ビッグ・ウォルター・ホートン

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原語名 Big Walter Horton
出生名 Walter Horton
別名
  • シェイキー・ホートン
  • マンブルズ・ホートン[1][2]
  • タングル・アイ
  • シェイキー・ヘッド
  • マンブルズ
ビッグ・ウォルター・ホートン
ホートン
基本情報
原語名 Big Walter Horton
出生名 Walter Horton
別名
  • シェイキー・ホートン
  • マンブルズ・ホートン[1][2]
  • タングル・アイ
  • シェイキー・ヘッド
  • マンブルズ
生誕
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州メンフィス
死没
ジャンル ブルース
職業
  • ミュージシャン
  • 歌手
担当楽器 ハーモニカ
活動期間 1930年代後半 - 1980年
レーベル

ビッグ・ウォルター・ホートン1921年4月6日[4]1981年12月8日)はアメリカ合衆国ブルースハーモニカ奏者、歌手である。ビッグ・ウォルターシェイキー・ホートンなどの名前でも知られている。ホートンは物静かで控えめ、内気だったが、ブルースの歴史上最も優れたハーモニカ奏者の一人として記憶されている[1]ウィリー・ディクスンは彼のことを「私が聴いた中で最高のハーモニカ奏者だ」とコメントしている[1]

音楽ライターのロバート・パーマーは、ホートンを「モダン・ブルースの3大ハーモニカ・ソロイストの一人であり、あとの2名はリトル・ウォルターサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIだ」としている[5]

ハーモニカをプレイする際に頭を揺らしたこと、眼球振盪を患っていたことからシェイキー(揺れる)、タングル・アイ(絡まった目)などのニックネームでも呼ばれた[6][7]。ホートンは個性的なタング・ブロック奏法(ハーモニカの穴を舌で押さえながら吹く奏法)とトーンで知られた[2][7]

1920年代

ホートンは、1921年4月6日、父アルバート・ホートン、母エマ・マクネア・ホートンの間にミシシッピ州ホーンレイクにて生を受けた[8]

彼自身は、生前1917年生まれであると語っており、また1918年生まれと記載された資料も多い。しかしながら、その後ジム・オニールが発見した出生証明書は、彼の生年月日を1921年4月6日と記載していたことから、正しくは1921年生まれと考えるべきである[9][6]

ホートンは、5歳になった頃に父親から贈られたことをきっかけに[1]ハーモニカをプレイするようになった[2][7]。彼は7歳で学校を中退[6]。十代になったばかりの頃、両親と共にメンフィスに移住している[1]。彼自身は、1920年代後半頃のメンフィス・ジャグ・バンドとのレコーディングが初めてのレコーディングであると主張していたが[1]、そのような記録は残っていない。ディクソンとゴッドリッチ制作のリストでは1927年6月9日にメンフィス・ジャグ・バンドがレコーディングした2曲におけるハーモニカ奏者がShakey Walterとなっているが、これがホートンであるかは定かでない[10]。仮に彼だとすると当時6歳。メンフィスに移住する前でもあり、考えにくい。ホートンの作り話であろうとされている[9][11]

1930年代

1930年代に彼はミシシッピ・デルタの様々なブルースの演奏者たちとプレイをしている[2]。ホートンは、この頃には既にチップなどを稼ぐために街頭で演奏するようになっていた。幼なじみのジョニー・シャインズは次のように語っている。「私は1930年にウォルターに出会いました。彼はポーチに座りブリキ缶に向けてブロウしていましたよ。そうやると音が響きますからね[12]。」

ホートンは1938年に一旦シカゴに移住しており、そのとき初めてハーモニカをアンプを通してプレイしたとされる[13]。間もなくメンフィスに戻った彼が最初にレコーディングをしたのは、翌1939年のメンフィスであった。彼はこのとき、ギタリストのリトル・バディ・ドイルのオーケー・レコードおよびヴォカリオン・レコード向けのレコーディングでバッキングを務めている[1][14]。これらのレコーディングは、スリーピー・ジョン・エスティスと彼のハーモニカ奏者ハミー・ニクソンなどが広めたアコースティックのデュエット形式であった。ハミー・ニクソンら当時のハーモニカ奏者の演奏を聴けば、ホートンが彼らの演奏に強く影響を受けていることを窺い知ることができる。このレコーディングにおいては、ホートン独自のスタイルはまだ完全には現れていないが、その後の彼の演奏の展開を感じさせるものである。

1940年代

ホートンは健康状態が良好でなかったことから[13](結核に侵されていた可能性がある) 、ハーモニカの演奏で生計を立てることを断念し、1940年代は主に音楽業界から離れたところで働いていた[1]。彼は料理人、アイスクリーム売り、葬儀屋などをして生活をした[12][13]。ホートンはまた1940年代にジェイムズ・コットンリトル・ウォルターと出会い、彼らにハーモニカを教えている[12][15][16]。ホートンの1939年のレコーディングと1950年のレコーディングのスタイルの変化を考えると、この時期に自身の音楽的スキルを磨いた可能性が高い。1945年、または1946年にホートンにクリスティンという名の娘が生まれており、出生年は不明だがその他5人の子供が生まれている[17][18]。ホートンは1948年に再び演奏するようになった[13]

1950年代

ホートンは、彼は1951年、ジョー・ヒル・ルイスと複数回レコーディングを行ない、レコーディングにも復帰した。そのセッションの中から、「Little Boy Blue」/「Now Tell Me Baby」が同年モダン・レコードからマンブルズ名義でシングル・リリースとなっており、これは彼のリーダー作としてはデビューとなるものである[19][10]

