イスマーイール・ハニーヤ
パレスチナの政治家 (1963-2024)
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イスマーイール・ハニーヤ(アラビア語: إسماعيل هنية, ラテン文字転写: Ismail Haniyeh
発音、1962年1月29日 - 2024年7月31日)は、パレスチナの政治家。ガザ地区のイスラム原理主義テロ組織ハマース(ハマス)の政治局長[1]。
ハマース創設者アフマド・ヤースィーンの側近としてハマース内で台頭した[2][3]。2006年1月25日のパレスチナ立法評議会選挙でハマースが勝利すると、3月29日にパレスチナの首相に就任した[4]。ハマースとファタハの連立内閣を実現するために2007年2月15日に辞任し[5]、3月18日に連立内閣の首相に就任したが[6]、6月11日、ハマースがガザ地区を占拠したことで、ハマースとファタハの内部抗争は内戦化した[7]。
これにより、6月14日、アッバース大統領はハニーヤを解任し、ハマースを排除したファタハ主導の政権を樹立したが、ハニーヤは解任を拒否。これ以降も首相を自称してハマースが占拠するガザ地区を実効支配した[8][2]。
2014年の統一政権発足後は首相を称さなくなったが、ハマース幹部として影響力を保ち、2017年にはハマース政治局長(最高指導者)となった[9][10]。
2018年、ハマースによるイスラエル市民やアメリカ市民へのテロ攻撃を理由にアメリカ合衆国から特別指定国際テロリスト(SDGT)の指定を受けた[1]。2023年10月7日のハマースによるイスラエルのテロ攻撃にも中心的役割を果たしたため、アメリカ司法省からテロ、殺人共謀、制裁逃れなどの罪で起訴され[11]、また国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪と人道に対する罪の容疑で逮捕状が請求された[12]。
2024年7月31日、イランの首都テヘランで暗殺された[13]。
日本語では、イスマイール・ハニーヤ[14]の他、イスマイル・ハニヤ[15][16]、イスマイル・ハニーヤ[17]とも表記される。
名前
経歴
生い立ち
ハニーヤはガザ地区のアッ・シャーティー難民キャンプで生まれた。家族は第一次中東戦争期にアシュケロン近郊アル=ジュラ村から難民となった[20][9]。
生年月日については諸説あり、1962年1月29日[21]、1963年1月29日[22][23]、1963年5月8日[24]などとする出典がある。一方、アメリカ財務省外国資産管理室(OFAC)の制裁情報では生年のみ1962年と記載され[25]、ブリタニカ百科事典は出生年について「1962年?」と曖昧に記述している[26]。
1981年にガザ・イスラーム大学に入学し、アラビア文学を学んだ。在学中はイスラーム系学生組織で活動し、1985年から1986年にかけて学生評議会を率いた。1987年に同大学を卒業した後、ハマースが開始したテロ活動に関与したため、イスラエル治安部隊に複数回逮捕された。1987年12月に18日間拘束され、1988年1月15日には6か月間の行政拘禁を受けた。1989年5月18日には3度目の拘束を受け、3年間収監された[27]。
釈放後の1992年12月、他のハマース活動家らとともにレバノン南部のマルジュ・アッ=ズフールへ追放された[27][28]。1993年のイスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)のオスロ合意後にガザ地区へ帰還した[26]。
ハマース幹部へ昇進
1997年にハマース創設者アフマド・ヤースィーンが釈放されると、ハニーヤはヤースィーンの事務所長に任じられ、ヤースィーンとの近い関係を通じてハマース内部での地位を高め、第2次インティファーダ期にはハマース指導部の一員となっていた[29][26]。
2024年のアメリカ司法省の起訴状によれば、ハニーヤらハマース幹部は遅くとも1997年ごろから米国民殺害、公共の場所への爆破、大量破壊兵器使用、テロ資金供与などの共謀に関与したとされている[30]。
2003年9月6日には、イスラエル軍がガザ市内でヤースィーンやハニーヤらハマース上層部を標的とする空爆を行った。イスラエル軍筋は、標的となったハマース幹部らがイスラエルに対する新たなテロ攻撃を計画・命令していたと述べた[31]。ハニーヤは死亡していないが、空爆で負傷したとされる[29]。
