イバイ (ヘシェリ氏)

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イバイ(満文:ᡳᠪᠠᡳ, 転写:ibai, 漢文:伊拜[1]、宜拜[2])は、ジャイグ地方ヘシェリ氏。ドゥインゲ地方ヘシェリ氏ソニン康熙朝四大臣の一)や、ホド・ムハリャン地方ヘシェリ氏のフリブらとは血族にあたり、太宗ホンタイジの明征討や李自成討伐、南明の永暦帝討伐といった清初の主要な戦役で活躍した。

遷蒙古旗

初期には正藍満州旗のニルイ・エジェンを務めた。(ニルの詳細については後述。)[3]

天命11年 (1626) 旧暦11月、チャハル部ベイレの圖爾濟が一族を率いて清朝に帰順したことに伴い、イバイらは太宗ホンタイジの命を受けて同ベイレを迎接した。[4]天聡8年 (1634) 旧暦5月、ホンタイジの明朝親征に際し、[5]イバイらは兵卒召集の勅書を携え[1]ホルチン部に派遣された。[6]一部の首領が独立を宣言し離叛するという混乱を挟んだものの、[7]翌6月にはホルチン兵が清軍に合流し、[8]イバイは半個前程ホントホ・ニルイ・ジャンギン (後のトゥワシャラ・ハファン:雲騎尉[9]) の世襲職に叙勲された。[1]翌9年 (1635) 旧暦2月にはハラチン部壮丁の編隊が行われ、イバイは正白蒙古モンゴ旗のグサイ・エジェン (後の都統)[10]に任命された。[11]

入辺越関

崇徳元年 (1636)、武英郡王・阿濟格アジゲ征討に随って長城を越え、昌平州 (現北京市昌平区) をはじめとする州・県を攻略した。[1]俘虜を多数獲得するなど功績をあげたが、同年旧暦11月、戦闘時および撤収時の統率が徹底されていなかったとして罰金を課された。[1][12]

同3年 (1638) 旧暦9月、睿親王ドルゴンに随って青山関 (河北省唐山市遷西県上営鎮青山口村) から辺境を越え、北京を通過して山東を制圧した。[1]翌4年 (1639) 旧暦4月には再び軍律違反を問われ、凱旋時に三屯営不詳を通過した折り、軍糧の調達に向かった佐領ニルイ・ジャンギン喇巴希が敵襲に遭っていることを知りながら救援に向かわなかったとして、馬一頭の賠償を命じられ、またイバイの家僕と秣まぐさを囲って掴み合いの喧嘩をしていた喀喇車里克カラチェリク部落の杜爾麻に鏑矢を都合14発浴びせ、騾馬をとらせて口封じさせたとして、罰金とさらに馬一頭の賠償を命じられた。[1][13]騾馬は没収された。[13]

錦州包囲

崇徳5年 (1640)、清軍は錦州城 (現遼寧省錦州市一帯?) を包囲した。イバイはドルゴンに随い正白旗蒙古モンゴ兵を率いて杏山 (現遼寧省錦州市太和区杏山?) の敵騎兵を撃つと、続いて松山 (現遼寧省錦州市太和区松山街道?) の騎歩兵を破り、再び襲来した杏山の敵騎兵を迎撃して多数を斬伐、捕縛した。また包囲を突破した錦州城の敵兵を左翼軍とともに破った。[1][14]

翌6年 (1641) 旧暦8月、鄭親王ジルガランに随い再び錦州を包囲し、山頂の歩兵、続けて城下で抗戦する騎兵を立て続けに打ち破り、叙勲されてニルイ・ジャンギン (後のバイタラブレ・ハファン:騎都尉)[15]に昇格した。[1][16]

この時、明総督・洪承疇は松山に130,000の大軍を駐屯させ、錦州救援を計画していた。ホンタイジは親ら軍を率いて松山・杏山間に隊列を整えさせると、遁走する敵兵を迎撃するべく各要隘に将軍を配置し、[1]イバイは杏山に逃げ込む敵兵の迎撃を命ぜられた。[17]夜になると果たして松山から落ちのびてきた敵兵が姿を現し、[14]イバイらは塔山まで追い詰めて斬伐した。[1]翌早朝、杏山から南、海沿いに塔山へ至る一路は、海に逃げ込み溺れ死んだ敵兵で埋め尽くされた。[17]

