Three Way Piece No. 2 (The Archer) (1964-65) ブロンズ, トロント 市役所プラザ
ムーアはイギリスのウェスト・ヨークシャー のカッスルフォード で、レイモンド・スペンサー・ムーアとメアリー・ベイカーの8人の子供の7人目として生まれた。彼の父親はカッスルフォードのウェルデール(Wheldale)炭坑 の下級のマネージャーから鉱山技師になった人物である。彼は音楽や文学に関心を持っていたが独学であったため、子供らには公的な教育を受けさせ上達させるよう腐心した。
ムーアはわずか11歳の時、中学校で粘土や木による造形を美術教師に褒められたのをきっかけに彫刻家になることを決心した。早くから前途有望であったにもかかわらず、両親は彫刻を手工業的な労働として認めなかった。
1917年 、18歳になると第一次世界大戦 に志願兵として従軍した。彼は所属するライフル部隊の中で最も若かった。その後の戦いの中で毒ガス により負傷したが、回復は早く戦争の残りの期間、体育インストラクターとして過ごすことになる。同時代の平均的な人に比べ彼の戦争体験はおだやかなものであった。彼は当時を回顧して「私にとって戦争体験は漠然と英雄になろうと夢見ていたように思う。」と言っている。
戦後、退役軍人の手当を受け取ったあとリーズ芸術学校の彫刻の最初の生徒となった。学校は彼のために彫刻のアトリエを作らねばならなかった。
大きな四つの部分からなら横たわる像 (1973) ブロンズ, サンフランシスコ 、ルイス・デイビス・シンフォニーホール
リーズ学校で、ムーアは長年の友となるバーバラ・ヘップワース と出会った。さらに幸運にも副学長であったマイケル・サドラー卿の紹介によるアフリカ の民俗彫刻にも出あうことになる。
1921年 にはロンドン の王立芸術大学(Royal College of Art:RCA)で学ぶための奨学金を得る。ロンドンで過ごす間、彼はヴィクトリア&アルバート美術館 と大英博物館 で民俗学資料の収集を行い原始的な美術、彫刻についての知識を蓄積していった。ムーアとヘップワースの初期の彫刻はロマン主義 のビクトリア朝 スタイルに従ったものであり主題は自然のかたちや風景、象徴的な動物のモデリングであった。ムーアは古典的な考え方をだんだん不快に感じるようになっていった。プリミティブ主義に対する関心とコンスタンティン・ブランクーシ 、ヤコブ・エプスタイン 、フランク・ドブスン など他の彫刻家などの影響もあり彼は直彫り(ダイレクト・カーヴィング)のスタイルを開拓していく。完成した直彫り彫刻には材料の欠点や工具の削り痕などが残ったものとなる。そういった現代風の方法を評価しない学校の指導教官との争いも起こった。
ムーアの最初の公共の仕事Moore' 西の風 (1928-29) は8個の風のレリーフの一つで他の彫刻は同時代の彫刻家の作品である
ロンドンへ戻るとすぐに RCAで教育する側になり7年間にわたり講義をおこなった。講義は週2日でよかったため自分の仕事に多くの時間を使うことができた。1929年 7月には絵の学生であったイリーナと結婚した。イリーナは1907年3月26日にキエフ でポーランド系ロシア人の両親から生まれた。ロシア革命 の中で彼女の父親は行方不明となり母はイギリスの陸軍士官と再婚しパリへ避難した。イリーナはその1年後にパリへ密入国し16歳になるまでパリの学校で学んだ。その後、継父の親戚と住むため彼の故郷であるバッキンガムシャー へ行くことになる。このような問題の多い幼年期を過ごしたため彼女は多少内向的な性格であったとのことである。しかしムーアとの結婚生活が彼女の心に安らぎもたらし明るく振舞うようになった。
結婚してすぐに二人はハムステッドに移り住んだ。そこは前衛的な芸術家たちが小さな集団を作りそこを根城に活動を始めている場所であった。ほどなくヘップワースと彼女のパートナー、ベン・ニコルソン が引っ越してきた。ナウム・ガボ や美術評論家のハーバート・リード もまたその地区に住んでいた。このことはアイデアのさかんな交流をもたらすとともにリードによるムーアの知名度の向上をもたらした。
1930年代 の初めムーアはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となった。ムーアとヘップワース他のメンバーはフランス へ度々旅行しピカソ やアルプ 、ジャコメッティ などフランスの芸術家と会うことで影響を受け、より抽象的な作品を生み出すようになった。1933年 、ムーアはポール・ナッシュ とともシュルレアリスム にも手を出しそのグループであるユニット・ワン に入った。
二つの部分からなる横たわる像 No. 5 , Bronze (1963– 64), ケンウッド・ハウス のグランド, ロンドン
