フリブ (ヘシェリ氏)
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征討明兵
正紅旗人。父・吳巴海ウバハイは太祖ヌルハチがイェヘを討伐したころに帰順した。一族壮丁はニルに編成され、ウバハイはその長官、ニルイ・エジェン(後のニルイ・ジャンギン:佐領)[5]に任命された。父の死後、襲職したフリブは、太宗ホンタイジにより天聡5年 (1631) に一等侍衛ヒヤ、続いてガブシヒヤン・ジャンギン (後の前鋒参領)[6]に任命された。[7]

崇徳3年 (1638)、ベイレ・岳託ヨトの征明に従軍。密雲 (現北京市密雲区) 東北、毀牆子嶺不詳の辺境から侵入し、バヤライ・ジャランイ・ジャンギン (後の護軍参領)[8]魯克都らと明軍歩騎兵を破り、馬や駱駝百餘頭を鹵獲した。[7]
崇徳6年 (1641年)、錦州府(現遼寧省錦州市一帯?)攻撃に従軍。松山城(現遼寧省錦州市太和区松山鎮?)に立て籠る明総督・洪承疇に対し、ガブシヒヤンイ・ガライ・アンバン (後の前鋒統領)[9]勞薩ロサらと塹壕を越え、応戦する敵兵を破り、さらにジャランイ・ジャンギン(後の参領)[10]のトゥンギャ氏シテク[11][12]、布爾遜と杏山 (現遼寧省錦州市太和区杏山?) の敵兵を撃ち、夜闇に紛れて逃亡を図った松山の敵騎兵を海濱沿いで追撃し殲滅した。[注 1]翌7年(1642年)旧暦3月、杏山に駐箚していたフリブらの許へ甯遠より来襲した敵騎兵4,000餘りが、清軍の装備をみて逃げ出したため、ガブシヒヤンイ・ガライ・アンバン[9]努山と連山(現遼寧省葫芦島市連山区?)まで追撃し、ついで沙河から甯遠へ逃亡を図る敵兵500を擊った。[7]
同年旧暦10月、アバタイの征明に従軍。シテクとともに右翼軍に随って長城を踰え、これに続いて大軍も黄崖口(現天津市薊州区?)より長城を突破した。明総兵・白騰蛟と白広恩は兵を併せ数千人規模で迎撃したが、清軍はこれをも突破し、フリブは薊州から戦捷を奏上した。翌8年(1643年)旧暦4月、征明軍の帰還にさきがけ、努山、シテク、ジャランイ・ジャンギン[10]瑚沙羅寶らとともに兵90を率いて界嶺口(現河北省秦皇島市撫寧区?)の偵察に向かい、明兵を大量に捕縛、斬殺した。[7]
伐李自成
順治元年(1644年)冬、英親王・阿濟格アジゲに李自成討伐の命が降ると、フリブも正紅旗の前鋒兵を率いて従軍し、陝西省に赴いた。翌2年(1645年)、綏徳州(現陝西省楡林市綏徳県)に至ったところを李自成軍に襲撃され、馬数十匹が掠奪された。フリブは嶺まで追撃して流賊を撃ち、馬を奪還したが、しばらくして李自成が湖広に南走した。清軍は李自成を追って安陸府 (現湖北省荊門市一帯) を攻略し、フリブは敵の戦艦を奪取して九宮山(現湖北省咸寧市通山県)まで至り、五戦五勝を収めた。凱旋後、武勲により半箇牛彔章京ホントホ・ニルイ・ジャンギン(後のトゥワシャラ・ハファン[15]) の世襲職を賜わった。[7]

