ジョニー・ウィンター

アメリカ合衆国のギタリスト、歌手 (1944-2014) From Wikipedia, the free encyclopedia

ジョニー・ウィンター(Johnny Winter、本名:John Dawson Winter III、1944年2月23日 - 2014年7月16日)は、アメリカ合衆国ギタリストシンガー。CBSとの契約金が、当時の金額で数十万ドルと巨額であったことから「100万ドルのギタリスト」の異名を持つ。アルビノ斜視であることも知られている。弟はエドガー・ウィンター

出生名 John Dawson Winter III
死没
概要 ジョニー・ウィンター, 基本情報 ...
ジョニー・ウィンター
ジョニー・ウィンター(1990)
基本情報
出生名 John Dawson Winter III
生誕 1944年2月23日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テキサス州ボーモント
死没
ジャンル ブルース
ブルース・ロック
職業 ギタリスト
歌手
担当楽器 ギター
ヴォーカル
活動期間 1959年 - 2014年
レーベル
共同作業者
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白人でありながら黒人音楽のブルースをプレイし続け、ブルースの巨人マディ・ウォーターズが「義理の息子」と呼ぶほど彼に気に入られた。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第74位、2011年の改訂版では第63位。

活動・キャリア

ジョニー・ウィンターは、1944年2月23日テキサス州ボーモントに父ジョン・ドーソンJr.、母親エドナの間に生まれた[1]。彼の父親、祖父はミシシッピ州リーランドの出身で、彼の家族もリーランドに住んでいたが、母親は彼女の実家のあるボーモントに戻り、彼を出産した[1]。父親はサクソフォーンとギターを弾くミュージシャンで、ジョニーが生まれる前にはリーランドの市長を務めている[1]

その後一家はボーモントへ移住し、幼少期の多くをここで過ごしている[1]。当初はクラリネットを演奏していたが、その後ウクレレを経て、7歳の頃、父親の勧めによりギターを弾くようになる[2]。少年期に弟のエドガーとコンビで数々のコンテストに出場しては腕を上げていき、15歳の時にバンドを組んで地元レーベルから「スクール・デイ・ブルース」をリリース、彼の音楽キャリアのスタートとなる。

1962年、エドガーと共に初のバンド、ジョニー・アンド・ザ・ジャマーズを結成。複数の地元のレーベルからシングルをリリースし活躍する。1968年、トミー・シャノン(ベース)、アンクル・ジョン・ターナー(ドラムス)らを迎え、デビュー・アルバム『The Progressive Blues Experiment』をリリース。同年12月にはアル・クーパーマイク・ブルームフィールドフィルモア・イースト公演にゲスト参加し、この時のライヴ録音は2003年にアルバム『Fillmore East: The Lost Concert Tapes 12/13/68』として発表された[3]

1969年、CBSと契約しアルバム『Johnny Winter』をリリースした。CBSとの契約金が当時の金額で数十万ドルと巨額であったことから「100万ドルのギタリスト」の名で呼ばれるようになった。このアルバムはウィリー・ディクスンウォルター・ホートンらブルース・ミュージシャンが参加したストレートなブルース・アルバムであった。また同年、40万人以上を集めたウッドストック・フェスティバルに出演。続く作品、『Second Winter』(1970年)、『Johnny Winter And』(1971年)ではロック色を強めていった。特に後者は、ストレートなブルース・ナンバーは皆無のロック・アルバムである。ジョニーはドラッグ中毒に陥っていったが、1973年に『Still Alive And Well』をリリースし、復活を宣言した。

1980年に『Raisin' Cain』をリリースするまで、CBSへの在籍は10年以上に及んだ(1974年の『John Dawson Winter III』以降は、CBS傘下のブルー・スカイから作品をリリースした)。CBS時代のジョニーは、前述のジョニー・ウィンター・アンドに象徴されるように、ロック色の強い作品が多いが、ファースト・アルバムや『Nothin' But The Blues』(1977年)、マディ・ウォーターズのアルバムにおける競演など、正面からブルースに向き合う一面も見せている。

