エリック・ギル

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生誕 アーサー・エリック・ロートン・ギル
(1882-02-22) 1882年2月22日
イングランドの旗 イングランド サセックスブライトン
教育
著名な実績 彫刻、タイポグラフィ
エリック・ギル
自画像(1927年頃)
生誕 アーサー・エリック・ロートン・ギル
(1882-02-22) 1882年2月22日
イングランドの旗 イングランド サセックスブライトン
死没 (1940-11-17) 1940年11月17日(58歳没)
イングランドの旗 イングランド ミドルセックス
教育
著名な実績 彫刻、タイポグラフィ
運動・動向 アーツ・アンド・クラフツ運動
配偶者
エセル・ヘスター・ムーア(結婚 1904年)
子供 4人
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アーサー・エリック・ロートン・ギル(Arthur Eric Rowton Gill、1882年2月22日 - 1940年11月17日)は、イングランド彫刻家、文字彫刻家(レターカッター)、書体デザイナー版画家である。『オックスフォード英国人名事典』では「20世紀最大の芸術工芸家であり、天才的な文字彫刻家・書体デザイナー」と評されているが、死後に2人の娘および飼い犬への性的虐待が明らかになったことから、重大な論争の対象となっている人物でもある。

ブライトンで生まれ、チチェスターで育った。地元のカレッジに通ったのち、ロンドンへ移住した。ロンドンでは教会建築事務所の徒弟となり、夜間には石工およびカリグラフィーの授業を受けた。その後、建築の修業を断念し、建築物や墓石の記念碑銘を彫る事業を立ち上げた。また、書籍の章見出しやタイトルページの意匠も手がけるようになった。

青年期にはフェビアン協会に所属していたが、のちに脱退している。当初はアーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴していたものの、1907年頃にはすでに同運動の欠点を指摘し、それに反対する講演や活動を行うようになった。1913年にローマ・カトリックに改宗し、生涯その信仰を保った。ギルは次々と工芸コミュニティを設立した。これらはいずれも礼拝堂を中心とし、近代的な工業的手法に対して手作業を重視するものであった。最初のコミュニティはサセックスディッチリングにあり、そこでカトリックの工芸家による「聖ヨセフ・聖ドミニコ工芸ギルド英語版」を設立した。ギルを含む多くのギルドのメンバーは、ドミニコ会在俗会第三会英語版)の会員でもあった。ディッチリングでは、助手たちとともに北ウェールズのチャーク英語版やケンブリッジ近郊のトランピントン英語版など複数の戦争記念碑を制作したほか、宗教を主題とする作品を数多く残している。

1924年、ギル一家はディッチリングを離れ、ウェールズのブラック・マウンテンズにあるカペル=イ=フィン英語版の廃用となった修道院へ移住した。その隔絶された環境は、ますます世俗化・工業化していく社会から距離を置きたいというギルの願いに適うものであり、そこでの生活は彼の芸術家としてのキャリアにおいて最も生産的な時期の一つとなった。カペルでは『眠るキリスト』(1925年)、『キリスト降架』(1925年)、『人類』(1927年)といった彫刻作品を制作した。さらに、ゴールデン・コッケレル・プレス英語版が出版した一連の書籍のために、同分野でも最良とされる版画を制作し、この地で「Perpetua英語版(パーペチュア)」「Gill Sans(ギル・サン)」「Solus英語版(ソーラス)」などの書体をデザインした。カペルでの4年間の後、一家はバッキンガムシャースピーン英語版の中庭状の建物群へ移った。その後、晩年の10年間において、ギルは建築彫刻家として一定の名声を得て、BBC本部やロンドン地下鉄の前身組織の建物など、ロンドン中心部の建築物のために大規模で注目を集める作品を制作した。巨大なフリーズ作品『人間の創造』は、ジュネーヴ国際連盟本部ビルへのイギリス政府からの寄贈品であった。健康の悪化にもかかわらず、死の数週間前まで彫刻家として活動を続け、いくつかの作品は死後に助手たちによって完成された。

また、宗教や社会問題に関して多くの著作を残した文筆家でもあり、書籍やパンフレットなど約300点の印刷物を残している。彼はしばしば、家庭や職場における機械の使用や、工業化、近代商業に反対する立場をとり、論争を招いた。第二次世界大戦前の数年間には、平和主義や左派的な運動を支持した。

生い立ち

エリック・ギルは1882年、ブライトンのハミルトン・ロードで、牧師のアーサー・ティドマン・ギルとその妻(シシリー・)ローズ・キング(1929年没)の間に、13人きょうだいの第2子として生まれた。母ローズは、かつてローズ・ル・ロワの名でライトオペラ英語版のプロ歌手として活動していた[1]。父アーサーは教義上の対立から1878年に会衆派教会英語版を離脱し、カルヴァン派メソジストの団体であるハンティンドン伯爵夫人コネクション英語版の牧師となっていた[2]:7。またアーサー自身は南太平洋地域で生まれており、彼の父ジョージ・ギルも会衆派の牧師であり宣教師であった[2]:5。グラフィックアーティストのマクドナルド・“マックス”・ギル英語版(1884年 - 1947年)はエリックの弟にあたる[1]。他の兄弟のうち、ロムニーとセシルは聖公会の宣教師となり、姉妹のマデリンは修道女として同じく宣教活動に従事した[2]:5。映画史家のデヴィッド・ギル英語版は甥である。

1897年、一家はチチェスターへ移住した。これは父アーサーがハンティンドン伯爵夫人コネクションを離れ、チチェスター神学校英語版に年長の学生として入学し、イングランド国教会に入ったためである[1][2]:19。エリックはチチェスター・テクニカル・アンド・アート・スクールで学び、透視図法でクイーンズ・プライズを受賞し、レタリングへの情熱を深めていった[2]:26。後年、彼は自身の彫刻に大きな影響を与えたものとして、チチェスター大聖堂英語版にあるノルマン期および中世の石彫パネルを挙げている[3][4]。1900年、チチェスターでの生活に幻滅したギルはロンドンへ移り、建築家としての修業を始めた。修業先は、ウェストミンスター寺院近くに大規模な設計事務所を構える教会建築の専門家、W・D・カロエ英語版の設計事務所であった[1]

ロンドン(1900年 - 1907年)

ギルは建築の修業に行き詰まりを感じ、カロエの事務所で働きながら、ウェストミンスター・テクニカル・インスティテュート英語版の夜間部で石工技術英語版を学び、1901年からはセントラル・スクール・オブ・アーツ・アンド・クラフツ英語版カリグラフィーの授業を受講した[5]。この講座を担当していたのは、後にロンドン地下鉄書体英語版を制作したエドワード・ジョンストンであり、彼はギルに長く大きな影響を与えた[2]:42。1903年までの1年間、ギルとジョンストンはロンドン中心部のリンカーン法曹院で下宿を共にした[2]:49