2004年にハマース創設者アフマド・ヤースィーンとその後継者アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィーがイスラエルの攻撃で相次いで死亡し、他のハマース上級幹部も排除されたことで、ハニーヤはガザ地区およびヨルダン川西岸地区における有力指導者となった[32]。ランティースィー死亡後、ハマースは指導者名の公表に慎重になり、ハニーヤはマフムード・ザッハール、サイード・シヤームとともに集団指導体制の一員になったと報じられた[28]。
2006年パレスチナ評議会選挙では、ハニーヤはハマースの名簿1位に置かれている[24]。さらに同年2月16日、ハマース指導部はハニーヤを次期パレスチナ首相に推薦する方針を固めた[33]。
パレスチナ首相
ハニーヤの首相就任への反発
イスラエルのエフード・オルメルト首相代行は、ハマース主導体制となったパレスチナ自治政府を「テロ権力」と呼び、ハマースが関与する自治政府機関とは接触を行わない方針を示した。イスラエル政府は、パレスチナ自治政府に代わって徴収していた月額約5000万ドルの税・関税収入の移転停止を決定し、ハマース議員らの移動制限などの措置も講じた[34][35]。これに対しハニーヤは、ハマースは武装解除せず、イスラエルも承認しないと述べ、イスラエルはパレスチナ人が示した民主的選択に異なる対応を取るべきだったと主張した[36]。
アメリカ政府も、将来のハマース主導政権に資金が渡ることを防ぐため、パレスチナ自治政府に対し、インフラ事業用に供与済みだった5000万ドルを返還するよう求めた。アメリカ国務省のショーン・マコーマック報道官は、同資金がイスラエルの存在権を認めない将来の政権の資金に入る可能性があるため返還を求め、パレスチナ自治政府がこれに同意したと説明した[37]。その後、パレスチナ自治政府は同資金のうち3000万ドルをアメリカ政府に返還した[38]。これについて、ハニーヤは、欧米諸国は寄付を常にパレスチナ人への圧力として用いてきたと述べ、ハマースはイスラエル承認や武装解除を受け入れないと改めて表明した[39]。
ハマースによるファタハへのテロ攻撃
ハニーヤ内閣発足後、ハマースは約3000人規模の私兵部隊をガザ地区の街頭に展開し、同部隊は失業中の教員による平和的抗議をライフルと棍棒で解散させた。この部隊はアッバース大統領の権威への挑戦と受け止められ、ファタハとの衝突を激化させた[40]。
2006年5月にはファタハ系治安部隊幹部ナビール・ホドホドが爆殺され、ファタハ側はハマースの関与を非難した。ホドホドの遺体がガザ市のシファ病院に運ばれた後、病院ではハマースとファタハの銃撃戦が発生し、内戦への懸念が強まった[41]。
この後もハマースによるファタハおよびアッバース大統領派治安部隊に対する銃撃戦や爆弾事件などのテロ攻撃は続き[42][43][44][45][46]、停戦は崩壊状態となった[42][43][44][45]。
2006年パレスチナ過激派によるイスラエル越境テロ
2006年6月25日、2006年パレスチナ過激派越境テロ攻撃事件が起き、ハマースも関与したパレスチナ過激派がガザ地区側から地下トンネルでイスラエル領内に越境し、ケレム・シャローム国境検問所付近イスラエル軍陣地をテロ攻撃し、この攻撃でイスラエル兵2人が死亡、4人が負傷、ギルアド・シャリート伍長が拉致された[47]。
イスラエルはシャリート解放を求めてガザ地区への軍事作戦を開始し、ハマース幹部や自治政府閣僚・議員らを拘束した。イスラエルのアミール・ペレツ国防相は、拘束したハマース関係者をテロ行為への関与で裁判にかけ得るとし、「スーツとネクタイ」は、拉致やテロへの関与・支援の隠れ蓑にはならないと通告した[47]。6月30日にハニーヤはイスラエルの攻撃をハマース政権打倒のための計画だと非難し、これに対しイスラエル側は、シャリートを解放しないならハニーヤらハマース政治指導者も標的となり得ると警告し、これにより、ハニーヤは一時身を隠して公の場に姿を見せなくなった[48][49]。
10月6日にはハニーヤは、ガザ地区の集会に現れ、ハマースはイスラエルを承認しないと繰り返し述べ、国際的圧力によってハマースが政権から排除されることを拒否すると宣言した[50][51]。
