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キルギクテニ

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キルギクテニ・カトンモンゴル語: Kirgiqteni qatun、生没年不詳)は、モンゴル帝国第2代皇帝(カアンオゴデイの后妃の一人。『元史』后妃表では乞里吉忽帖尼三皇后と表記される。

漢文史料での記録

『元史』宗室世系表では「乞里吉忽帖尼(キルギクテニ)三皇后」として名をあげられ、大皇后・二皇后に継ぐ地位の后妃であったことが確認できる[1]

キルギクテニの動向についてはほとんど記録がないが、『元史』憲宗本紀の憲宗2年(1252年)夏条にのみ僅かな言及がある[2]。この年、憲宗モンケ・カアンオゴデイ家の所領をオゴデイの七子に分割相続させる措置を取っており、その中で「モンゲトゥ及び太宗皇后キルギクテニはコデンの居住地の西に遷された」との記録がある[3][2]。モンゲトゥはコデンの息子であるため、晩年のキルギクテニはコデンの一族とともに、コデンの領地附近に住まった事が分かる[2]

この記述に基づき、『蒙兀児史記』を編纂した屠寄はキルギクテニがコデンの生母であると見なしており、これが現代に至るまで定説となっている[2]

ペルシア語史料での記録

キルギクテニはモンゴル帝国史研究で最も重要な『集史』にほとんど記載がなく、その来歴・事蹟は全く不明である。一方、『集史』と同時期に編纂されたペルシア語系図史料『五族譜』にはキルギクテニに相当するとみられる人名が見られるが、後述の通りその解釈には諸説あって定まっていない。

劉迎勝説

中国人モンゴル史研究者の劉迎勝は2019年に発表した論文の中で『元史』の后妃表に太祖チンギス・カンの妻として「闊里桀担皇后」という名前が挙げられていること[4]に注目し、この人物こそ「乞里吉忽帖尼三皇后」と同一人物であるという説を発表した[5][6]

実際に、『五族譜』のオゴデイ后妃表には「闊里桀担」に対応する人名としてکورکنه(Kürgine)の名が挙げられ、「チンギス・カンから継承した」と注記されるため、「オゴデイがキョルゲネという名の、元チンギス・カンの妻」をレビラト婚で娶っていたことは間違いない[6]

また、「闊里桀担皇后」は「孛児台旭真太皇后の大斡耳朵(=ボルテ・ウジンの差配するチンギス・カンの第一オルド)」で3番目に名前が挙げられていることから、「三皇后」という称号はオゴデイの后妃の中での序列でなく、チンギス・カン時代の序列をそのまま継承したものではないか、と推測している[7]

宝音徳力根説

宝音徳力根(Buyandelger)は2024年発表の論文の中で劉迎勝の説を取り上げ、「オゴデイがキョルゲネという名の、元チンギス・カンの妻を娶った事」は事実としつつも、「乞里吉忽帖尼」と「闊里桀担(Kurgine)」では語音・語義ともに一致せず同一人物と見なす蓋然性が低いと批判した[2]

Buyandelgerは『五族譜』のオゴデイ后妃表に見えるقرقنی(Kirgini)こそ「乞里吉忽帖尼」に対応する名称としてふさわしいとし、その原音をKirgiqteniもしくはKirgiteniと解釈する[2]

また、『元史』とペルシア語史料の間で差異のある皇后間の序列については次のように整理している。恐らく、オゴデイは当初父を見習って「四大皇后(ボラクチンアルクイ・キルギクテニ・ジャチン)」を立てたが、後に二名(モゲドレゲネ)を増やして「六大皇后」とし、その序列が『元史』に一部記載された[8]。しかし、二皇后アルクイらが早くに亡くなったため、恐らくはその穴を埋める形で六皇后ドレゲネと四皇后ジャジンが地位を向上させ、結果として『集史』は最後に残った4人(ボラクチン・ジャチン・モゲ・ドレゲネ)の皇后のみを記録したものであると[8]

脚注

参考文献

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