キタキツネ物語

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キタキツネ物語(キタキツネものがたり)は、1978年に公開された日本のドキュメンタリー映画である[1]1980年代に流行した動物映画の先駆けとされる[2][3]

2013年、公開35周年記念と銘打ってリニューアル版が上映された[1][4]

厳しい自然の中で生きるキタキツネたちの生態をとらえた、日本映画初の動物ドキュメンタリー映画[5]として話題を呼んだ。北海道オホーツク海沿岸を中心に北見市釧路市網走市紋別市小清水町で4年かけて撮影され[3]1978年7月15日に公開。大ヒットした[6]。配給収入は9億7000万円[7]、観客動員230万人[3]1979年8月10日フジテレビジョンの「ゴールデン洋画劇場」でテレビ放映があり[8]視聴率44.7%を記録した[3][5]2003年1月24日に放映された『千と千尋の神隠し』の初放送46.9%まで長くトップだった[3]

公開から35年後の2013年、東北地方太平洋沖地震による被災地の力強い復興の様を、厳しい自然を生き抜くキタキツネに重ね合わせた前作のチーフ助監督だった三村順一監督、及び製作陣たちは、震災への思いと未来を託す子供たちへの願いを込め、完全なる新作として作り直すことを決意[4]。35年前の未公開分フィルム全77巻分(約50万フィート、100時間分)を検証し、それを含む全撮影分フィルムをデジタル修復し再編集、声や音楽も全面的にリニューアルした[4]。劣化が激しいフィルムはハリウッドのラボで高画質化[4]。「公開35周年記念リニューアル版」として2013年10月19日に公開された[5]。オリジナルは114分だったが、新作は97分となっている[6]

ヴォイスキャスト

クレジットタイトル

1978年版

スタッフ

1978年版

エンドクレジット

製作

企画

キタキツネの観察と撮影を行っていた獣医師写真家竹田津実が企画[3]。竹田津によるキタキツネの記事を掲載した動物雑誌『アニマ』の編集長だった高橋健[3]、1974年当時「ハローキティ」などのキャラクタービジネスで勢いに乗るサンリオに企画を持ち込んだ[3]。竹田津の撮った動物写真を辻信太郎サンリオ社長も気に入り、ゴーサインが出た[3]

撮影

当初は竹田津に8ミリカメラを渡してキタキツネの撮影を始めたが[3]、竹田津も動画の撮影はやったことがなく、もう少し本格的に映画を作ろうと規模が大きくなった[3]。竹田津は「動物監督」としてクレジットされているが、当初は竹田津が監督だった[3]。このタイミングで仙元誠三にカメラの依頼があった[3]。この時点ではプロデューサーに演出の片桐康夫、撮影部も二人で助手がBキャメも兼任で回すほどの少数スタッフだった[3]。竹田津は自宅でキツネやタヌキを飼っていて、仙元たちが最初に竹田津家を訪ねた日に「これからキツネの撮影をするに当たってキツネを食ってくれ」と言われ皆で食べた[3]

素材映像の撮影に4年、その後、竹田津が飼育していたキタキツネの映像が撮影されて、製作された[10]。撮影は大半民家も近い人の生活圏で撮影されており、後のロードムービー仕立てや極地で撮った動物映画に比べれば、製作費はそれほど高くなかったかもしれない。

当時の宣伝資料によれば1974年から約4年かけて撮影されたと書かれているが[3]、蔵原惟繕が50歳になってから撮り始めたと話していることから[11]、蔵原監督の撮影参加は1977年5月以降と見られる。本作のスタッフが1983年の『南極物語』に7人参加しているが[3]、撮影の仙元は「当時は大作の体制ではなく、純然たる動物ドキュメンタリーだった」と述べている[3]小清水町宿にスタッフが泊まり込んで撮影を行った。最初の一年間の撮影は仙元がほとんどやった[3]四季の出来事はほとんど仙元が撮ったという[3]。キツネは警戒心が強い生き物で、ちょっとした物音でも察知して逃げていく。このため撮影は機動性のある16ミリと劇映画用の35ミリのキャメラを併用した。我慢強く撮影を続けているうちに、キツネたちも警戒心が薄れ、子ギツネがキャメラの傍らに来るようになったという[3]