ハマースとファタハの対立激化
2006年10月20日には、ハマース構成員に殺害されたファタハ構成員の親族による発砲でハニーヤの車列が攻撃され、車列を護衛していたハマース主導警察の車両1台が放火された。ハニーヤは負傷しなかったが、この事件はハマースとファタハの抗争がハニーヤ本人の車列にまで及ぶほど激化していたことを示した[52]。
2006年12月14日、ハニーヤはラファ検問所でエジプトからガザへの国境通過を拒否された。その国境検問所はイスラエル国防相アミール・ペレツの命令でEUの監視要員に閉鎖された。ハニーヤは首相として初の公式訪問を終えてガザに戻るところだった。ハニーヤはこのとき、国外からの自治政府への寄付金として推定3000万ドルを所持していたと伝えられる。イスラエル側は、ハマース主導の自治政府に多額の現金が持ち込まれることを阻止するため、資金をエジプト側に残すことを通過条件としたので、ハニーヤは資金を残してガザ地区へ戻った。この資金はアラブ連盟のエジプトにある銀行口座に移送された[53]。その後、現金持ち込みを阻止されたことに反発したハマース戦闘員がラファ検問所に突入し、空中に発砲してパレスチナ大統領警護隊との銃撃戦を引き起こした。ハマース戦闘員は検問所内でコンピューターや家具の破壊を行った[54][55]。この戦闘で検問所を運営していたEU監視員は退避した[53]。ハマース戦闘員は一時、検問所を制圧したものの、同日遅くにパレスチナ大統領警護隊が検問所を奪回し、EU監視員も戻っている[54]。
その後、ハニーヤがラファ検問所からガザへ戻ろうとした際、車列が銃撃され、ボディーガードの1人が死亡し、ハニーヤの長男と政治顧問が負傷した。ハマースはこの事件をファタハ系の大統領警護隊によるハニーヤ暗殺未遂だと非難し、これを機にヨルダン川西岸地区とガザではファタハとの銃撃戦が発生するなど、既に激化していた両派の武力抗争はさらに悪化した[56]。
ハマース・ファタハ連立体制の首相

2007年2月8日、サウジアラビアの仲介により、パレスチナ大統領マフムード・アッバースと、ハマース政治局長ハーリド・マシャアル・ハマースのパレスチナ首相ハニーヤらはメッカで会談し、ハマースとファタハの武力衝突の停止と挙国一致内閣の樹立で合意した(メッカ合意)[57][58]。
合意は流血停止と対話による政治的対立の解決、挙国一致内閣の樹立、PLO改革などを掲げたが、ハマースはイスラエル承認やテロ放棄を明確に受け入れず、過去の和平合意についても「尊重する」とするにとどまった[59][60]。
メッカ合意を受け、ハニーヤは同年2月15日、ハマース単独内閣を終わらせてファタハとの連立政府を作るため、いったん首相を辞任。その後に改めてアッバース大統領から次期内閣の組閣担当者に再任命され、ハニーヤは連立内閣の組閣を進めた[61]。
2007年3月17日、ハニーヤはパレスチナ立法評議会に「挙国一致内閣」としてこれを提示し、同内閣は承認された。アッバースは同日、ハマースとファタハを含む25人の閣僚を宣誓させ、ハニーヤは首相として新内閣を率いた[62][63]。
しかし、新内閣の綱領はイスラエル承認、暴力放棄、過去の和平合意受け入れというイスラエル・米国・欧州の要求を満たさなかった[64]。ハニーヤ自身も政策演説の中で、ハマースがテロ放棄とイスラエル承認を拒否する立場を改めて示し、銃撃攻撃や自爆テロを含む「全ての手段」による「抵抗」の権利を主張した[65]。
米国は、ハマースが暴力放棄、イスラエル承認、過去の和平合意遵守を受け入れるまでパレスチナ新政府とは取引しないとの立場を改めて示し、イスラエルも新政府を承認せず、国際社会に制裁維持を求めると表明した[65][66]。欧州連合も、新政権がテロ放棄とイスラエル承認を受け入れるまでパレスチナ自治政府への資金凍結を解除しない姿勢を示した[67]。
ファタハへの攻撃再開とガザ支配の確立
挙国一致内閣は2007年3月17日に発足したが、ハニーヤ率いるハマースはテロ放棄とイスラエル承認を拒否して武力闘争を継続したので、ファタハとの緊張は収まらず、早くも同月22日にはガザ北部でハマースによるファタハへのテロ攻撃があり、死者が発生した[65][68]。