彼はエディ・テイラーに誘われ、1952年にジミー・リードのバンドに参加するためにシカゴに移住している。同地に到着して2週間が過ぎた頃、彼はジュニア・ウェルズの後任としてマディ・ウォーターズのバンドに加入するよう誘われている。ウェルズが1952年の末に徴兵されてバンドを抜ける必要があったためである。ホートンはウォーターズのバンドに暫く在籍。1953年1月のレコーディング・セッションにも参加した[1]。しかしながら、彼は1953年の末までにウォーターズのバンドを解雇され、ヘンリー・"ポット"・ストロングが後任となっているが[20][21]、これは彼の飲酒癖、あるいは信頼性の低さが原因であった可能性が高いとされる[22][1][13]

この頃、ホートンは彼と同様シカゴ界隈に移住していたメンフィスやデルタ出身のミュージシャンと共にシカゴのブルースのシーンで演奏した。その中にはギタリストのエディ・テイラーやジョニー・シャインズがいた[1]

ウォーターズのバンドを抜けてからホートンは一時的にメンフィスに戻り、サム・フィリップスの下、サン・スタジオで再びレコーディングをしている。彼はメンフィスのサン・レコードでフィリップスによってレコーディングされた最初のアーティストの一人であった。サンのレコーディングでは後にジャズ・ピアニストとして成功する若きフィニアス・ニューボーンが彼のバックを付けている。この時期にレコーディングされたホートンのインストゥルメンタル曲「Easy」はアイヴォリー・ジョー・ハンターの「I Almost Lost My Mind」の旋律をハーモニカでプレイしたものである[23][10]

ホートンは1954年にはシカゴに戻っており、以後1981年に亡くなるまでここを拠点としている。1956年には、彼はジミー・ロジャーズと共にチェス・レコードに「Walking By Myself」をレコーディングした。この曲におけるソロを彼のベスト・レコーディングとする声も多い[24]。同年、彼はコブラ・レコードで自己名義のシングルをリリース。また「I Can't Quit You Baby」など、同レーベルのオーティス・ラッシュのレコーディングにも参加している[9]

1960年代

ブルースは白人の聴衆に人気を博すようになったため、1960年代を通じて、ホートンはシカゴのブルース・シーンで活躍した。1960年代以降、彼はテイラー、シャインズ、ジョニー・ヤング、サニーランド・スリムウィリー・ディクスン、その他大勢のサイドマンとして頻繁にレコーディングとパフォーマンスを行なっている[1]。1964年には、ホートンは初のソロ・アルバム『The Soul Of Blues Harmonica』をリリースした[9]

1968年10月、イギリスのツアー中にホートンは元サヴォイ・ブラウンで後にマイティ・ベイビーのメンバーとなるギタリスト、マーティン・ストーンとアルバム『Southern Comfort』をレコーディングした[10]。1969年には、彼は『Johnny Shines With Big Walter Horton』をレコーディング。ここでは、サード・ポジションを使用した彼のベスト・プレイのいくつか(「Sneakin'」および「Hidin' - Part 2」)を聴くことができる。この他ホートンは、この年、ジョニー・ウィンターJ.B.ハットー・アンド・ザ・ホークスココ・テイラーフリートウッド・マック、J.L.スミスといった人たちとレコーディングを行なった[9]

1970年代

1970年代に入ると、ホートンはドイツ[25]フィンランド[26]イギリスなどをツアーしている。その多くはバックのミュージシャンとして参加しており、彼はしばしばディクスンのシカゴ・オールスターズと共にアメリカやヨーロッパのブルースやフォークのフェスティバルで演奏をした。彼はまたブルースやロックのスターたちのレコーディングにも参加している。

1972年にはキャリー・ベルとの共演作『Big Walter Horton With Carey Bell』をアリゲーター・レコードよりリリース。1977年にはジョニー・ウィンターがプロデューサーを務めたマディ・ウォーターズの『アイム・レディ』にも参加した。同年、自身の作品『Fine Cuts』もレコーディングし、翌年ブラインド・ピッグよりリリースしている[1]

1970年代後半頃、ホートンはツアーで出ていなければ、シカゴのブルース・クラブB.L.U.E.S.の日曜のマチネをホームシック・ジェイムズ、フロイド・ジョーンズ(後にギターからベースに転向)とプレイした。

1980年代

ホートンは、ジョン・リー・フッカーのバンド・メンバーとして1980年の映画『ブルース・ブラザース』に出演した[1]ものの、彼のプレイは最終的にジョー・バーソンによってオーバーダブされた。これは何度もテイクを重ねるという退屈な映画制作の過程に耐えられずに、彼が現場を立ち去ってしまったことによるとされている[27]

ホートンは1980年にアルバム『Little Boy Blue』のレコーディングを行なったが、これが彼の最後のレコーディングとなった[10]

ホートンは1981年12月8日、シカゴの近隣住民のアパートで[6]心不全のため死去。60歳であった[1][28]。彼の死亡診断書には死因として急性アルコール中毒の記載もある[7]。彼は、シカゴ郊外アルシップのレストヴェール墓地に埋葬されている[3]

彼は亡くなった翌年の1982年、ブルースの殿堂入りを果たした[1]。2008年には、ミシシッピ・ブルース・トレイルの彼の標識(マーカー)がミシシッピ州ホーンレイクに設置されている[7]

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク

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