1980年代に入ると、ジョニーはアリゲーター・レコードと契約。3作のアルバムをリリースした。ブルース・レーベルからのリリースということもあってか、いずれの作品もブルース色が濃い内容となっている。

MCA傘下のボイジャー・レーベルからの『The Winter Of '88』(1988年)を経て、ポイントブランク・レコードと契約したジョニーは『Let Me In』(1991年)を始め3枚の作品をリリースするが、徐々に体調が悪化し、演奏活動から遠ざかっていく。一説によると、愛用のギブソンファイヤーバードを自力で持ち上げられないほど体力が弱ってしまい、視力も殆ど見えない状態といわれていた。

2004年、実に12年ぶりとなるスタジオ・アルバム『I'm A Bluesman』をリリース。その「枯れた」演奏に最後のアルバムかとの危惧の声もあったが、7年を経た2011年、ブルースのカバーを新録した『Roots』をリリース、健在ぶりをアピールした。

2014年7月16日、スイスチューリッヒにて死去[4]。死因は明らかにされていない[5]。同年9月にリリースされた遺作『ステップ・バック〜ルーツ2』は、2015年2月に第57回グラミー賞最優秀ブルース・アルバム賞を受賞し、ウィンター初のグラミー受賞を果たして、弟のエドガーが代わりにトロフィーを授与された[6]

家族

父親は教会の聖歌隊に参加するサクソフォンバンジョーの奏者、母親はピアノ奏者という理想的な音楽一家の下で育った。前述の実弟エドガー・ウィンター (彼もまたアルビノである)は、キーボードサックスの奏者として有名である。

プレイ

彼のプレイは、テクニカルで速いリフが多く、ピックサムピック人差し指中指、そして薬指を使ったフィンガーピッキングが特徴。リフの種類は他に類を見ないほど豊富。速く弾きまくるリフは代表曲「Be Careful with a Fool」などで聞ける。また、音色はヘヴィなディストーションが効いていることが多い。初期から中期にかけての使用ギターはギブソン・ファイヤーバードで、フロントピックアップを選択しアンプのイコライザーで高音域に寄ったセッティングにしていた。[要出典]後年はアールワインというメーカーが製造した小型のヘッドレスギター「Lazer」がメインギターとなっていて[7]、ファイアーバードはスライドギターの際に使用することが多かった。

スライドギターをプレイするときには、特にオープンEオープンAを好んでいるが、他にオープンDオープンGも使用する。スライド・ギターが聞ける代表曲は「TV Mama」や「Dallas」など。レギュラーチューニングでの演奏もしているが、アリゲーター・レコード在籍以来、1音下げで演奏することが多くなった。

スライドバーは既製品は使わず、工事現場で拾った金属パイプを自分の指に合わせて切り出したものを長年に渡って使用している。

来日

40年以上のキャリアにもかかわらず、ジョニー・ウィンターの来日公演は長きに渡って実現していなかった。M&Iカンパニー招聘により、1990年に初の日本ツアーが組まれたことがあるが、チケット発売後、公演は中止となってしまった。理由はウィンターが服用していたヘロイン中毒治療薬のメタドンが日本では禁止薬物に指定されていたためだった[8][5]

ウィンターがヘロイン中毒を克服し、メタドンの服用が不要となったことから、2011年、初来日が実現した[5]。同年2月、公式サイトのスケジュールにて、2011年4月13~15日の3日間にZepp Tokyoで初来日ライブを行うことが発表される。その後、2011年3月11日に起こった東日本大震災の影響で多くの海外アーティストの来日が中止となり開催が危ぶまれたが、2011年4月12日夜、日本の地を初めて踏んだ[9]

翌日の2011年4月13日、Zepp Tokyoにおいて、初来日公演が実現。終演後、ジョニーは、「日本のファンは大人しいと聞いてたけど、盛り上がってくれてびっくりしたよ。ロックン・ロールをわかってるんだね。嬉しいよ!」と語った[9]

その後、2012年5月、2014年4月に来日公演を行っている[5]2014年4月が最後の来日公演となった。

ディスコグラフィー

公式アルバム

ライブアルバム

主な参加アルバム

脚注・出典

外部リンク

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