その後もハマースはファタハ系治安機関への攻撃、警察官殺害、拠点制圧、イスラエル南部へのロケット攻撃を繰り返した[69][70][71][72][73]。
5月14日には内戦の激化でパレスチナの治安崩壊が進み、内相ハーニー・アル=カワースミー(独立系)は治安維持に必要な権限がないとして辞任し、ハニーヤはこれを受理した[74][75]。
特に5月13日以降の内戦激化では停戦合意が繰り返されたが、いずれも崩壊した。5月19日の停戦はガザのエジプト代表部でハニーヤ出席のもと合意されたが、停戦発表直後にもファタハ系情報機関幹部ムハンマド・アル=マスリーの車列がハマースに銃撃されるなど、ハニーヤ政権下のハマースは停戦後も暴力を収束させなかった[76]。
6月に入ると、ハマースがファタハ側拠点への攻勢を強め、ガザ北部・中部を軍事区域と宣言し、ファタハ系拠点を相次いで制圧した[77][71]。同月14日、ハマースはアッバース大統領の拠点を含むファタハ側施設を制圧し、ガザ地区を事実上掌握した。目撃証言では、降伏後のファタハ要員数人がハマースに処刑されたと報じられた[78][79]。
ハマースは大統領親衛隊司令官らファタハ側の上級軍事指揮官を拘束し、ハマース側幹部は「ガザにおける世俗主義と異端の終わりだ」と宣言した。ハニーヤも、同日のアッバース大統領による解任を拒否し、首相職にとどまると表明した[80]。
ガザ制圧後もハマースはファタハ活動家の摘発を続け、同年11月にはガザ地区でファタハ活動家多数を拘束した。ハマース側は約50人を拘束したとしたが、ファタハ側は約400人が拘束され、ハマースが恐怖によって支配を固めようとしていると非難した[81]。
ガザ地区の「首相」

2007年6月、ハマースがガザ地区を武力制圧すると、アッバース大統領は6月14日に非常事態を宣言し、ハニーヤと挙国一致内閣を解任した[8]。
しかし、ハニーヤとハマースは解任を拒否してガザ地区の支配権を手放さず、以後、パレスチナは、アッバースが任命したサラーム・ファイヤード政権が統治力を残すヨルダン川西岸地区と、ハニーヤ率いるハマース政権が実効支配したガザ地区に事実上分裂した[82]。
ハマースは、アッバース大統領の4年任期は2009年1月に満了したとして、パレスチナ立法評議会議長であったハマースのアズィーズ・ドゥワイクが暫定的に大統領職を担うべきだと主張したが、パレスチナ自治政府側は、大統領選挙と立法評議会選挙を同時に行うため、アッバースの任期は2010年まで続くとの法解釈を示し、拒否した[83]。2010年1月に予定されていた大統領選挙は、ハマースが支配するガザ地区で投票実施を認めなかったため実施されなかった。PLO中央評議会は2009年12月、新たな選挙が行われるまでアッバースを大統領職に留めることを決定したが、ハマースはこれを認めず、アッバースの正統性を否定し続けた[84]。
ハニーヤは2012年2月にイランを訪問した。この訪問はイラン大統領マフムード・アフマディーネジャードの公式要請によるもので、イランはハマースの戦略的支援者・資金提供者とされていた[85]。ハニーヤはテヘランで公式歓迎を受け、イラン側のハマースへの支援を改めて取り付けた[86][87]。
2011年エジプト革命でのムバーラク体制崩壊後の翌2012年6月にハマースの母体でもあるムスリム同胞団出身のムハンマド・ムルシーが大統領に就任した。これを受けて同年7月26日、ハニーヤはエジプトを訪問し、ムルシーと会談した[88]。
2012年9月2日、ハニーヤはハマース支配下のガザ政府で内閣改造を行い、財務相を含む7人の新任閣僚を任命した。ハニーヤはこの改造を「通常手続き」と説明したが、他派閥や無所属からの新閣僚は加わらなかった[89][90]。この人事をハマース議員だけが出席する「立法評議会」に支持させた[89]。2007年のハマースによるガザ武力制圧後、パレスチナ立法評議会は通常の全国議会としては機能停止状態となり、2007年の西岸・ガザ分裂以降、通常会期を開いていないが、ハマース会派はガザ地区で独自に「立法評議会」と称して会合を続けていた[91]。
統一政府発足後
2014年、ハマースとファタハの和解合意に基づき、同年6月2日にパレスチナ統一政府が発足した。首相にはハニーヤではなく、アッバース大統領が任命したラーミー・ハムダッラーが就任した[92][93]。