この創造的で生産的な期間は第二次世界大戦の勃発で終わってしまう。チェルシー芸術学校はノーサンプトンへと疎開させられムーアは教職を辞すことになった。戦争中ムーアは戦争画家に任じられ、空襲を避けロンドン地下鉄 や防空壕などで寝泊まりするロンドンっ子の絵を力強くたくさん描いた。 その成果は彼の国際的、特にアメリカでの評判を高めることになった。
ハムステッドの彼らの家は爆撃で破壊されたためムーアとイリーナはロンドンを脱出しハートフォードシャーのマッチ・ハダムという小さな村の農家に移った。そこは彼にとって最後の作業場、そして安住の地となった。その後の人生で大きな富も得ていくがより広いところへ引っ越ししようとも、たくさん建て増ししようともせず、作業場をわずかに変更する程度であった。
戦後、数回の流産ののちイリーナは娘メアリーを出産した。1946年 3月7日 のことであった。この子は数年前に亡くなったムーアの母親の名前を譲り受けた。ムーアは母の死と娘の誕生で家族への思いやりの心を一層強くし、母と子供の像の増産に拍車がかかった。もっとも依然として横たわる像もポピュラーではあったのだが。同じ年、ニューヨーク近代美術館 の自分の回顧展のためアメリカへ最初の訪問をした。また1948年 にはヴェネツィア・ビエンナーレ 展で国際彫刻賞を受賞している。
家族 (1950) ブロンズ, バークレイ学校、大戦後の最初の大きな依頼案件
戦争の終わりごろ、州立大学の教育を改善しようとしていたヘンリー・モーリスが接触してきた。ケンブリッジ近くに2番目の大学を建てるにあたりヴァルター・グロピウス に建物を、ムーアに大規模な公共彫刻を依頼してきた。しかし、州議会はグロピウスの設計の全体像を認可する余裕がなく当人がアメリカ移住してしまったこともあり計画を縮小してしまった。ムーアへの彫刻依頼も資金難からキャンセルされ計画は初期段階でストップしてしまった。幸い1950年 、スティビニッジに作られたニュータウンの中学校のためにその時のデザインを再利用することができムーアにとってのプロジェクトは完了した。このとき制作した「家族」は最初の大きな公共の場所のブロンズ像となった。
1950年代 にムーアはパリのユネスコ の建物(1957年 )を含めますます重要な依頼を受けるようになった。多数の公共の彫刻の依頼でムーアの作品はますますスケールアップしてゆき、アンソニー・カロ を含め多数の助手を雇うようになった。
シカゴ大学 のキャンパスでは、1967年 12月2日 午後3時36分、エンリコ・フェルミ の率いる物理学者のチームが史上初の自立的核分裂連鎖反応 を起こすことに成功してからちょうど25年経ったその時刻に、かって大学のフットボールグラウンドであった場所、すなわち核実験がその地下で行われた場所の真上で、ムーアの像「核エネルギー」(アトム・ピース)が公開された。広場の真ん中にある12フィートの像の上部は象の頭蓋骨のデッサンからインスピレーションを受けたきのこ雲を連想させるフォルムから成立つ。しかしムーアの解釈は異なり、「まわりの広いスペースにも目をむけ、その周りを巡りながら教会の中にいるような気持ちになってほしい」と友人に語ったという。
1968年 、エラスムス賞 受賞
晩年にいたる30年間も同様なものであった。その間何回かの大きな回顧展が世界中で開かれた。1970年の終わりまでに年間約40回の展覧会が行われた。とりわけ1972年フィレンツェ を見下ろすベルベデーレ砦の広場での展覧会は大きなものであった。
仕事の量は増え続け、1962年 にはロンドンの国会議事堂のそばの敷地に「2つの部分からなるナイフ・エッジ」を完成させた。ムーアは次のようにコメントしている。
「上院の近くの敷地を示されたとき、そこが非常に気に入りハイドパークの代替地はわざわざ見に行かなかった。大きな公園の中にぽつんと置かれた彫刻は見失われがちになる。上院の方はそうではなく、人通りのある通りのそばで歩きながらでも、あるいはベンチに腰掛けてゆっくり考えながら眺めることもできる。」
彼は自分の資産が劇的に増えていくにつれて、自身の生活は相変わらずだったが、遺産については心配しはじめた。1972年 娘のメアリーの支援もあり相続税対策としてヘンリー・ムーア・トラストを作った。1977年 まで彼は年間約100万ポンドの税を払っていたがその負担を軽減するためイリーナ、メアリーを受託者としてチャリティ事業組織としてヘンリー・ムーア財団を設立した。財団は大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としており、現在ギャラリーとムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)を運営している。
1951年 にナイト の称号を打診されたが辞退している。その後1955年 コンパニオンオブオーナ勲位と1963年 にメリット勲位を受けている。
1986年 8月31日、ハートフォードシャーの自宅で死去、88歳であった。遺体はセントポール寺院の芸術家のコーナーに葬られている。