AA)を結成するトゥワンムラッナインや書記長のチョーハン(Kyaw Han)もメンバーで、チョーハンは会長を務めたこともあった。AASYCは「失われたアラカンの主権」の回復を目的に掲げ、すべての革命組織と協力すると主張した。しかし、政治活動に飽きたらない一部のメンバーが、1997年3月にNUPAとAA2に合流し、若者世代もまとまりきれなかった[45]

「リーチ作戦」の衝撃とラカイン・ロヒンギャ協力の模索

1998年2月8日、NUPAとKNLAの40人の合同軍がインド政府の黙認を得て、軍事基地を設置すべく、2艘のボートに兵器を満載して泰緬国境からアンダマン諸島のインド領の島・ランドフォール島英語版に上陸した(「リーチ作戦」と呼ばれる)。しかしインドはこれを裏切り、合同軍が上陸するや全員当局に拘束され、リーダーのカインラザ含む6人が処刑された。他のメンバーも2011年までインド当局に拘束され、その後難民認定を受けてオランダに移住した。なぜインド当局が裏切ったか、真相は謎のままだが、この事件でNUPAは大打撃を受けた[46]

この危機的状況で、NUPAはアラカン・ロヒンギャ民族機構英語版(ARNO)[注釈 27]と同盟を組み、2000年、アラカン独立同盟(Arakan Independence Alliance:AIA)を結成した。これは、1948年の独立以来ラカイン族とロヒンギャの武装勢力が初めて同盟を組んだ画期的な試みだった。この同盟は軍事作戦も敢行したが、その主目的は両コミュニティ間の相互理解を促すことだった。ただすべてのラカイン族の武装勢力がAIAに賛同したわけではなく、AIAが泰緬国境に軍事基地を設立しようとすると、ALPとDPAはこれを阻止した[47]

政党政治の復活も試みられた 1998年9月、ALDは、1990年総選挙に出馬したNLD、SNLD、モン民族民主戦線(MNDA)、ゾミ国民会議(ZNC)とともに、人民議会代表委員会 (Committee Representing the Peoples Parliament:CRPP) を結成。ロヒンギャのNDPHRにも参加を促したが、すぐにALD議長・ソームラアウン博士(Dr Saw Mra Aung)が2年以上拘束され、ALDとCRPPの書記長だったエーターアウンは懲役21年の刑を受けた。4年後、ALDの幹部たちは再び政党政治の復活を試み、2002年、9つの民族政党を結集して統一民族同盟英語版(UNA)を結成した。しかし、2005年にSNLDとUNAの議長・クントゥンウー英語版が大逆罪の罪で懲役93年の刑を受け[注釈 28]、その活動は頓挫した[48]

ラカイン族とロヒンギャの武装勢力の同盟、ラカイン族の政党の結集がいずれも頓挫する中、2004年3月ラカイン族の武装勢力と非武装勢力を結集したアラカン民族評議会英語版(ANC)が結成された。参加した組織はNUPAALA、DPA、ALD (E)、AASYC、仏教徒ラカインサンガ連合(BRSU)、アラカン女性福祉協会(AWWA)、ラカイン女性連合(RWU)などである。しかし結成当初から、ロヒンギャの組織を排除している点を批判され、2006年にニューデリーで開催されたANC大会で、他のメンバーがNUPAにARNOとのAIA同盟関係を終わらせるよう要求し、NUPAが拒否したことで、ANCは2つの派閥に分裂し、弱体化した(2009年に修復)[49]

大型開発プロジェクトとアラカン軍(AA)の誕生

ラカイン州はミャンマーでももっとも貧しい地域の1つであり、職を求めて多くの若者が国内外に流出した行き先はカチン州翡翠鉱山、インド、タイ、マレーシアなどで、2000年までに推定50万人のラカイン族移民がいると言われている[50]