以降ハニーヤは首相を主張するのはやめたが、引き続きガザにおけるハマース有力幹部として影響力を維持した[94]。
統一政府発足後もハマースの武装活動は止まらず、同年6月から7月初旬にかけてガザ地区からイスラエル南部へのロケット・迫撃砲攻撃が増加した。これを受けてイスラエル軍は、7月8日からハマースなどガザ地区のテロ組織を対象とする「防護の刃作戦」を開始した[95]。7月29日にはガザ地区のハニーヤの自宅がイスラエル軍の空爆を受けているが、死傷者はなかった[96]。
また、統一政府発足後も、ハマースがガザ地区の実効支配を維持し、統一政府の権限が同地に及ばなかったため、統一政府は事実上破綻した。2015年6月17日にハムダッラー内閣は辞任し、アッバース大統領はハムダッラーに新政府の組閣を命じた[97]。その後の再組閣は、ハマースとの統一政府の再建ではなく、統一政府がガザで機能しない中で行われた暫定的な内閣改造であった。ハマースはこの改造を「ファタハ国民政府」に変えるものだと非難した[98][99]。
2015年10月、ハニーヤはガザでの説教で、エルサレムとヨルダン川西岸地区でのテロを「インティファーダ」と位置づけて「強化し拡大する」と述べ、ガザは対決の準備ができていると主張した[100]。2016年1月には、ハマース戦闘員7人がトンネル崩落で死亡した後の葬儀では、ハマースはイスラエルとの将来の衝突に備えてトンネル掘削とロケット改良をやめないと述べた[101]。
ハマース政治局長

2017年5月6日、ハニーヤは一般有権者による公的選挙ではなく、選挙運動も公開性もないハマースの非公開内部選出で、ハーリド・マシャアルの後任として政治局長に選出された。AFPは、投票がガザ地区、ヨルダン川西岸地区、域外のシューラー評議会メンバーによるビデオ会議で行われたと報じた[102][103][104]。
アメリカのテロリスト指定
2018年1月31日、アメリカ合衆国国務省はハニーヤを大統領令13224号に基づく特別指定国際テロリストに指定し、米財務省外国資産管理局(OFAC)のSDNリストに掲載した[105]。米国務省はテロリスト指定理由として、ハニーヤがハマースの軍事部門と密接な関係を持ち、民間人に対するものを含む武装闘争を支持してきたこと、イスラエル市民に対するテロ攻撃に関与したこと、またハマースがテロ攻撃で米国人17人を死亡させたことを挙げた[106][107]。この指定により、米国の管轄下にあるハニーヤの資産は凍結され、米国人との取引は禁止された[107]。
2023年10月7日のイスラエルへのテロ攻撃
2023年10月7日、ハマースはイスラエルに対して大規模なテロ攻撃を実行し、多数の民間人を殺害・拉致した。ハニーヤは同日、ハマース系テレビで演説し、この攻撃について「偉大な勝利と明白な征服の瀬戸際にいる」と述べたほか、戦闘はガザ地区からヨルダン川西岸地区とエルサレムにも広がるとの見方を示した[108][109]。
アメリカ司法省はハニーヤの死後の2024年9月3日に、ハニーヤ、ヤヒヤ・シンワル、ムハンマド・デイフ、マルワーン・イーサー、ハーリド・マシャアル、アリー・バラカらハマース幹部6人に対して刑事訴追しており、これらのハマース幹部らが10月7日のテロ攻撃を含むハマースの長年のテロ作戦を計画・支援・実行したと指摘した[110]。同省は、ハマースが10月7日のテロによって約1200人を殺害し、数百人を拉致し、40人以上の米国人も殺害されたと説明した[110]。また、同省は、ハマースのテロ能力はイランのイスラム革命防衛隊・ゴドス軍やヒズボラの支援により支えられており、ハニーヤを含むハマース幹部がイラン体制との関係で重要な役割を果たしていたと指摘している[110]。
2023年パレスチナ・イスラエル戦争
2023年10月7日テロ事件後、ガザ地区で戦争がはじまり、イスラエル軍のハマース幹部斬首作戦も本格化してハマース幹部が続々と死亡していく中、ハニーヤはガザを離れて国外のカタールに拠点をおいて、身の安全と贅沢を享受していた[111][112]。
これについて、イスラエル軍情報局は、ハニーヤを含むハマース幹部は、イラン、カタール、レバノン、トルコなどガザ地区外で活動しているとし、ハニーヤの率いるハマース政治局はカタールの首都ドーハを拠点としていると説明した[111]。