四季を通じた一年の撮影が終わり、撮影したフィルムは編集されたが、それを見たサンリオの反応は芳しくなかった[3]。サンリオから「キタキツネの生態をもっと観客がドラマとして見れるように、もっとドラマチックに撮って欲しい」という要望が出た[3]。あらかた撮っていたことからドラマチック部分を足そうとなった。そこで監督オファーを受けたのが蔵原惟繕[3]。1969年の『栄光への5000キロ』で仙元はB班監督を務めたことから、再撮影にも誘われたが、仙元はこの後、東映セントラルフィルムの立ち上げに参加したことから忙しく[12]、参加できなかった[3]。オーラスの密猟者がキタキツネを殺戮するシーンは仙元が撮ったものではないという[3]。仙元は完成版を観て「スポンサーに要望通りの展開になったな」と思ったという[3]。当初の純然たる動物ドキュメンタリーは動物映画大作になった[3]

冒頭の字幕で8月末の分散後、キタキツネの子供が翌年の春まで生き残るのはわずか7%にしか過ぎないと出るため、子供5匹は全部死ぬのだろうと予測させる。キタキツネの出産、子育てが三分の一程度進み、可愛いキタキツネファミリーがふんだんに映された後、急に子ギツネの一匹・チニタが喋り出し驚かせる。この目の不自由なチニタが雨に打たれるシーンを捉えて、子供の声が被さり「行きたいんだ…父さんが渡って来たあの海の向うへ」と言う。ドキュメンタリー映画とされるが過剰な演出が加えられたドラマ仕立て[3][13]。その後チニタをオホーツクを臨む断崖の上に立たせ、チニタは「父フレップが渡って来たという海の向こうから誘われたのでしょう」と岡田英次のナレーションが入る。「チニタ行って(逝って)しまったのね」と母ギツネレイラの声が入り、以降のチニタは映されることなく、岡田のナレーションで「チニタの魂は、カモメのように空へ舞い上がっていったのです」とチニタの死が暗示され、キタキツネファミリーの単にはしゃいで遊ぶ様子が映り「その夜、悲しげな子ギツネたちの鳴き声は一晩中止むことはありませんでした」と入る。小屋の中のニワトリがキツネに襲われるシーンは演出[3]。ニワトリの脚をテグスで結び杭に固定し、ニワトリが一気に逃げないようにした[3]。キツネがスズメや野鳩をキツネが咥えるシーンも同じような演出。仙元は約一年撮影をしたと述べている[3]

役者が芝居している最中に音楽がかかるのではなく、キツネが走り回るシーンに音楽がかかるため、かなり音楽が押し出される。レイラが足をに挟まれ、逃げ回る間、苦しむキツネの顔をクローズアップさせながら、過去の思い出がフラッシュバックされる。このシーンでも朱里エイコなのか歌がかかる。レイラが絶命するシーンで、大林丈史なのか「お前の命を奪った者が憎い。太陽が憎い」とナレーションが入り、夕陽をバックにはしゃぎ回るシリカを映し「悲しむなシリカ。悲しんではいけないんだ」とナレーションが入る。陽が沈んだところで岡田英次のナレーションで「夕陽は沈みました。子供たちの深い悲しみ。フレップの激しい怒りを残して、レイラの魂いはチニタのところへ飛び去って行きました」と入る。後半、子別れしてからは岡田のナレーションの連続で話が展開される。エンディング他、何度か劇中にかかる町田義人歌唱による「赤い狩人」はバズ日産・スカイラインCMソングケンとメリー〜愛と風のように〜」風。

宣伝

日本初の「動物大作映画」として宣伝された[3]

エピソード

本作の「完成披露試写会」で、ナレーションの岡田英次と蔵原監督が「あそこを切りたい、ここを手直ししたい」と連発しておヒラキの挨拶後に辻サンリオ社長がマイクの前に進み出て「心外です」と怒り、会場内が異様な空気に包まれた[14]

関連書籍

  • キタキツネ北辺の原野を駆ける 竹田津実 [撮影] 平凡社 1974
  • キタキツネの詩 竹田津実 文と写真 サンリオ 1977
  • こっちゃんときたきつね 竹田津実 しゃしん,たかはし・けん ぶん ポプラ社 1977(ポプラ社しゃしんえほん)
  • 五つ子きつね : キタキツネのひとりだち 高橋健 著,赤坂三好 画 小学館 1977(小学館の創作理科シリーズ)
  • 跳べキタキツネ 竹田津実 著 平凡社 1978
  • キタキツネ物語 高橋健 文 サンリオ 1978 - フィルムブック
  • キタキツネのチロン 高橋健 作,井口文秀 絵 小峰書店 1978(こみね創作童話) - 原作
  • こおりの海をわたってきたキタキツネ 高橋 健 著, 上矢津イラスト サンリオ 1983 - 原作

ヴォイスキャスト

スタッフ

脚注

外部リンク

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