1905年にエリック・ギルとマックス・ギルが制作した記念ブロンズの拓本

1903年、ギルは建築の修業を断念し、カリグラファー、文字彫刻家、記念碑石工として活動を開始した[6]。ウェストミンスター寺院の小さな石板を模刻したのち、彼の最初の公的な碑文作品は、チチェスター大聖堂にあるパーシー・ジョセフ・ヒスコックの記念石板であった[2]:45。さらにセントラル・スクールでの知人の紹介により、サリー州ブルックウッド墓地英語版の墓石の碑文彫刻を請け負った[2]:45。その後も、スローン・ストリートのホーリー・トリニティ教会英語版の碑文や、ケスラー伯爵英語版をはじめとする建築家や個人からの依頼など、依頼が相次いだ[2]:93。ジョンストンの推薦を受けたケスラーは、インゼル出版社の書籍の章見出しとタイトルページのデザインをギルに依頼した[5]。また、W・H・スミス書店は、1903年のパリ店を含む複数店舗のファサードのレタリングをギルに依頼した[2]:55。しばらくの間はカロエ事務所での勤務とこれらの仕事を両立させていたが、依頼の規模と頻度の増大により、最終的には同事務所を退職した[2]:88。ギルの死後、弟エヴァンは、彼が彫刻したことが知られている762件の碑文の目録を作成した[2]:45

1904年、ギルは元美術学生のエセル・ヘスター・ムーア(1878年 - 1961年。後にメアリーとして知られるようになる)と結婚した。彼女は実業家でありチチェスター大聖堂の主任堂守も務める人物の娘であった[2]:31。夫妻は後に3人の娘をもうけ、1人の養子を迎えることになる[1]バタシーでの短い生活を経て、夫妻は西ロンドンのハマースミス英語版にあるブラック・ライオン・レーン英語版20番地に転居した。近隣のハマースミス・テラスには新婚のジョンストン夫妻の住居があり[7]、またこの一帯には、エメリー・ウォーカー英語版T・J・コブデン=サンダーソン英語版メイ・モリス英語版といったアーツ・アンド・クラフツ運動関連の芸術家や、ダヴズ・プレス英語版をはじめとする印刷業者がすでに活動していた[2]:64。ギルはローレンス・クリスティと事実上の提携関係を結び、自身の工房のスタッフとして14歳のジョセフ・クリブ英語版などを雇った[2]:66。この頃からセントラル・スクールで講義を始めたほか、パディントン・インスティテュート英語版では石工向けに記念碑石工およびレタリングの講義を行った[2]:102。1905年にアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会英語版の会員に選出され、翌年にはフェビアン協会に入会した[2]:101。しかし、一時期フェビアン協会の活動に傾倒したものの、やがて同協会とアーツ・アンド・クラフツ運動の双方に失望していく。1907年には、大量生産の進展に対抗し得なかった工芸運動の理論的および実践的限界について、執筆や演説を行うようになっていた[2]:93

ギルの日記には、ハマースミス在住時の2件の関係が記されている。妻の妊娠中に雇っていたメイドとの短期間の関係の後、フェビアン協会で知り合ったリリアン・ミーチャムと関係を持った[2]:95。ギルとミーチャムはともにパリ・オペラ座やシャルトル大聖堂を訪れている。二人の関係が終わった後、彼女はギルの工房に見習いとして入り、その後も生涯にわたって家族の友人であり続けた[2]:95

ディッチリング村(1907年 - 1913年)

1907年、ギルは家族とともにサセックス州ディッチリング村にある「ソーパーズ」という家へ移り住んだ。この村は後に、ギルに触発された芸術家コミュニティの中心地となる。1908年4月までにギルはディッチリングに工房を構え、ローレンス・クリスティとの共同事業を解消していたが、その後もロンドンに滞在して顧客訪問や講演を続ける一方、妻のエセルはサセックスでの家事や小規模農園の管理を担った[2]:120。ロンドンでは、リンカーン法曹院の旧居に滞在し、弟のマックスや、妹のグラディスと後に夫となるアーネスト・ロートンとともに過ごした[2]:122。ギルは引き続き石碑のレタリングや碑文彫刻に専念し、看板レタリングの事業のために弟子を雇った[2]:126。また、ケスラー伯爵のために制作した1907年版のホメロス作品の版など、書籍の挿絵に木版画の技法を用い始めた[2]:126

『母と子』、1910年

1909年後半、ギルは彫刻家になることを決意した[2]:126。それまで彼は、自らを芸術家というより職人であると考えていた。彼は、最初に模型を作り星取り機(ポインティング・マシン英語版)で拡大して彫刻するという通常の技法を退け、直接石材を彫り出す直彫りの手法を好んだ[4][8]。初期の彫刻作品には、美術評論家ロジャー・フライが「痛ましい獣性」の表現と評した『聖母子』(1910年)や[9]、現在『エクスタシー英語版』(1911年)として知られるほぼ等身大の作品などがある[4]。『エクスタシー』のモデルは、妹のグラディス・ギルとその夫アーネスト・ロートンであった[2]:104[10]。生涯続くことになるギルとグラディスの近親相姦関係は、この時点で既に始まっていた[2]:104[4]。また、ギル自身の記録から、もう一人の妹アンジェラとも近親相姦関係にあったことを示す証拠もある[2]:105[10]

ギルの彫刻の初期からの支持者であったウィリアム・ローゼンスタインは、インドの寺院彫刻英語版に魅了されていたギルに、セイロン出身の哲学者・美術史家であるアーナンダ・クーマラスワーミー英語版を引き合わせた[11]。ギルは友人で協働者でもあったジェイコブ・エプスタイン英語版とともに、マディヤ・プラデーシュ州グワーリヤル城にある大規模な建造物を模倣して、サセックスの田園地帯に手彫りの巨大な記念碑を建設する計画を立てた[12]。1910年の後半を通じてエプスタインとギルはほぼ毎日のように会っていたが、やがて彼らの関係は著しく悪化した。同年はじめ、彼らはローゼンスタインやオーガスタス・ジョンアンブローズ・マケボイら他の芸術家たちと、宗教的な兄弟団の結成について長時間にわたり議論していた[2]:102。ディッチリングにおいて、エプスタインはペール・ラシェーズ墓地にあるオスカー・ワイルドの墓英語版の一部の制作に関わった。この碑文はギルがデザインし、1907年にディッチリングに移住していたジョセフ・クリブを文字彫刻のためにパリへ派遣した[2]:135[13]