同年旧暦9月、イバイはメイレンイ・ジャンギン (後の副都統)[18]譚拜らと松山包囲を命じられ、[19]そして翌7年 (1642)、洪承疇が松山で捕縛され、明総兵・祖大壽が投降して錦州が陥落すると、[1]同年旧暦3月には杏山駐屯を命じられた。[20]同年旧暦7月、錦州包囲時に敵が鑲黄旗の塹壕を襲撃した際、抗戦しなかった兵士を庇ったとして罰金が課せられた。[1][21]この頃の清軍は軍紀が厳格で、過失のあった将兵には懲罰が課せられた。[22]崇徳8年 (1643) 旧暦8月にホンタイジが崩御し、同年旧暦10月、イバイは錦州防衛に転任した。[23]

伐李自成

順治元年 (1644)、正藍蒙古モンゴ旗に転属となり、グサイ・エジェンとして山海関を越えて首魁・李自成の率いる流賊軍を破った。[1]ついでグサイ・エジェン葉臣らと山西の流賊200,000[2]を討伐して太原府 (現山西省太原市) 城を包囲し、[1]敵兵が包囲を突破して応戦すると、イバイはグサイ・エジェン巴哈納らとともに敵兵を撃ち、敵将・陳永福を降して[14]府城を陥落させ、附近の郡邑、11府32州171県[2]を降伏させた。[1]凱旋後、褒賞として白金300両テールが下賜された。[1][24]

翌2年 (1645)、英親王・阿濟格アジゲの陝西征討に従軍。楡林 (現陝西省楡林市) に進軍して綏徳 (現楡林市綏徳県) を撃ち、李自成の甥 (兄の子)・李錦延安府 (現陝西省延安市一帯) で破った。[14]其頃、潼関 (現陝西省渭南市潼関県) で流賊を破った豫親王・多鐸ドドにより西安が制圧された為、李自成は湖広方面に南走した。イバイもこれを追って南下し、武昌 (現湖北省南東部) まで追撃して流賊陣営を潰滅させた。[14]李自成は九宮山 (現湖北省咸寧市通山県) で殺害され、李錦とその徒党は弘光帝の大学士・何騰蛟に投降した。[14]翌3年 (1646) 旧暦4月、イバイは叙勲により三等ジャランイ・ジャンギン (後のアダハ・ハファン:輕車都尉) に昇格した。[25]

伐明桂王

順治5年 (1648)、鄭親王ジルガランに随い、湖南の何騰蛟を征討した。このころ衡州府 (現湖南省衡陽市)・宝慶府 (現湖南省邵陽市) など諸府は南明桂王・朱由榔 (永暦帝) 軍の支配下にあった。[1][14]

翌6年 (1649) 春、清軍は湘潭 (現湖南省湘潭市湘潭県) を攻略して何騰蛟を捕縛した。[14]イバイはグサイ・エジェン佟圖賴らと兵をわけて衡州に向かった。[1]衡州の府城から30里の地点まで至ると、南明兵1,000餘人が橋梁を占拠して幾重にも柵を囲らし、南に向かって要塞を列ねていた。[14]敵兵を撃ちながら橋を奪取したイバイらは城下に至ると、南明総兵・陶養用を斬伐し、衡州府城を制圧した。[1][14]同じ頃、別の支隊も宝慶、辰州・武岡・沅州・靖州をそれぞれ制圧した。[1]順治7年 (1650) 旧暦4月、凱旋したイバイは白金300両を下賜された。[26]

死去

順治8年 (1651) 閏2月、老齢を理由にグサイ・エジェン職を辞任。[27]順治9年 (1652) 旧暦1月、三等アスハニ・ハファン (後の男爵)[28]に昇格 (叙爵)。[1][29]同年9月、議政大臣に任命。[30]

順治15年 (1658) 旧暦5月、死去、葬送。[31]翌6月、称号「太子太保」と諡号「勤直」を追贈。[32]その業績は石碑に篆刻された。[33]

族譜

* 以下の系図は基本的に『八旗滿洲氏族通譜』巻9に拠り、その外の文献に拠ったところ、及び特記事項にのみ脚註を附した。尚、丸括弧 ( ) 内の人名は、漢文表記は同巻漢文版に、満洲語の転写表記は同巻満文版に拠った。なお、一部構成員については文献に因ってイバイ (宜拜ibai) とクルチャン (庫爾禪kūrcan) の子孫が混乱している。(「ニル」参照。)

バイスハ (拜思哈baisha)

