Wikiwand AI

イナボレス

From Wikipedia, the free encyclopedia

イナボレス
品種 サラブレッド系種
性別 牡
毛色 栗毛
生誕 1969年5月30日
父 ヘリオス
母 ボーレスクイン
母の父 カバーラップ二世
生国 日本の旗 日本
北海道静内郡静内町
生産者 長尾力吉
馬主 稲富稜人
(有)イナトミ
調教師 大久保末吉(東京)
競走成績
生涯成績 76戦8勝
獲得賞金 1億5764万4000円
勝ち鞍 オールカマー(1972年)
金杯(東)(1974年)
目黒記念(秋)(1974年)
愛知杯(1975年)
テンプレートを表示

イナボレス(1969年5月30日 - ?)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・誘導馬。「花の47年組」の一頭で、中央競馬重賞最多出走記録保持馬[1]。

別名「走る労働者」。

馬齢は2000年以前に使用されていた旧表記(数え年)を用いる。

戦績

純粋なサラブレッドではなく、サラブレッド系種(サラ系)である。

父のヘリオスは重賞4勝(1960年・1961年京都記念 (秋)、1960年京都盃、1961年阪神大賞典)を挙げ、1960年と1961年には2年連続で最良スプリンターに選出されたハイペリオン系のサラブレッドであったが、母のボーレスクインの母系を辿っていくと、曾祖母の父に初代ハクシヨウがおり、最後には江戸幕府第13代将軍・徳川家茂にフランス皇帝・ナポレオン3世が贈ったアングロアラブの高砂に辿り着く。この一族のイナボレス以外の代表馬には、1956年から1958年にかけて鳴尾記念を3連覇したセカイオーがいる。

抽選馬であったが、当時民社党所属の衆議院議員であった稲富稜人がオーナーとなり、東京・大久保末吉[2]厩舎に入厩。

1971年(3歳)8月に中山芝1000mの新馬戦でデビューし、2着に終わったが、2週間後の未勝利戦では1番人気に推されて初勝利を挙げる。

その後は勝星を挙げることこそ出来なかったが、2着2回を含めて掲示板を一度も外さなかった。最終戦の寒菊賞(100万下)ではイシノヒカルの5着に敗れるが、この時期には堅実さと頑丈さを見せていた。

1972年(4歳)は5月に始動して条件戦を使いまくり、クローバー賞(200万下)[3]と鹿島灘特別(400万下)を制し、10月に東京で行われたオールカマーに出走。700万条件の身であったため11頭中9番人気の低評価であったが、ハクホオショウ・オンワードガイら有力馬を抑えて勝利し、デビュー17戦目にして重賞初挑戦・初制覇となった。オールカマーで手にした賞金1000万円は稲富の選挙資金に大いに活用され、稲富は12月に行われた衆院選で当選を果たした。その後はカブトヤマ記念7着、愛知杯・CBC賞4着であった。

1973年(5歳)は始動戦の金杯 (東)6着を皮切りに10連敗を喫し、掲示板に載ったのも金鯱賞・京王杯AH5着の2戦だけと散々なものであった。10月の府中特別(700万下)で1番人気に応え、2着に4馬身差をつける快勝で連敗を脱出し、1年ぶりの勝利でシーズン全敗を阻止。

1974年(6歳)は前年同様で金杯から始動し、前年の不振もあって17頭中12番人気であったが、クビ差で勝利して2年ぶりの重賞2勝目を飾った。続く東京新聞杯は11着に大敗したが、その後は安定して掲示板に載り続け、6月には大井で行われた第1回中央招待に出走。当日は7万6000人のファンがスタンドに詰めかけ、締め切りを過ぎても馬券の発売を求める人々が列をなし、発走が35分も遅れた。レースではゴールドイーグル(愛知)の2着に入り、中央馬最先着となった。

その後は種子骨直靭帯を痛め、そのまま函館に入厩。球節と蹄冠部の間、本来なら窪みのある部分が丸太のように丸く硬くなっていたが、イナボレスは函館で湿布療法を受ける[4]。この療法は鍋に湿布を2キャップ、塩を片手に一杯、水を3、4升を入れて電気コンロにかけて温め、それにバスタオルを浸して焚き、バスタオルをしっかり絞って患部に巻くというものであった[4]。イナボレスは朝の調教後に20分ずつ2回湿布して、乾いてから腫れを前に出すように包帯をきっちり巻き、こうした治療を繰り返しながら、現役を続行。ファンの目からは酷使されていると映り、可哀想にといった同情もあって「オイボレス」と呼ばれたりもした[4]。

11月の目黒記念 (秋)ではカミノテシオ・スガノホマレ・イチフジイサミら強力馬を抑え、重賞3勝目を挙げた。イナボレスが2重賞を制した同年に大久保厩舎は年間43勝を挙げ、最多勝利調教師となった。

1975年(7歳)はダートのオープン戦2着と上々の滑り出しを見せ、アルゼンチン共和国杯3着の後、第16回宝塚記念では4番人気でナオキの4着と健闘。夏は北海道シリーズに初めて参戦し、大雪ハンデ8着・巴賞7着の後、函館記念でツキサムホマレ・ウラカワチェリーの3着に入る。連覇を狙った目黒記念では13頭中11番人気ながらトウコウエルザ・イチフジイサミ・カミノテシオに先んじる3着に入ったが、続く天皇賞(秋)は12着と大敗するも、シーズン最終戦の愛知杯で6番人気ながら1馬身半離して重賞4勝目を挙げ、13戦目での勝利で結局これが最後の勝利となった。

1976年(8歳)は衆議院が任期満了で総選挙が決まっていたため、選挙資金が必要なため現役を続行。金杯から始動し、2・3週間に1走という例年以上の超ハイペースで出走を続け、春秋天皇賞や安田記念・高松宮杯にも出走。稲富はこの選挙も当選し、10期目を務めることになった。選挙終了後の愛知杯5着がラストランとなり、同年をもって現役を引退。

引退後

本来なら種牡馬になれる成績だが、サラ系という血統面での大きなハンデを背負っていたために断念。栗毛の四白流星[4]という美しい馬体を活かし、東京競馬場の誘導馬として1980年代後半まで活動していたが、その後は不明。

競走成績

血統表

参考文献

脚注

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks