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ボルテ

モンゴル帝国の女性、チンギス・カンの后 From Wikipedia, the free encyclopedia

ボルテ・ウジン(モンゴル語: Бөртэ үжин, ラテン文字転写: Börte Üjin、生没年:1151年/1161年 - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后(カトゥン)で第一オルドの主[1]。コンギラト部族のボスクル氏族出身[3]。

別称 光献翼聖皇后
出生 1161年もしくは1151年[注釈 1]
子女 #子女を参照
概要 ボルテ Börte, 別称 ...
ボルテ
Börte
チンギス・カンの第一カトゥン

別称 光献翼聖皇后
出生 1161年もしくは1151年[注釈 1]
配偶者 チンギス・カン
子女 #子女を参照
氏族 ボスクル
父親 デイ・セチェン
母親 チョタン[2]
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名前について

漢字表記は孛児帖、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではبورته فوجين, Būrta Fūjīnと表記される[1]。「ボルテ(Börte)」とはモンゴル族の始祖「蒼い狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じく、「蒼い」「灰青色」の意[1]。「ウジン」とは漢語の「夫人」に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である[1]。のちに元朝からは光献翼聖皇后と諡名される(後述)[4]。

生涯

生まれ

コンギラト部族ボスクル氏族長のデイ・セチェンとチョタンとの娘として生まれる[3]。『集史』コンギラト部族志によると、アルチ・ノヤンとホク・ノヤンという二人の兄弟がいたという[5]

テムジンとの縁談

1171年[注釈 2]、モンゴル部族のイェスゲイ・バアトルは長男のテムジンが9歳になったので、その嫁をもらうために母方のコンギラト部族オルクヌウト氏族のところへテムジンを連れて赴いた[6]。しかしその途中、チェクチェル山とチクルグゥ山の間でボスクル氏族のデイ・セチェンに出会った[7]。デイ・セチェンはテムジンを見るなり「この子は目に火あり、面に光ある子供ですね」と言い、自分の娘であるボルテを紹介すべく、ボスクル氏族へ案内した[8]。この時ボルテは10歳であった[注釈 3]。イェスゲイはボルテを見るなりすっかり気に入り、次の日には縁談をもちかけた[9]。デイ・セチェンは娘を嫁がせる条件としてテムジンをしばらくボスクル氏族に預けるよう要求したため、イェスゲイはその通りにした[9]。しかし、イェスゲイがその帰りにタタル部族に毒を盛られて死去したため、コンゴタン氏族のモンリクはイェスゲイの遺言通り、テムジンを連れ戻した[10]。そのため、ボルテとテムジンは離れ離れとなった[10]。

以上は『元朝秘史』に基づく逸話であるが、ペルシア語史料の『集史』では全く異なる記述がなされる[11]。『集史』コンギラト部族志によると、「テムジンはボルテと結婚したいとデイ・セチェンに訴えたが何度も拒絶され、テムジンと仲の良かったボルテの弟のアルチの尽力によりようやく結婚が許された」という[5]。若い頃のテムジンの勢力は弱小で苦労したことが知られており、『集史』の記述の方が史実に近いと考えられている[11]。

テムジンと結婚

その後、イェスゲイを失ったテムジン一家はモンゴル部族から追放され、苦汁の日々を過ごした[12]。ようやくテムジンも成長したころ(18歳ごろ[13])、テムジンはその弟ベルグテイを連れて久方ぶりにボルテのもとへ会いに行った[14]。デイ・セチェンは成長したテムジンを見て非常に喜び、二人を娶せて見送った[2]。ボルテの母チョタンはクレルグ山中のセングル小河のテムジンの家までボルテを送り届けて帰った[2]。しばらくして母チョタンが黒貂の皮衣を贈呈しにきた[13][注釈 4]。

シギ・クトクを養子にする

『集史』タタル部族志によると、1180年頃にテムジンがタタル族を略奪した時、チンギス・カンにはまだ子供がおらず、彼の第一カトンのボルテ・フジンは子供を欲しがっていた[15]。そこで、テムジンは道に捨てられていた子供をボルテの下に連れて行って「あなたはいつも子供を欲しがっていたのだから、この子を息子として育て見守りなさい」と述べ、ボルテも実の息子のように自分のそばで非常に大事に育てた[15]。このタタル部族の子供は長じてシギ・クトクと呼ばれ、チンギス・カンを「エチゲ(父)」、ボルテ・フジンを「ベリゲン・エケ」と呼んでいたという[15]。

『元朝秘史』ではシギ・クトクを拾ったのは1196年の戦いで、養子にしたのはチンギス・カンの母のホエルンとされるが、この場合シギ・クトクの年齢が不自然となるため、『集史』の語る通りボルテがシギ・クトクの養母になったものと考えられている[15]。

メルキトに誘拐される

テムジン一家がケルレン河の源のブルギ河岸にいた時、突然メルキト部族の襲撃を受け、ボルテと家政婦のゴアクチン婆やが連れ去られた[16]。テムジンは同盟者であるケレイト部族のトオリル・カンに助けを求め、それにジャダラン氏族のジャムカも加わってボルテ救出作戦が決行された[17]。テムジンらは夜襲をしかけ、メルキト部族長のトクトア・ベキとウアス氏族長のダイル・ウスンを取り逃したが、カアト氏族長のカアダイ・ダルマラ(Qa'adai Darmala)を捕らえ、ボルテとゴアクチン婆やを無事保護した[18][注釈 5]。

ジャムカと別れるよう勧める

その後テムジンとジャムカに亀裂が生じ、ジャムカがテムジンに別れを告げる際、「山に近寄りて下馬なば、われら馬飼いは厨房にありつかんぞ、渓谷に近寄りて下馬なば、われら羊飼い・子羊飼いは喉にありつかんぞ」という謎の言葉を残した[21]。テムジンがこの意味を母ホエルンに聞きに行った際、ボルテは間髪入れずに「ジャムカは飽きっぽい人と言われています。今私たちを飽きる時になったのです。只今のジャムカ・アンダの言った言葉は我々にとってたくらみのある言葉なのですよ。下馬しないことにしましょう。移営することできれいさっぱり別れ、夜を徹してでも移営してしまいましょう。」と言い、ジャムカと別れることをテムジンに推奨した[21]。

七コンゴタン事件

1206年2月、テムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物、旗鉾。纛。tuq〜tuγ)を打ち立てた[22]。この会議でモンリク・エチゲの子でカム(巫術師)であるココチュ(テプ・テングリ)の建議により、グル・カンやカンを凌駕する君主号として「強力なカン」を意味するチンギス・カンに即位すべきとしたため、テムジンはチンギス・カンに即位し(以降はチンギス・カンと表記)、大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)を建国した[22][23]。しかし、ココチュはこれ以降というもの権勢をふるい始め、彼ら7人の兄弟(七コンゴタン)はチンギス・カンの弟ジョチ・カサルを鞭打ったり、テムゲ・オッチギンの領民を奪ったりと、傍若無人な振る舞いをするようになった[24]。これらに対し、チンギス・カンが何も対処しなかったため、母ホエルンやボルテはチンギス・カンを強く叱りつけ、弟たちの受けた屈辱に涙した[25]。これでようやくチンギス・カンも動き出し、宴会の席でココチュを殺害することに決めた[26]。宴会にはモンリクをはじめその7人の子らが参列し、テムゲ・オッチギンはココチュと相撲を取るふりをしながら彼の背骨をへし折って殺害した[27][注釈 6]。ココチュの父モンリクはその場に居合わせていたが、すべてを覚り、ココチュの帽子を拾い上げると沈黙を守り、その後もチンギス・カンへの忠誠を怠らなかった[28]。

なお、この逸話についても『集史』は『元朝秘史』と細部の異なる記述をしており、ボルテがチンギス・カンの対応を泣いて悲しむ下りがなく、「チンギス・カンは、最高の聡明さによって、彼(ココチュ)がペテンであり偽善的であることに気がついた」と記されるに過ぎない[29]。また、チンギス・カンの命を受けてココチュを殺したのはテムゲ・オッチギンでなくジョチ・カサルとなっている[29]。

死亡時期

史料上ではボルテの死亡年について書いておらず、不明なところが多い。一説では1227年のチンギス・カンの死後すぐ摂政になったのはチンギス・カンの妻ボルテであったと推測されているが、ボルテは夫より先に亡くなったことは明らかである。拡大を続ける帝国にとって、統治者が不在の2年間は危険な政治的行動であった。そのため、チンギス・カンの末子トルイが、兄オゴデイが1229年に帝位に就くまで摂政に任命された。これはモンゴルにおける疑わしい末子相続の慣習に従ったものであった。モンゴル帝国の歴史における特定の時期において、モンゴル人の選挙制度によって生じた権力の空白は、しばしば女性によって埋められたことが分かる[30]。

クビライによる追諡

大元ウルスのクビライ・セチェン・カアンは至元3年(1266年)10月に「光献皇后」の諡号を贈り、至大2年(1309年)12月には「翼聖」を加えて「光献翼聖皇后」とした[31]。その冊文には次のように記されている[32]。

「祖先を尊び、誠心を尽くして孝を示すことは、まことに王道において第一に重んずべきことである。また、天地の法則にならい、偉大な名を定めることは、母后としての徳にもふさわしいことである。

そこで、まず太廟において謹んでこのことを行い、その功徳を後世の子孫に明らかに示す。

この至公の精神に則り、厚い恩恵をもって礼を整える。

敬って思うに、光献皇后は、心が深く静かで、徳は柔和にして美しかった。

聖なる君主が創業した初めにあって、朝夕、賢者を求めることを助けた。その功績は国家・社稷に及び、その慈愛と教えは景襄(その後の皇帝たち)にまで伝わった。また、その一族から皇室にめでたい縁が広がり、その美徳と名声は荘聖(皇室)にまで伝わった。

天子が龍のごとく天命を受けて興起する運を助け、永く子孫に幸福をもたらす計略を残した。

周の人々が文王の后・太姒を『思斉』として称え、その功績を周王朝興隆の根本にまで遡って評価したのと同じである。また漢代に初めて『光烈』という諡号を贈ったのも、祖先を厚く追慕する心によるものである。

そこで、古い礼制を調べてこれにならい、その遺徳をさらに顕彰することとする。

謹んで攝太尉某を遣わし、玉冊・玉宝を奉じて、尊諡を加え、光献翼聖皇后と申し上げる。

願わくは、その善なる霊がこれを受け、礼典がことごとく備わり、億万年にわたって大いなる皇統の繁栄を盛んにされんことを。」 — 『元史』巻114列伝第一(后妃一)

子女

男子

女子

コンギラト部デイ・セチェン家

登場作品

映画
テレビドラマ

脚注

参考資料

関連項目

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