順治3年(1646年)、粛親王ホーゲの張献忠征討に従軍。反清に転じ蜂起した賀珍の兵を漢中(現陝西省漢中市)で破り、西充県(現四川省南充市西充県)に迫ったところで、ジャランイ・ジャンギン[10]席卜臣とともに前鋒40人を率い、檄文を携えて先行した。迎撃に出た流賊の騎兵に突撃して30餘りの首級をあげ、二人の俘虜を得ると、続いて張献忠の陣営に迫り執蠹者を討ち取った。清軍はそのまま前進し、戦闘の末に張献忠を殺害した。フリブはまたグサイ・エジェン(後の都統)[16]準塔とともに遵義府(現貴州省遵義市一帯)征討に向かい、璧山県(現重慶直轄市璧山区)でも数千の流賊兵を斬伐した。[7]
順治6年(1649年)、鄭親王ジルガラン、順承郡王・勒克徳渾の湖南征討に従軍。湘潭(現湖南省湘潭市湘潭県)を包囲し、衡州府(現湖南省衡陽市一帯)、道州(現湖南省永州市一帯)、全州(現広西壮族自治区桂林市全州県)で多数の敵兵を捕縛、斬伐した。翌7年(1650年)旧暦9月、二度の恩賞で三等アダハ・ハファン (後の輕車都尉)[17][注 2]に昇格し、同10年(1653年)には正紅旗メイレンイ・ジャンギン(後の副都統)[18]に昇任、[注 3]同13年 (1656) には右翼ガブシヒヤンイ・ガライ・アンバン[9]に転任[2]した。[7]
伐明桂王
順治15年(1658年)、信郡王・多尼の貴州征討に従軍。翌16年(1659年)、清軍が雲南を陥落させると、南明桂王 (永暦帝) 朱由榔と統帥・李定国、白文選らはタウングー王朝緬甸(現ミャンマー聯邦共和国)方面へ[20]逃亡した。フリブは左翼ガブシヒヤンイ・ガライ・アンバン[9]白爾赫圖とともに永昌(現雲南省保山市?)に出兵し、潞江を渡って磨盤山で南明軍と交戦の末、騰越州 (現雲南省保山市騰衡市) を陥落させて南甸に迫った。しかし凱旋後、グサイ・エジェン[16]沙里布が磨盤山で伏兵に襲撃されたのを救援できなかったとして叙勲がみおくられ、現状維持とされた。その後、康熙12年(1673年)旧暦5月、聖祖康熙帝はフリブの活躍を嘉し、太子少師の称号を賜った。[7]
伐呉三桂

康熙12年(1673年)旧暦12月、呉三桂が叛乱(三藩の乱)すると、都統[16]赫葉が安西将軍[注 4]に任命され、フリブは護軍統領から副将軍に抜擢された。フリブらは禁軍を率いて西安に向かい、駐防将軍・瓦爾喀と合流して征討に出た。[7]
翌13年(1674年)正月、康熙帝は四川が滇黔(雲南と貴州)と隣接していることから、叛乱軍の煽動を懸念し、フリブと前鋒統領[9]穆佔に精鋭部隊を編成させ、四川へ転向させた。同年旧暦3月、漢中で落ち合った両軍は、陽平関(現陝西省漢中市勉県?)を占拠する敵軍を破り、勢いそのままに七盤(現巴中市巴州区北西部)、朝天(現広元市朝天区)の二関で敵軍を撃破し、大量の敵兵を捕縛、斬殺した。続いて保寧府(現四川省北東部)に進軍したが、敵将・呉之茂[注 5]は多勢を以て抗戦し、清軍は塹壕を掘って対峙し、そのまま半年が経った。康熙帝はベイレ洞鄂を定西大将軍に任命して保寧征討を命じ、フリブは軍務参賛 (将軍補佐)[21]に任命された。[7]
同年旧暦11月、提督・王輔臣が寧羌州(現陝西省漢中市寧強県)で叛乱し、呉三桂側に寝返った。康熙帝は要地防衛のため、保寧で睨み合いを続けていた兵を撤収させ、時を同じくして赫業らとともに漢中に引き返したフリブは、ついで洞鄂に随い西安に戻った。翌14年 (1675年)、敵軍により平涼(現甘粛省平涼市)と秦州(現甘粛省天水市秦州区?)が占拠されると、フリブは洞鄂とともに秦州城を包囲し、旧暦4月に失地を恢復した。軍は平涼城から数里の地点に駐箚したが、蜀 (四川) の敵軍と策応した王輔臣軍の前に、接近できないまま徒に年月を費やした。[7]
順治15年(1676年)、康熙帝は膠着状態を打開するため大学士・圖海を洞鄂に代えて撫遠大将軍に任命し、フリブの参賛の職は解かれた。翌16年(1677年)、従軍先で死没。子・剛元が三等輕車都尉を承襲した。[7]