しかし2000年代に入り、そのラカイン州で複数の大型開発プロジェクトが動き始めた。1つは、州西部の沖合にあるシュエガス田英語版である。これはSPDCと韓国およびインドの企業連合によって2000年に開始され、当初、インド、中国、タイが輸入希望の意思を表明していたが、2009年に中国に決定し、2013年から産出が始まった。ガスはパイプラインチャウピュを経て中国の昆明にまで運ばれた[51]。2017年には中国が中東から輸入した石油のパイプラインも追加され、これで中国は「マラッカジレンマ」[注釈 29]を回避できるようになった。また、2008年からはカラダン川複合輸送計画も始まった。これはシットウェを商業港として開発し、コルカタへ向かう海路と、カラダン渓谷を経由してインド北東部へ向かう陸路を整備する計画で、これによってインドは双方への移動時間は数日間短縮することができた[52]

しかし、これらの計画はラカイン州の住民の承諾なしに行われ、地元に利益をもたらさないのではないか、人権侵害や環境破壊が進むのではないか、軍政支配が強化されるのではないかという懸念が住民の間に広まった。実際、SLORC/SPDC時代は、ラカイン州はカチン州に次いで2番目に外国直接投資の多い地域だったが、地元には生活が豊かになったという実感は乏しく、アンにある国軍西部司令部は、2006年までに、3つの戦略司令部と43個大隊が設置され、増強が進んでいた[53]

トゥワンムラッナイン

そのような状況下、2009年4月10日、カチン独立軍(KIA)の本拠地であるカチン州ライザ英語版で、アラカン軍(AA)とその政治部門・アラカン統一連盟 (ULA) が結成された[54]。リーダーは前述のトゥワンムラッナインで、(1)多民族アラカン人の自決(2)アラカン人の民族的アイデンティティと文化遺産の保護と促進(3)アラカン人の「国家の尊厳」と最善の利益をその目的に掲げ、それを「ラキータの道(Way of Rakhita)」と称した[55]

当時、AAはあまり注目される存在ではなかったが、やがて単なる武装組織としての枠を超え、独自のシンボルや洗練されたメディア戦略(「Arakan Dream 2020)」など)を通じて、ラカイン州内外の若年層や知識人層から広範な支持を獲得することに成功した。また政治目標については、ミャンマー連邦内における従来の「自治」の枠組みに留まらず、州が主権の一部を保持し中央政府と対等なパートナーシップを形成する「国家連合(Confederation)」の追求を公式に標榜した[56]

ビルマの植民地支配と人種差別主義政権の下、アラカンは現在ミャンマーで最も貧しい州となっており、アラカンの人々は不平等、貧困、飢餓の悪循環に陥っている。これらの大きな苦しみと悲劇は、アラカン人の新しい世代に国家革命を起こす以外の選択肢を与えなかった。トゥワンムラッナイン

テインセイン時代(2011年 - 2015年)

エイマウン

ラカイン系政党の躍進とコミュニティ紛争

2008年憲法にもとづく2010年の総選挙には、アラカン民主連盟(ALD)、統一民族同盟(UNA)はNLDとともにボイコットしたが、獣医師のエイマウン英語版率いるラカイン民族発展党英語版(RNDP)が参加し、連邦議会で16議席を獲得して第4党となり、ラカイン州議会でも最大議席数を獲得し、3つのレベルの議会で計35議席を獲得するという大勝利を収めた。テインセイン政権下で諸々の改革が進む中、ラカイン州の状況も改善することが期待された[57]

しかし2012年5月、ラカイン族の少女が、ロヒンギャの男性に強姦されて殺害された事件をきっかけに両者の間に衝突が発生。10月までに150人以上が死亡、10万人以上の避難民が出る惨事となった。この事件以降もラカイン州ではムスリムと仏教徒の衝突が頻発し、ラカイン州以外でもメイティーラ、ヤンゴン近郊のオッカン、シャン州ラーショーで反ムスリムの暴動が発生し、多数の死傷者が出た[58]

一連の事件はアシン・ウィラトゥ率いる969運動、それを引き継いだミャンマー愛国協会(マバタ)が煽ったものとされているが[59]、ラカイン族の人々の間では、バングラデシュとパキスタンの支援を受けた「ベンガル人[注釈 30]」による「ラカイン州をイスラム国家に変える」陰謀の一部であるという主張がされた[60]