2023年11月上旬、ハニーヤはエジプトを訪問し、ハマースが10月7日テロでイスラエルから拉致した人質を交渉材料とする一時停戦交渉に関与した[113]。11月22日、イスラエル政府は、ハマースが拘束する人質50人の解放と引き換えに4日間の戦闘停止とパレスチナ人治安犯150人の釈放を行う合意を承認した[114]。
一時停止は延長されたが、12月1日にもハマースがイスラエル領内にロケット弾を発射した。これを受けて、イスラエル首相府は、ハマースが全ての女性人質を解放する義務を果たさず、ロケット弾発射によって合意にも違反したと発表し、攻撃を再開した[115]。米国のブリンケン国務長官も、一時停止が終わったのはハマースが約束を反故にし、イスラエルにロケット弾を発射したためだと述べた[116]。
ハニーヤは、2024年1月、ドーハで行われた国際ムスリム学者連合の会合で、10月7日を「勝利」と位置づけてこれを発展させるべきだと述べ、ガザへの寄付は人道支援ではなく「金融ジハード」であると主張した[117]。
2024年4月10日には、イスラエル軍は、ガザ中部でテロ活動に向かっていたハマース軍事工作員3人を空爆で排除したと発表した。この3人はいずれもハニーヤの息子で、アミール・ハニーヤはハマース軍事部門の細胞指揮官、ムハンマド・ハニーヤとハーゼム・ハニーヤはハマースの軍事工作員だったと説明している[118][119]。同じ攻撃では、ハニーヤの孫も死亡したと報じられた[119]。ハニーヤは、息子らを標的にすることでハマースの姿勢を変えられるとイスラエルが考えているなら妄想だと述べた[119]。
2024年5月20日、国際刑事裁判所(ICC)のカリム・カーン主任検察官は、ハニーヤについて逮捕状を請求したと発表した。カーンは、ハニーヤが少なくとも2023年10月7日以降、イスラエル領内およびガザ地区で行われた戦争犯罪および人道に対する罪について刑事責任を負う合理的根拠があるとし、容疑として絶滅、殺人、人質拘束、強姦その他の性暴力、拷問、非人道的行為、残虐な取扱い、個人の尊厳への侵害を挙げた[12]。
同年6月25日、ガザ当局は、ガザ北部シャーティー難民キャンプのハニーヤ家の家屋がイスラエル軍の空爆を受け、ハニーヤの親族10人が死亡したと主張したが、イスラエル軍はAFPの取材に対し、報告は認識しているが、確認はできないとしている[120]。
最期

ハニーヤは通常カタールを拠点としていたが、2024年7月にはイラン新大統領マスウード・ペゼシュキヤーンの就任式に出席するためにイラン・テヘランを訪問した。これが彼の命取りとなった。イスラエルは、カタール政府に同国内でハニーヤを攻撃しないと約束していたため、カタールにいる限りは安全だったが、イラン訪問によって攻撃する機会が生まれたと分析されている[121]。
ハニーヤは2024年7月30日、イランの新大統領ペゼシュキヤーンの就任式に出席し、同日、最高指導者アリー・ハーメネイーとも会談した。その後、テヘラン北部のイスラム革命防衛隊の迎賓館施設に入ったが、翌31日午前2時ごろに同所で攻撃を受け、護衛1人とともに死亡した[122][123]。
イスラム革命防衛隊は、8月3日の声明の中で、ハニーヤは、建物外から発射された約7キログラムの弾頭を持つ短距離飛翔体により殺害されたと主張し、この攻撃はイスラエルによって計画・実行され、米国の支援を受けたものだとし、報復攻撃を示唆した[124][125]。
ハーメネイーも、ハニーヤの「血の復讐」はイランの義務と位置づけて報復を示唆した[126][127]。
イスラエル政府は事件後、ハニーヤへの攻撃への関与について、肯定も否定もしていない。しかし、同年12月23日、イスラエルのイスラエル・カッツ国防相は、フーシ派への警告の中で、イスラエルはハマースとヒズボラを打ち破り、イランの防空システムを無力化し、兵器生産体制に損害を与え、シリアのアサド体制を崩壊させ、「悪の枢軸」に重大な打撃を与えてきたと述べたうえで、「ハニーヤ、シンワル、ナスララに対してテヘラン、ガザ、レバノンで行ったのと同じことを、フダイダとサヌアでも行う」という発言を行っている[128][129]。
米国は2024年9月に2023年10月7日テロをめぐる訴追でハニーヤを被告の一人として訴追していたが、この段階ですでにハニーヤは死亡していたので、訴追公表の際に被告6人のうち一部は死亡済みであると説明されている[110][130]。