  • 長子・イバリ (宜巴理ibari)
  • 次子・イバイ (宜拜ibai)
    • 孫・トゥルテイ (圖爾特turtei):イバイ子。礼部侍郎兼佐領。
    • 不詳
      • 曾孫父不詳・スイハダ (遂哈達suihada):イバイ孫 (ギュホト兄[3])。
        • 玄孫・ジュンハイ (忠海junghai):スイハダ子。
        • 玄孫・マンフ (滿福manfu):ジュンハイ弟。佐領。
      • 曾孫父不詳・ギュホト (覺和托giyuhoto):イバイ孫 (トゥルテイ弟の子[3])。佐領。
        • 玄孫不詳
          • 来孫父不詳・ハイリャン (海量hailiyang):イバイ玄孫。ビトヘシ
    • 孫・フィヤング[注 1]:イバイ第三子。
  • 三子不詳
  • 四子・クルチャン (庫爾禪kūrcan)
    • 孫・フボォセ (佛寳色fuboose):クルチャン子 (トゥルテイ弟[3])。
      • 曾孫・フヮセ (花色hūwase):クルチャン孫 (フボォセ子?[3])。
    • 孫・スヘ (蘇赫suhe):クルチャン子。
      • 曾孫不詳・シギャボォ(釋迦保šigiyabo):クルチャン孫。
        • 玄孫・フンガイ (豐愛funggai):シギャボォ子 (フカの弟[3])。
    • 不詳
      • 曾孫父不詳・フカ (富喀fuka):クルチャン曾孫 (フヮセの叔父の子[3])。
      • 曾孫不詳
        • 玄孫父不詳・永在 (ユンザイyungdzai):クルチャン玄孫 (フンガイ兄不詳の子[3])。
          • 来孫・伊林泰:永在ユンザイ子。[3]

ニル

欽定八旗通志の説

『欽定八旗通志』巻15[3]に拠れば、イバイが統轄した第5ジャラン所属第9ニルは、ヌルハチ建国 (後金アイシン・グルン) 初期にイェヘ地方の壮丁を以て編成され、始めはイバイの兄・伊巴禮イバリが管理した。その後、イバリが包衣昂邦ボーイ・アンバン(内務府総管) に昇任した為、叔父・貝托和がその管理を引き継いだ。しかし貝托和は何らかの咎めを受けて辞任した為、そこでイバリの次弟イバイと四弟クルチャンが半々で管理した。

イバイがグサイ・エジェンに昇任すると、ニルは統合されて四弟クルチャンの所轄となったが、クルチャンが従軍先で病逝した為、結局イバイが引き継ぐことになった。

イバイ歿後、子の圖爾泰トゥルテイ(侍郎)[注 2]が引き継ぎ、トゥルテイの歿後はその甥 (弟の子) ギュホトが引き継いだ。ギュホトはその後譴責を受けて辞任し、ついでその兄・綏哈達スイハダ(アスハニ・ハファン)[注 3]が引き継いだ。スイハダは老齢により辞任し、子・鍾海ジュンハイ(三等アダハ・ハファン兼御史)[注 4]が引き継いだ。ジュンハイが引責辞任すると、弟・滿福マンフ(三等アダハ・ハファン) が引き継いだ。しかしマンフも引責辞任した為、海青不詳が引き継いだ。海青の歿後、富明阿不詳が引き継いだが、引責辞任し、定住不詳が引き継ぎ、定住の歿後は富爾松阿不詳が引き継いだ。

イバイ子トゥルテイがニルイ・ジャンギンを務めていた康熙6年、第9ニルの人口が殖えたことにより第10ニルが分編され、トゥルテイ弟・佛寳色フォボセが管轄を命じられた。フォボセの歿後は子・花色フヮセが引き継いだ。フヮセは譴責されて辞任し、従兄弟 (叔父の子) 富喀フカが引き継いだ。フカも引責辞任し、その弟・豐愛フンガイが引き継いだ。フンガイの歿後はその甥 (兄の子) 永在ユンザイが引き継ぎ、ユンザイが病身を理由に辞任したため、その子・伊林泰が引き継いだ。

八旗滿洲氏族通譜の説

『八旗滿洲氏族通譜』巻9[34]の記載は『欽定八旗通志』の記載と大体に於いて同じいが、ニルの由来については、イバイの父バイスハがヌルハチのイェヘ征討であげた功績によりイバリが副将に叙勲され、内務府総管、議政大臣、班預16大臣と出世した末に、漢人1,000餘名をもってニルを編成させ、それを統轄するニルイ・エジェンに任命されたとしている。また、第10ニルの管轄を命じられたフォボセについてはクルチャンの子としている。[注 5]

清史稿の説

上記に対し、『清史稿』巻241[注 6]では、父バイスハがヌルハチに帰順した際にニルイ・エジェンに任命され、八旗制度が整備されたのちに正藍満州旗に隷属となり、歿後、イバリ、イバイ、クルチャンの三人が分轄したとある。なお、同じ『欽定八旗通志』でも巻176[1]の記載は巻15の記載とは異なり、『清史稿』巻241の記載と同じく、父バイスハのニルを三人で分轄したとしている。

世襲

脚註

文献

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