ラカイン民族主義の台頭

また、既述したラカイン州における大型開発プロジェクトからの疎外感もラカイン族の人々の民族感情を刺激し、「ロヒンギャを優遇している」と見なされたロヒンギャ避難民を支援する国際機関や国際NGOに対する抗議デモが勃発し、2014年3月にはラカイン族の暴徒がシットウェの国際機関・国際NGOの事務所を襲撃し、ラカイン州から撤退させた[61]

さらに、テインセイン政権下で進められていた少数民族武装勢力との停戦合意のプロセスも、ラカイン族の人々の民族意識を刺激した。政府がラカイン州における交渉相手に選んだのは、アラカン解放軍(ALA)で、ALAは2012年4月、政府と停戦合意を結び、2015年10月15日の全国停戦合意にも署名した。しかしALAは泰緬国境地帯で活動しており、ラカイン州で本格的武装闘争を行ったことがなく、その代表正当性に疑問符が持たれた。またこの時期、他のラカイン系組織・団体がロヒンギャに対して慎重な姿勢を崩さなかったのに対し、ALAは「ラカイン族は、ベンガル人の脅威に対する国家の最前線の防波堤として行動している」などと民族意識を煽る発言を繰り返した[62]

一方、アラカン軍(AA)は、カチン州やシャン州でKIAやMNDAAと共同で軍事作戦に参加して、戦闘経験を積んでいた。2014年11月、国軍がKIAの本拠地であるライザ近郊の戦闘幹部訓練施設に砲弾を撃ちこみ、23人が死亡・20人が負傷する事件が発生し、この中にはAAの兵士8人も含まれていた。2015年4月には、ラカイン州チャウト―とチン州パレッワで国軍とAAは初めて軍事衝突した[63]

2015年の総選挙には、ALDとRNDPが合併してアラカン民族党英語版(ANP)を結成して臨み、連邦議会で22議席を獲得して第3党となり、3つのレベルの議会で計45議席を獲得するという、1990年の総選挙も2010年の総選挙も上回る大勝利を収めた[注釈 31][64]。しかしANPは、選挙期間中、「国籍を愛そう。純血を保とう。ラカイン族であろう。ANPに投票しよう」をスローガンとし、副議長が「わが党の方針は、ベンガル人を受け入れず、『ロヒンギャ』という名前も認めないことである」と発言するなど、民族意識を煽り続けた[65]

NLD時代(2016年 - 2020年)

2016年に発足したアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)政権に対し、ラカイン州内では事態の改善に大きな期待が寄せられていたが、結果として状況はむしろ悪化した[66]

2008年憲法の規定に基づき、各州・地方域の首相は大統領が指名することになっていたが、NLD政権は州議会で最多議席を獲得したANPの党首ではなく、自党の国会議員であるウー・ニープー(U Nyi Pu)をラカイン州首相に指名した。また、NLDが主導した少数民族武装勢力との和平プロセス「連邦和平会議 - 21世紀パンロンと」においても、ラカイン族を代表して招待されたのはアラカン解放軍(ALA)のみで、アラカン軍(AA)やアラカン民族評議会(ANC)は排除された。こうした政府の姿勢は、ラカイン族の人々には政府による「分断統治」と受け止められた[66]

事態を決定的に悪化させたのは、当局による弾圧である。2018年1月16日、ミャウウーで開催予定だったアラカン王国233周年記念式典が当局によって直前に中止され、これに抗議した数千人の群衆に対し治安部隊が発砲、7人が死亡する惨事となった。さらにその前日には、当時現職の国会議員であったエーイマウンと作家のワイヒンアウン(Wai Hin Aung)が、文学集会での演説を理由に大逆罪および不法結社罪で起訴され、翌年に懲役20年の実刑判決を受けた。加えて2020年総選挙では、治安悪化を理由に州北部で投票が中止された結果、前回躍進したANPは連邦議会における議席を22議席から8議席へと激減させた。こうしたNLD政権の一連の強硬姿勢は、ラカイン人の反中央感情を激化させ、AAへの支持をいっそう強める結果となった[66]