1911年、ギルはロンドンのシュニール・ギャラリーで初の彫刻展を開いた[9]。1912年から1913年にかけてロンドンのグラフトン・ギャラリー英語版で開催され、ロジャー・フライが企画した第2回ポスト印象派展には、ギルの作品8点が展示された[13]

1912年当時、ギルの主な収入源は墓石の碑文彫刻であったが、一方で聖母像も制作しており、当時は誤ってカトリックの芸術家であると広く見なされていた。そのため彼はブリュッセルでのカトリック美術展に招待され、その途中でルーヴェン近郊にあるモン・セザール修道院英語版ベネディクト会)に数日間滞在した[2]:94。ルーヴェンで修道士たちが祈る姿を目にし、初めて単旋律聖歌英語版を聴いた経験から、ギルはカトリックへの改宗を決意した[14]。1913年2月、イギリスのベネディクト会士から宗教指導を受けた後、ギルとエセルはローマ・カトリック教会に受け入れられ、エセルはメアリーへと名を改めた[2]:147

ウェストミンスター大聖堂(1914年 - 1918年)

ウェストミンスター大聖堂、「十字架の道行き」第13留

1913年、ギルと妻はカトリックに改宗した後、ディッチリング村の2マイル北に位置するディッチリング・コモン英語版のホプキンズ・クランクへと移り住んだ[1]。この地でギルは主にカトリックの顧客向けの仕事を手がけるようになり、1914年にはウェストミンスター大聖堂の「十字架の道行き」全14留の制作を委嘱された[1][15]。カトリック信者となって日が浅く、彫刻家としての活動歴もわずか3年に過ぎなかったギルが選ばれたことは意外な人選であった[16]。彼は、すでに名声を得ていた他の彫刻家よりも短期間かつ低報酬でこの仕事を引き受ける用意があった[16]。ギルは、第10留のキリスト像と第2留の兵士の像を、自身をモデルとして制作した[15]

完成した「十字架の道行き」が設置された当初、その評価は一様に好評というわけではなかった。簡潔な外観が大聖堂内部の他の装飾と強い対照をなしているとして批判されたのである[16]。しかし、後にニコラウス・ペヴズナーも含まれる一部の評価者たちは、その簡潔なデザインと、感傷を排した主題の扱いを称賛した[16]。現在では一般に、これらはギルが手がけた大規模作品の中でも最も完成度の高いものの一つと見なされている[2]:125。また、ギルは大聖堂内の他の装飾や作品についても提案を提出し、最終的に「聖ゲオルギオスとイングランドの殉教者たちの礼拝堂」のデザインが委嘱された[16]

ギルは「十字架の道行き」の制作中、兵役を免除されていた。作品の完成後、1918年9月からの3か月間はドーセットのイギリス空軍 (RAF) のキャンプで運転手として勤務し、その後ディッチリングへと戻った[2]:138

ディッチリング・コモン(1918年 - 1924年)

第一次世界大戦後、ギルはヒラリー・ペプラー英語版デズモンド・シュート英語版とともに、中世的あるいは産業化以前の手工業生産の理念を推進するためのギルド「聖ヨセフ・聖ドミニコ工芸ギルド英語版」をディッチリングに設立した[8][14]。同ギルドは近代的な工業的手法に対して手作業を重視し、例えば機械化された道具を使用せず、手仕事を神聖な礼拝の一形態とみなした[14]。ギルドのメンバーは全員がカトリック教徒であり、ギルを含む大半がドミニコ会第三会の会員でもあった[14]。平信徒の会員は、午前6時のアンジェラスの祈り英語版から午後9時の終課までのドミニコ会の日々の聖務日課に従うことを通常は求められないが、ディッチリングのグループは例外的にこれを遵守していた[2]:146。ギルの設計による礼拝堂がギルドの工房の中心に建てられ、近くの丘にはギルが彫ったキリスト像を付した木製の十字架が立てられた[2]:147。ギルはまた、しばしば純潔の象徴である紐を付けた修道服英語版を着用するようになり[2]:143、家族の住まいにおいては、浴室を設けず、ポンプで水を汲み、薪の火で調理するなど、近代的な生活設備を一切用いない生活を定めた。タイプライターを家に持ち込んだある客は、そのことで叱責された[2]:127。子供たちは学校に通わなかった[17]

聖ドミニコ・プレス発行の『木工』より、ギルによる版画[18]:3

ギルドと並行して、ペプラーは購入した築100年のスタンホープ印刷機英語版を用いて聖ドミニコ・プレスを設立した[5]。同印刷所は、ギルドの伝統的な工芸技術の理念を広める書籍やパンフレットを印刷し、ギルの版画や木版画の挿絵を発表する場ともなった[14]。ギルとペプラーは共同で小雑誌『ザ・ゲーム』を発行し、その多くにはギルの挿絵が添えられ、工芸や社会問題に関する記事が掲載された[2]:122。同誌や他の出版物でギルとペプラーが提示した見解はしばしば意図的に挑発的であり、反資本主義的で、工業化に反対するものであった[5]

ギルドでの仕事や挿絵の制作に加え、ギルはこの時期にいくつかの戦争記念碑を設計・制作した。これらには、ケンブリッジシャーのトランピントン戦争記念碑英語版、北ウェールズのチャーク戦争記念碑英語版、ディッチリングの記念碑、オックスフォード大学ニュー・カレッジ英語版の前礼拝堂に設置された228名の戦死者の名前を刻んだ壁面の記念パネルなどが含まれる[1][19][20][21]。ギルはまた、ドーセットのブライアンツパドル英語版の記念碑や、シュートおよびヒラリー・ストラットン英語版とともにサウス・ハーティング英語版の記念碑も手がけた[22][23]大英博物館の正面入口脇には、戦争で死亡した同館職員への追悼の碑銘をジョセフ・クリブとともに設計・彫刻し、ヴィクトリア&アルバート博物館のエントランスホールにある戦争記念碑もクリブとともに制作した[24][25]。これに先立つ1911年、ギルは大英博物館の新館であるエドワード7世館の定礎石に碑銘を彫っていた[5]。この時期におけるギルのもう一つの主要な作品は、ブラッドフォードのマニンガム英語版地区にある聖カスバート教会のためにシュートとともに彫った「十字架の道行き」である[26]

リーズ大学から戦争記念碑の制作を依頼されたギルは、「神殿の清め英語版」を主題とするフリーズを制作したが、イエスが神殿から追い出す両替商を現代の商人として表現した[27][28]。ギルは、これが戦争記念碑として不適切な主題であり、リーズのような商業中心地では強い反発を招く可能性が高いことを十分に認識していたが、それにもかかわらずこのデザインに固執した。完成したフリーズは、聖ドミニコの猟犬がレジを倒す場面を含むなど戯画的な性格を帯びており、そのことが結果として騒動の激化に拍車をかけた[2]:166[29]

神の婚礼
浴槽の少女、1923年

リーズの記念碑に関する論争が起こる以前から、『神の婚礼』、『改宗者』、『神聖な恋人たち』を含むギルの連作イラストや、キリスト教の性的性質に関する彼の見解は、カトリック教会の上層部に懸念を引き起こし、ディッチリングのコミュニティの他のメンバーとの間に距離を生じさせていた[2]:164。ディッチリングで制作された『浴槽の少女』や『髪を梳く』など、彼の娘たちを描いた一連の人物素描や版画は、ギルの代表作の一つと見なされていた。同じ時期にギルが長女次女に対して行っていた性的虐待は、死後に明らかになった[4]

専門の工芸家たちがコミュニティに加わり、1920年代初頭にはコミュニティは41人に拡大し、ギルドの礼拝堂と工房を囲む20エーカーの敷地にある複数の家屋に居住していた[2]:148。この地を訪れた人々の中には、ギルドがその分配主義英語版的理念を支持していたG・K・チェスタトンヒレア・ベロックも含まれていた[14]。第一次世界大戦で戦闘に参加した若者の中には、長期間滞在する者もいた。その例として、デニス・テゲトマイヤー、レジナルド・ローソン、そして一時ギルの次女ペトラと婚約していた芸術家で詩人のデヴィッド・ジョーンズ英語版などがいた[2]:151

ギルはギルドの方向性に幻滅し、親友のペプラーと深刻な対立に至った。その理由の一部は、ペプラーがコミュニティを拡大し、ディッチリング村とより緊密な関係を築くことを望んだこと、そしてギルの娘ベティがペプラーの息子デヴィッドとの結婚を望んだことにあった[14]。ギルは1924年7月にギルドを辞任し、イギリスとアイルランドの他の場所を検討した後、家族とともにウェールズのブラック・マウンテンズ英語版にある使われなくなった修道院へ移り住んだ[2]:170

カペル=イ=フィン(1924年 - 1928年)

1924年8月、ギル一家はディッチリングを離れ、他の2家族とともにウェールズのブラック・マウンテンズにあるカペル=イ=フィン英語版へと移り住み、使われなくなった聖公会修道院(ラントニー修道院英語版)に居住した[2]:179。その荒廃した建物は、アバガヴェニー英語版から約14マイル離れた孤立した谷の高地にあった。修道院の礼拝堂は修復不可能な状態だったため、早急に新しい礼拝堂が建てられ、カルデイ修道院英語版からベネディクト会の修道士が派遣され、彼らのために毎日のミサを執り行った[2]:182ドナルド・アットウォーター英語版はギル一家に先立ってカペル=イ=フィンに到着しており、その後間もなくデヴィッド・ジョーンズ英語版や、後にジョーン・ギルの夫となるルネ・ヘイグも加わった[2]:182。ジョセフ・クリブはウェールズへの移住には同行しなかったが、彼の弟ローレンス・クリブ(1898年 - 1979年)は同行し、最終的にギルの主要な助手となった[5]

カペル=イ=フィンに到着して数週間以内に、ギルはキリストの黒大理石のトルソ『キリスト降架』を完成させ、現在マンチェスター市立美術館に所蔵される石彫の頭部『眠るキリスト』を制作した[2]:185。1926年には、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ図書館のために『トビアスとサラ』の彫刻を完成させた[30]。1927年には、ロッサル校英語版のためのオーク材の浮彫による戦没者慰霊祭壇画が完成した[1]

1924年、ロバート・ギビングス英語版から、彼と妻のモイラが最近買収したゴールデン・コッケレル・プレス英語版のためのデザイン制作の依頼を受けた。ギルは彼らがカトリック教徒ではないことを理由に当初は協力を拒否したが、夫妻がギルの妹エニッドの詩集を出版しようとしたことで、考えを改めた。ギルとギビングス夫妻の関係は深まり、その後の10年間、ギルはゴールデン・コッケレル・プレスの主任の版画家兼イラストレーターを務めることになった。その結果生み出された『雅歌』(1925年)、『トロイルスとクリセイデ』(1927年)、『カンタベリー物語』(1928年)、『四福音書』(1931年)などの数冊は、特装本制作の古典と見なされている[2]:187。ギルは、挿絵をテキストと統合した印象的なデザインを生み出し、また同出版所のために新しい書体も制作した[5]。『雅歌』やエドワード・ポウィス・マザーズ英語版の『多産の賛歌』の挿絵が持つエロティックな性質は、カトリック界で大きな論争を巻き起こし、ギルと聖職者たちとの間で長期にわたる論争を引き起こした[2]:211[31]。ゴールデン・コッケレルはギル自身の著書4冊を刊行し、ギルはさらに同出版所のために13作品の挿絵を手がけた[5]。加えて、1924年から没するまでの間に、ギルは38冊の著書を執筆し、さらに28冊の挿絵を手がけた[5]

カペル=イ=フィン滞在中にギルが築いたもう一つの重要な職業上の関係は、モノタイプ社のタイポグラフィ顧問であったスタンレー・モリソンとのものであった。モリソンはギルを説得して、彼が文字彫刻で培った技術と知識を機械的に再現可能な書体へと応用するよう促した[2]:187。ギルが書体「Perpetua英語版(パーペチュア)」(1925年)や「Gill Sans(ギル・サン)」(1927年以降)を設計し、「Solus英語版(ソーラス)」(1929年)の設計に着手したのはカペルでのことであった[1]。Gill Sansは、これまでに設計された書体の中でも最も成功したものの一つとされており、現在でも広く使用されている[31][注釈 1]

カペル=イ=フィンに住んでいた頃、ギルはウォルサム・セント・ローレンス英語版にあるロバート・ギビングスとモイラ・ギビングスの自宅で多くの週末を過ごし、夫妻の型破りで享楽的な生活様式を楽しんだ[2]:191。また、ギルの著作の一部を出版・流通させた書店主ダグラス・クレヴァードン英語版を中心とする若い知識人グループとともに、ブリストルでも相当の時間を過ごしていた[2]:192。1925年以降、ギルの秘書であり愛人でもあったのがエリザベス・ビルである。ビルはフランス・ピレネー山脈のサリス=ド=ベアルン英語版に数エーカーの敷地に建つ別荘を所有しており、ギル一家はそこを頻繁に訪れた[2]:205。ギル一家は1926年から1927年にかけての冬をそこで過ごし、ギルは『トロイルスとクリセイデ』の版画の多くを手がけた[2]:215。1927年の最後の数か月間、彼はロンドンのチェルシー、グリーブ・プレイスにあるスタジオで制作に従事し、当初『人間性』として知られ、現在『人類』と呼ばれている彫刻を制作した。この巨大なトルソ作品はアンジェラ・ギルをモデルとしており、ロンドンのグーピル・ギャラリーに展示されて高い評価を受けた後、芸術家エリック・ケニントン英語版によって購入された[2]:220[34]。数年後、ケニントンはこの作品をホィップスネイド野生動物園に寄贈することを申し出たが、動物園側はこれを断った。現在、この作品はテートのコレクションに属しているが、ヴィクトリア&アルバート博物館に展示されている[2]:220[8]

『人類』のための石材をカペル=イ=フィンに輸送することは現実的ではなく、増加するギルの商業的仕事量に対して、その地があまりに遠隔かつ孤立していることは明らかであった。そのため1928年5月までに、彼は家族と工房のための新たな拠点を模索し始めていた[2]:221[31]

バッキンガムシャー州ピゴッツ(1928年 - 1934年)

1928年10月、ギル一家はバッキンガムシャーハイ・ウィコム英語版から5マイル離れたスピーン英語版のピゴッツに移り住んだ。中央に豚小屋を備えた中庭を囲むように、エリック・ギルとメアリー・ギル夫妻が住む大きな農家建物、ペトラと夫デニス・テゲトマイヤーのコテージ、ジョアンナとルネ・ヘイグのコテージが配置されていた。厩舎と納屋はスタジオや作業場、印刷設備のための空間へと転用された[2]:225。一角には礼拝堂が設けられ、6か月以内にミサを執り行う認可を得た[2]:226

『北風』、セント・ジェームズ・パーク駅、ロンドン

1928年のグーピル・ギャラリーでの展覧会の成功により、ギルの知名度が大きく高まっていた。これを受けて、チャールズ・ホールデン英語版から、ロンドン地下鉄の前身であるロンドン地下電気鉄道の新本社ビルの外部彫刻制作にあたり、ヘンリー・ムーアを含む5人の彫刻家チームを率いるよう依頼された[2]:228。ギルはピゴッツに到着して数日以内にこのプロジェクトに着手し、1928年11月からロンドンの現場で作業し、同ビルのために『四つの風』をテーマとする8つの浮彫のうち3点を制作した[2]:229

ベル・ソヴァージュIV。『アート・ノンセンス』のタイトルページより

1929年に出版された『アート・ノンセンスその他のエッセイ』(Art-Nonsense And Other Essays) は、Perpetua英語版書体が初めて商業的に使用された事例となった。同書の口絵には、森から現れる裸婦像を描いた「ベル・ソヴァージュ」の版画が掲載されていた。ベル・ソヴァージュの様々なバージョンは、ギルのイラストの中でも最もよく知られた作品の一つとなった。そのモデルを務めたのが、タイポグラフィの歴史家であり、モノタイプ・コーポレーションの幹部で、時にはギルの愛人でもあったベアトリス・ウォード英語版である[2]:232

1929年、ダグラス・クレヴァードン英語版は『エリック・ギルの版画』を出版した。本書には、1927年までのギルの木版画と金属版画100点以上が収録されており、版画の完全な年代順一覧とギルによる序文も含まれていた[35]

1930年までに、グラディス・ギルは(最初の夫アーネスト・ロートンがソンムの戦いで戦死した後に結婚した)2番目の夫と離婚しており、ギルの日記の記述によれば、彼女とエリックは近親相姦の関係を再開したとみられる[2]:239。同年後半の日記には、ギルが「実験」と称した犬との性的関係が記録されている[2]:239。1930年9月、彼は記憶喪失を含む様々な症状により重い病に倒れ、数週間入院した[2]:237

『プロスペロとアリエル』、BBCブロードキャスティング・ハウス
『知恵と陽気さの間にあるアリエル』と、ラテン語の碑文 obsculta(従え)、BBCブロードキャスティング・ハウス

その後の2年間は、ギルのキャリアにおいて創作面で最も充実した時期の一つであり、いくつかの重要な業績を残した。1931年にピゴッツでヘイグ・アンド・ギル・プレスが設立され、ギル自身の著書や小冊子16冊が印刷されたほか、同社のためにさらに6冊の書籍の挿絵も手がけた[5]。ヘイグ・アンド・ギル・プレスのために彼はJoanna英語版(ジョアンナ)書体を制作し、これは後にモノタイプ社によって商業利用向けに改作された。彼はゴールデン・コッケレル・プレスが制作したすべての本の中で最高傑作と広く評価されている『四福音書』を完成させ、ロンドンのBBCブロードキャスティング・ハウスのための彫刻『プロスペロとアリエル』の制作に着手した[2]:243。1931年から1932年にかけて、ギルはロンドン中心部の現場で『プロスペロとアリエル』およびBBCのための他の4つの作品の制作に従事した[2]:245。ロンドン中心部で足場に登り、野外で彫刻作業を行ったことは、彼の知名度をさらに高めた[2]:247。ギルは依頼を引き受ける際にBBCが選んだ主題を受け入れたものの、その関連性を見出せず、自ら制作した人物像は父なる神と子なる神を表しており、後者には聖痕の跡があると頻繁に主張していた[8][36]

モアカムのミッドランド・ホテル英語版は、1932年から1933年にかけてロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道によってオリバー・ヒル英語版アール・デコ様式の設計で建設され、ギル、マリオン・ドーン英語版エリック・ラヴィリオス英語版の作品がいくつか組み込まれた。このプロジェクトのために、ギルはローレンス・クリブやドナルド・ポッター英語版とともに、屋外入口のためにモアカム・シュリンプ(小エビ)をモデルにした2体のタツノオトシゴ、ホテル内の円形階段の天井にある円形の石膏レリーフ、イングランド北西部の装飾的な壁面地図、そしてエントランスラウンジのために海から帰還したオデュッセウスナウシカアーが迎える大きな石のレリーフを制作した[37]。モアカムでの制作中に、ギルはメイ・リーヴスと出会った。彼女はピゴッツの定期的な訪問者となり、その後そこへ移り住んで小さな学校を運営し、数年間にわたってギルの同居する愛人となった[2]:256

エルサレムとピゴッツ(1934年 - 1938年)

1934年、ギルはローレンス・クリブとともにエルサレムを訪れ、パレスチナ考古学博物館(現・ロックフェラー考古学博物館)での制作に携わった[2]:263[38]。両者は正面玄関上部にアジアとアフリカの出会いを描いた石造浅浮彫を施したほか、多様な文化を表現した10点の石のレリーフ、中庭のガーゴイル状の噴水を制作した。さらにギルは、館内の英語、ヘブライ語、アラビア語による石の標識も彫刻した[38]

『カナン人の文化』、ロックフェラー博物館、エルサレム、1934年

2度にわたるエルサレム訪問は、ギルの精神状態に多大な影響を及ぼした。人類が世界に与える影響への不満を強めるとともに、自らを社会を変革するために神に選ばれた存在であると確信するようになった[2]:263。帰国後、義理の息子であるデイヴィッド・ペプラーの死によりギルの悲観的な傾向は深まり、教会や他の芸術家に対する敵対心を強めていった[2]:265。しかし逆説的なことに、こうした絶望的な世界観を抱く一方で、ギルは長年反対していた現代的な生活設備や家庭用機器の利用を容認するようになった。ピゴッツの自宅には浴室が設置され、運転手や庭師が雇われ、秘書たちにはタイプライターの使用が許可された[2]:266。また、工房のスタッフに宗教的実践は求められなくなり、ウォルター・リッチー英語版など非カトリック教徒も新たな徒弟や助手として採用された[2]:249。チチェスター伯爵の娘であるプルーデンス・ペルハムは、ギルにとって唯一の女性徒弟となった[2]:250。ギルは生涯で、甥のジョン・スケルトン英語版ヒラリー・ストラットン英語版デズモンド・シュート英語版デイヴィッド・キンダーズリー英語版ドナルド・ポッター英語版など、少なくとも27人の徒弟を抱えた[8][23][39]

1935年のエッセイ「すべての芸術はプロパガンダである」(All Art is Propaganda) は、芸術家は政治活動に関与すべきではないという彼の従来の信念を完全に覆すものであった[2]:272。彼は社会信用論の支持者となり、のちに社会主義的な立場へと傾倒していった[40]。1934年には左派の国際芸術家協会英語版 (AIA) が主催する展覧会に作品を出品し、同展の作品が「反キリスト教的」であるという『カトリック・ヘラルド英語版』紙の非難に対して反論を行った[41]。1930年代後半を通じて、ギルは左派の集会やデモにおいて常に演説を行う人物となった[2]:273ファシズムには断固として反対し、イギリスのカトリック教徒としては数少なく、スペインの共和派英語版を公然と支持した[40]。さらに平和主義者となったギルは、E・I・ワトキン英語版ドナルド・アットウォーター英語版とともにカトリックの平和組織「パックス」(Pax) の設立に尽力した[42]。のちに平和誓約協会英語版 (Peace Pledge Union) に参加し、友和会英語版 (Fellowship of Reconciliation) のイギリス支部も支持した[40]

『人間の創造』、1938年

1936年に開館したピープルズ・パレス(現・ロンドン大学クイーン・メアリー校グレート・ホール)のファサードを飾る7枚の連作の浅浮彫パネルの制作を、ギルは委嘱された。1937年には、郵便当局向けにジョージ6世の最初の普通切手シリーズの背景をデザインした[43][44]。1938年、ギルはイギリス政府から国際連盟への寄贈品として、ジュネーヴのパレ・デ・ナシオンを飾る巨大な記念的作品の制作を依頼された[2]:275。ギルの当初の提案は、数年前にリーズで激しい非難を浴びた「両替商」のフリーズを国際的規模に拡張したものであったが、国際連盟の代表団から反対を受け、代替案を提出した。『人間の創造』を中心に、『人から神への贈り物』と『神から人への贈り物』が両側に配されたこの作品は、17の部分からなる3つの大理石の浅浮彫であり、ギルの生涯における単体作品としては最大規模のものであるが、彼の最高傑作の一つとは一般に見なされていない[2]:276[45]

1935年、ギルは王立英国建築家協会 (RIBA) の名誉準会員に選出され、1937年にはロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ (RSA) からデザイナーに対するイギリスの最高賞であるロイヤル・デザイナー・フォー・インダストリー英語版 (RDI) の称号を授与された。また、1938年にRSAのRDI部門が設立されると、その創設メンバーの一人となった[2]:271。1937年4月にはロイヤル・アカデミーの準会員に選出されている。彼が生涯を通じて公然と批判してきた機関から、なぜこれらの栄誉が与えられ、またギル自身がそれを受け入れたのかは明らかではない[1]

晩年の作品(1939年 - 1940年)

ゴールストン=オン=シーの聖ペトロ教会英語版(1938年 - 1939年)
聖ゲオルギオスとイングランドの殉教者礼拝堂の祭壇、ウェストミンスター大聖堂

1938年から1939年にかけて、ギルは自身にとって唯一の本格的な建築作品、ゴールストン=オン=シー英語版カトリック使徒聖ペトロ教会英語版を設計した[1]。彼は中央に祭壇を据える形で建物を設計したが、当時のカトリック教会において祭壇を東端に配置する慣習から大きく逸脱する急進的な試みと見なされた[2]:280

ギルの晩年の出版物には『二十五の裸体』や『写生素描集』などがあり、いずれにもギル家の家政婦の10代の娘であるデイジー・ホーキンスの素描が含まれていた。ギルは1937年から彼女と関係を持ち[1]、その関係は2年間続いたが、その間ほぼ毎日彼女を描いていた。ホーキンスがピゴッツからベティ・ギルが運営するカペル=イ=フィンの下宿屋へ送られた際、エリック・ギルは関係を続けるべく彼女を追って同地へ向かった[2]:284

ギルの晩年の彫刻作品の中には、ギルフォード大聖堂英語版からの一連の依頼が含まれる。1939年10月から12月にかけてギルフォードに滞在し、足場の上で洗礼者ヨハネの像を彫った[1]。また、オックスフォードの聖公会聖アルバン教会のために「十字架の道行き」を描いた一連のパネル制作にも取り組み、死の3週間前に下絵を完成させ、自身で9点を仕上げた[46][30]。ウェストミンスター大聖堂の「聖ゲオルギオスとイングランドの殉教者礼拝堂」では、祭壇背後の壁面を埋める浅浮彫を設計した[16]。ギルの意匠は、トマス・モアジョン・フィッシャーを従えた、十字架上の等身大のキリストを描いたものであった[16]。ギルは作品の完成前に死去したため、ローレンス・クリブが仕上げを任された。大聖堂当局は、ギルの当初のデザインからペットの猿の像を取り除くようクリブに求めた[16]。後に礼拝堂が一般公開された際、ギルの遺作に対するこの検閲は相当の物議を醸した[16]

1939年末から1940年中頃にかけて、ギルは風疹を含む数々の病気を患ったが、その夏に自伝を書き上げた[1]。1940年11月17日の日曜日の朝、ミドルセックス州のヘアフィールド病院英語版にて肺癌により死去した。ピゴッツの礼拝堂での葬儀ミサの後、スピーンのバプテスト教会墓地に埋葬された[1]

ギルの死後、100点以上の石彫やレリーフ、1,000点の版画、彼が制作した数々の書体デザイン、そして書籍や記事、小冊子を含む300点の印刷物に加え、750点以上にのぼる彫刻碑文の目録が作成された[2]:294

小児性愛、近親相姦、および性的虐待

ギルは自身の個人的な日記の中で、思春期の娘たちに対する性的虐待、少なくとも一人の姉妹との近親相姦の関係、そして犬との性的関係についても記述している[4][10][47]。1989年にこれらの事実が公になって以来、公共の建物や美術コレクションからギルの作品の撤去を求める声が上がっている。ギルの私生活におけるこのような側面は、フィオナ・マッカーシー英語版による1989年の伝記が出版されるまで、広く知られることはほとんどなかった[48]ロバート・スペエイト英語版による1966年の伝記では、これらの件については一切触れられていない[48]

マッカーシーの伝記が出版された当時に存命であったギルの娘、ペトラ・テゲトマイヤーは、父親が「性に対して尽きることのない好奇心」を持っていたが「私たちはそれを単に当たり前のこととして受け止めていたにすぎない」と述べており、友人のパトリック・ナトゲンス英語版には恥ずかしいとは感じていなかったと語っていた。子供たちは家庭で教育を受けており、テゲトマイヤーによれば、当時の彼女は父親の行動が他人の目にどう映るか気づいていなかったという[17][49]。この伝記は高い評価を受け、出版後にギルの性生活の側面に対する強い嫌悪感が広がったが、マッカーシーはテゲトマイヤーがまだ存命中にもかかわらずギルの近親相姦を明らかにしたことで一部から批判を受けた[50][51]。一方で、バーナード・レヴィン英語版のように、マッカーシーがギルに対して擁護的すぎると考える者もいた[48]。マッカーシーは次のようにコメントしている。

最初の衝撃の後、(中略)1980年代後半にギルの姦通、近親相姦、そして飼い犬との関係の過去が公知のものとなるにつれ、その結果として行われた彼の人生と芸術の再評価によって、彼の芸術的評価はむしろ高まった。ギルは、20世紀において最も奇妙で最も独創的な論客の一人として浮かび上がり、ますます物質主義的になる文明における人間の神への継続的な必要性、そして軽薄さが広がる時代における知的活力の重要性を訴える、時に苛立たしくも常に人を惹きつける代弁者となった。[1]

マッカーシーの暴露にもかかわらず、数年間は芸術家としてのギルの名声は高まり続けたが、他の著名な小児性愛事件の発覚を受けて状況は変化し、ギルの作品の撤去を求める団体や個人が現れるようになった[52]

1998年、聖職者による性的虐待被害者団体 (Ministers and Clergy Sexual Abuse Survivors) が、ウェストミンスター大聖堂からギルの『十字架の道行き』を撤去するよう求め、イギリスのカトリック系メディアで論争を引き起こした[47][3]。スコットランドのダンバートンにあるセント・パトリックス・カトリック教会からは、ギルによる大天使ミカエルの彫像の撤去を求める声が上がった[52]。2016年、ディッチリング村の戦争記念碑のそばに、ギルがその記念碑の制作者であることを記す銘板を設置するという提案に対し、一部の住民が反対した[52][53]。2022年1月には、ある男がブロードキャスティング・ハウスのファサードに登り、『プロスペロとアリエル』の彫像をハンマーで破損させ、その間別の男がギルの小児性愛について叫んだ[54][55]。それ以前にも、およそ2,500人がBBCに同作品の撤去を求める署名を行っていた[56]。2023年5月、この彫像はハンマーを持った男によって再び損壊された[57]。2025年4月以降、修復された彫像はさらなる損傷を防ぐために保護用のガラスケースに収められている[58]ギルフォード大聖堂英語版は2022年2月、同建物内にあるギル作の洗礼者ヨハネおよび十字架上のキリストの彫像について、「新たな解釈」を検討していると発表した[59]セーブ・ザ・チルドレンを含むいくつかの組織は、ギルがデザインした書体の使用を停止する方針を決定した[60]

2017年、ジャーナリストのレイチェル・クック英語版がギルの作品を所蔵する美術館に対し、虐待の暴露が展示方針にどのような影響を与えたかを尋ねたところ、大半の美術館は対応を拒否した[52]。例外として、イースト・サセックス州のディッチリング美術館英語版があり、同館はギルの作品のほか、ギル家関連資料を多数所蔵している。2016年10月、同館は芸術家、キュレーター、ジャーナリストを招き、展示プログラムにおいてギルの行動をどのように扱うべきかを議論するワークショップ「Not Turning a Blind Eye(見て見ぬふりをしない)」を開催した[52]。この結果、2017年に展覧会「エリック・ギル:ザ・ボディ」が開催され、同館は常設展の中にギルの問題行為に焦点を当てた展示を少なくとも1つ含めることを約束した[52][61]。2022年、『オブザーバー』紙は、同館が展示におけるギル作品の扱いを縮小する方向にあると報じた[62]

書体と碑文

1909年、ギルはエドワード・ジョンストン編纂の書籍『学校・教室および職人のための写本および碑文文字』(Manuscript and Inscription Letters for Schools and Classes and for the Use of Craftsmen) のためにアルファベットと数字の図版を制作した。その後、王立芸術学院の学生が利用できるよう、これらをヴィクトリア&アルバート博物館に寄贈している。1914年、ギルは後にモノタイプ社のタイポグラフィ顧問となるタイポグラファーのスタンレー・モリソンと出会った。モリソンからの依頼により、1927年から1930年にかけて「Gill Sans(ギル・サン)」書体を設計した[63]。Gill Sansは、もともとロンドン地下鉄のために設計されたサンセリフ体のレタリングを基にしている。ギルはロンドン地下鉄書体の初期設計においてエドワード・ジョンストンと協力していたが、完成を待たずにプロジェクトから離脱していた。1925年にはモリソンのために、大文字がローマ碑文に基づく書体「Perpetua英語版(パーペチュア)」を設計した。ウェスト・サセックスポーリング英語版にある教会の身廊には、ハリー・ジョンストン英語版卿の生涯を記念する銘板があり、ギル自身がPerpetuaの様式でデザインして彫った実例を見ることができる[要出典]。1930年から1931年にかけては書体「Joanna英語版(ジョアンナ)」を設計し、自身の著書『タイポグラフィに関するエッセイ英語版』(An Essay on Typography) の手動植字に用いた。

その他のギルの書体には以下のものがある。

  • Golden Cockerel Press Type(ゴールデン・コッケレル・プレス・タイプ、1929年)[64] ゴールデン・コッケレル・プレス英語版向け。木版画に調和するよう、ギルの他の書体よりも太く設計されている[65][66][67][68][69]
  • Solus英語版(ソーラス、1929年)[70][64]
  • Aries(アリエス、1932年)[64]
  • Floriated Capitals(フローリエイテッド・キャピタルズ、1932年)[64]
  • Bunyan(バニヤン、1934年)
  • Pilgrim(ピルグリム、1953年) Bunyanの改刻版[64]
  • Jubilee(ジュビリー、1934年) 別名Cunard(キュナード)[64]

これらの年代は厳密なものではない。というのも、ギルがデザインを作成してから、モノタイプ社の製図部門が字間などの詳細を詰めて最終化し、金属活字として鋳造されるまでには長い時間がかかる場合があったためである[71]。さらに、Joannaなどの一部の書体は、モノタイプ社から広く提供されるようになるはるか以前に、ファイン・プリンティング(高級印刷)向けとして用いられていた。

イギリスで最も広く普及した書体の一つであるGill Sansは、ペンギン・ブックスのクラシックなデザイン様式や、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道、のちのイギリス国鉄などで採用された。また、ギルの生前および没後に、モノタイプ社によって多くの派生スタイルが追加制作されている[71]。1990年代には、BBCが自社のワードマークやテレビのオンスクリーン・グラフィックの多くにGill Sansを採用した。

「Gill Facia(ギル・ファキア)」ファミリーは、コリン・バンクス英語版がギルの石彫デザインを模して制作したもので、小サイズ用と大サイズ用で異なるスタイルが用意されている[72]

ギルはまた、モノタイプ英語版ライノタイプ鋳植機で使用可能な字形(アログラフ英語版)の数に制限を設けた書体の開発も依頼されていた。この書体はアラビア文字のナスフ体を緩やかに踏襲したものであったが、アラビア文字の規範から許容できないほど乖離していると見なされた。その結果、不採用となり、活字として実用化されることはなかった[73][74][75]

出版物

ヒラリー・ペプラー英語版著『悪魔の装置、あるいは支配と奉仕』の挿絵、1915年

ギルは、芸術と宗教の関係に関するエッセイを多数発表したほか、エロティックな版画も出版している[76]

出版された主な著作は以下の通りである。

『雅歌』
  • 『キリスト教と芸術』(Christianity and Art) 1927年
  • 『アート・ノンセンスその他のエッセイ』(Art-nonsense and other essays) 1929年(ポケット版は1934年、カッセル社)
  • 『衣服:男女が身に着ける自然および人工の被膜の性質と意義に関するエッセイ』(Clothes: An Essay Upon the Nature and Significance of the Natural and Artificial Integuments Worn by Men and Women) 1931年[77]
  • タイポグラフィに関するエッセイ英語版』(An Essay on Typography) 1931年[78]
  • 『美は自らを保つ』(Beauty Looks After Herself) 1933年
  • 『失業』(Unemployment) 1933年
  • 『金銭と道徳』(Money and Morals) 1934年
  • 『芸術と変わりゆく文明』(Art and a Changing Civilization) 1934年
  • 『労働と余暇』(Work and Leisure) 1935年
  • 『信仰の必要性』(The Necessity of Belief) 1935年
  • 『労働と財産』(Work and Property) 1937年[79]
  • 「労働と文化」(Work and Culture) 『王立技芸協会誌』掲載、1938年
  • 『二十五の裸体』(Twenty-five nudes) 1938年[80]
  • 『では誰が平和を望むのか』(And Who Wants Peace?) 1938年
  • 『聖と俗』(Sacred and Secular) 1940年
  • 『自伝 (Quod Ore Sumpsimus)』(Autobiography: Quod Ore Sumpsimus)[81]
  • 『郵便切手に関する覚書』(Notes on Postage Stamps)[82]
  • 『キリスト教と機械時代』(Christianity and the Machine Age) 1940年[83]
  • 『バーミンガム美術学校について』(On the Birmingham School of Art) 1940年
  • 『最後のエッセイ』(Last Essays) 1943年
  • 『労働の神聖な伝統:エリック・ギルの著作からの抜粋』(A Holy Tradition of Working: passages from the writings of Eric Gill) 1983年[84]

また、以下の書籍などで木版画や挿絵を手がけている。

  • Gill, Eric (1925). Song of Songs. Waltham St. Lawrence, Berkshire: Golden Cockerel Press. https://archive.org/details/song-of-songs-gill-images 
  • The Four Gospels. Golden Cockerel Press. (1931) (1987年にウェリングバラのセプテンバー・プレスよりファクシミリ版刊行)
  • Chaucer, Geoffrey (1932). Troilus and Criseyde. Translated by Krapp, George Philip. New York: Literary Guild.
  • Shakespeare, William (1939). Henry the Eighth. New York: Limited Editions Club 
  • The Passion of Our Lord Jesus Christ, according to the four evangelists. Hague & Gill Printers. 1934 Faber & Faber

アーカイブ

1952年、ギルの未亡人は、ほぼすべての版画の刷りや関連する素描を含む、彼の版画作品の資料ファイルをヴィクトリア&アルバート博物館に寄贈した。その後、ダグラス・クレヴァードン英語版からの寄贈により、コレクションはさらに拡充された。このコレクションは、1963年に出版されたジョン・フィジック作成によるギルの版画作品目録の基礎となっている[85]

ギル家の意向により、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) にあるウィリアム・アンドリュース・クラーク記念図書館英語版が原稿および書簡の保管場所に指定されており、ギルの文書や蔵書は同館にアーカイブされている[86]。また、彼の蔵書の一部は、インターネットアーカイブの一環としてデジタル化されている[87]。ギルと彼の作品に関連するその他のアーカイブや蔵書コレクションは、ウォータールー大学図書館[6]およびノートルダム大学ヘスバーグ図書館英語版に所蔵されている[88]。ギルの作品や記念品の多くは、ディッチリング美術館英語版に所蔵・展示されている。

注釈

脚注

参考文献

外部リンク

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