同時期、州内ではロヒンギャ問題も深刻化していた。2016年10月および2017年8月、武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)による警察・軍拠点への攻撃を機に、国軍による大規模な「掃討作戦」が行われ、約70万人におよぶロヒンギャ難民がバングラデシュへ流出する未曾有の事態となった(cf.ロヒンギャ危機)。これに対しラカイン族の人々は、この混乱に乗じて中央政府(国軍)が州内の支配権を強化することに強い警戒心を抱いた。こうした背景から、2017年11月、AAはカラダン川付近で国軍部隊を待ち伏せ攻撃し、国軍側に最大の人的損失(死者11人、負傷者14人)を与えた。これを機にAAと国軍との戦闘は本格化し、2020年11月に総選挙実施の地ならしとして一時休戦が合意されるまで、激しい紛争状態が続くこととなった[67]

SAC/SSPC時代 (2021 - 2026年)

2021年ミャンマークーデター発生時、ラカイン州における主要な政治・軍事アクターは、アラカン軍(AA)、アラカン解放軍(ALA)、アラカン軍(カレン州を拠点とする派閥)といった武装勢力、およびアラカン民族党(ANP)であった。しかし、クーデター後のミャンマー全土における内戦の激化に伴い、AAのプレゼンスが圧倒的なものとなっていった。

クーデター直後、暫定軍事政権である国家行政評議会(SAC)は、AAのテロ組織指定を解除し、日本財団笹川陽平による仲介で一時的な停戦合意を取り付けるなど、一定の懐柔策を講じた。しかし、2023年10月に開始された「1027作戦」以降、AAと国軍との戦闘は全州規模で本格化した。戦況は一貫してAA優位に進み、2024年12月21日、AAは州南部の要衝アン(Ann)にある国軍の西部軍管区司令部を完全に掌握した[68]。国軍の地方司令部が少数民族武装勢力によって占拠されたのは、ラーショーの北東軍管区司令部に次いで2例目であり、これによりAAはシットウェ、チャウピュー、チェドバ島を除くラカイン州全土をほぼ実効支配下に置くに至った[69][70][71]

2025年2月現在、AAはさらに攻勢を強め、国軍の兵器工場が集中するマグウェ地方域や、国軍南部軍管区司令部が位置するエーヤワディー地方域のパテイン方面へと進軍を続けている。一方で、支配地域の拡大過程において、AAがロヒンギャ住民を村から強制的に立ち退かせ、徴兵を強要し、さらには虐殺に関与しているといった指摘が、国内外の人権団体や国際機関からなされており、その人道的な振る舞いに対して厳しい批判を浴びている[69][70][71]

ラカイン州で活動した武装勢力

武装勢力

組織名 活動期間 説明
アラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADA) 1942–1945 ビルマ国民軍(BNA)傘下にあった部隊。
アラカン人民解放党(Arakan People’s Liberation Party:APLP) 1945–1958 過激派僧侶・ウー・セインダが率いた。
赤旗共産党 1945–1992
ビルマ共産党(CPB) 1945–1997
人民義勇軍(PVO) 1945–1958 反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の私兵組織。
ムジャヒディーン 1947–1961
部族民族機構(アラカン地区)(Tribal Nationalities Organisation 〈Akyab District〉) 1957–1972 アラカン北部のチン族やその他の丘陵部族の3つの小さな勢力が結成。ビルマ共産党(CPB)と協力関係にあったが、1972年のCPBに吸収された。
アラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA) 1960–1994 退役軍人のマウンセインニュンが元APLP幹部30人とともに結成した、親マルクス主義グループ。
アラカン共産党(CPA) 1962–1994 赤旗共産党の分派。
ロヒンギャ解放党(RLP) 1962–1973 ムジャヒディーンの残党
ロヒンギャ愛国戦線(RPF) 1973–1986 前身のロヒンギャ独立戦線(RIF)は「ロヒンギャ」の名を冠した最初の武装組織とされる。
ミゾ国民戦線(MNF) 1966–1986 インドアッサム州に居住するミゾ族の武装組織。
アラカン独立機構 (Arakan Independence Organisation:AIO) 1970–1988 マンダレー大学の学生組織が結成。
アラカン解放党/軍(ALP/A) 1973–現在
アラカン解放機構(Arakan Liberation Organisation:ALO) 1982–1988 カマン族の妻を持つ「アラカン・ムスリム」を自認するウー・チョーフラが結成。ラカイン州のムスリムを「非ロヒンギャ」と定義づけ、他の武装勢力との連携を模索。その後、ビルマ・ムスリム解放機構(MLOB)に改組。
ロヒンギャ連帯機構(RSO) 1982–現在
アラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF) 1986–1998
部族民続党(アラカン)(Tribal Nationalities Party 〈Arakan〉) 1987–1994 ビルマ共産党(CPB)を離脱したチン族とムロ族のメンバーが結成した武装組織。
アラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA) ラカイン族の若手活動家が結成。
全アラカン学生同盟(All Arakan Student Union:AASU) 1988-?
チン民族戦線/軍(CNF/A) 1988–現在 チン族の武装組織。
全ビルマ学生民主戦線(ABSDF) (アラカン) 1988–1995
アラカン軍(AA) 1991–1994 のちに「ラカインープレイ軍(AA2)」と改名。
アラカン民族統一党(The National United Party of Arakan:NUPA) 1994–2014 アラカン民族統一戦線(NUFA)が単一組織に改組。軍事部門はアラカン軍(Arakan Army)を名乗った。
アラカン民主党(Democratic Party of Arakan:DPA) 1994–2014 アラカン民族統一党(NUPA)を脱退した元アラカン共産党(CPA)のメンバーが結成。
全アラカン学生青年会議(All Arakan Students and Youth Congress :AASYC) 1995–現在 ABSDF(アラカン)の他、ラカイン州、バングラデシュ、インド、タイの若者や若い僧侶が参加。
アラカン・ロヒンギャ民族機構英語版(ARNO) 1998–現在 ロヒンギャ連帯機構(RSO)とアラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)が再合併して結成。
アラカン軍(AA) 2009–現在
アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA) 2016–現在
アラカン・ロヒンギャ軍英語版(ARA) 2020–現在
ロヒンギャ・イスラミ・マハズ英語版(RIM) 2020–現在

同盟

組織名 活動期間 加盟組織
アラカン左翼統一戦線(Aarakan Leftist Unity Front:ALUF) 1947
  • アラカン人民解放党(APLP)
  • 赤旗共産党
アラカン民族統一戦線(National United Front of Arakan:NUFA) 1985–1994
  • アラカン独立機構(AIO)
  • アラカン解放党/軍(ALP/A)
  • アラカン共産党(CPA)
アラカン独立同盟(Arakan Independence Alliance:AIA) 2000 -
  • アラカン民族統一党 (NUPA)
  • アラカン・ロヒンギャ民族機構(ARNO)

1948年の独立以来ラカイン族とロヒンギャの武装勢力による初の同盟。

アラカン民族評議会英語版(ANC) 2004 -
  • アラカン民族統一党 (NUPA)
  • アラカン解放党/軍(ALP/A)
  • アラカン民主党(DPA)
  • 亡命アラカン民主連盟(ALD〈E〉)
  • 全アラカン学生青年会議(AASYC)
  • 仏教徒ラカインサンガ連合(BRSU)
  • アラカン女性福祉協会(AWWA)
  • ラカイン女性連合(RWU)

ラカイン族の武装勢力と非武装勢力による同盟。軍事部門はアラカン軍またはアラカン州軍を名乗った。

四兄弟同盟〈Four Brothers Alliance〉 2024
  • ロヒンギャ連帯機構(RSO)
  • アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)
  • アラカン・ロヒンギャ軍(ARA)
  • ロヒンギャ・イスラミ・マハズ

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI