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ギヨーム1世 (ノルマンディー公)

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長剣のギヨーム(仏語:Guillaume Longue-Épée・古ノルマン語(英語版):Williame de lon Espee・ラテン語:Willermus Longa Spata・古ノルド語:Vilhjálmr Langaspjót、900年頃 - 942年12月17日)とは、10世紀前半にノルマンディーを統治した2代目のノルマン人指導者である。ロロとポッパ・ド・バイユー(英語版)の息子である。セーヌのノルマン人の長(ヤール)およびルーアン伯(英語版)を務めた彼は、実質的に第2代ノルマンディー公と見なされているが、「公(dux)」という称号が一般的に用いられるようになったのは11世紀に入ってからのことである[1]。彼は在位中、ノルマンディー公としてではなく、ルーアン伯(count of Rouen)として知られていた[2][3]。9 - 10世紀のフランク人年代記作者フロドルド(英語版)はロロと彼の息子ギヨームの称号を一貫してノルマン人のプリンケプス(principes:首長。)と言及している[4]。また、ギヨームの渾名『長剣(Longsword)』も彼と同年代に記された文献には登場せず、初出は11世紀後半になってからである[5]。

ギヨームの死後まもなく綴られた『長剣のギヨームの哀歌』によれば、彼は海を越えた異郷の地において、キリスト教徒の母と未だ異教の徒であった父ロロの間に生を授かったという。父はその時、未だ後世のノルマンディーを統べるヤールの座にはなく、掠奪の地を求めて大海を彷徨う一介のヴァイキングの首領に過ぎなかった。

911年、サン=クレール=シュール=エプト条約が締結され、西フランク王シャルル3世によりロロがネウストリアの地に定着して以降、ギヨームはこの領土の正当な後継者として立てられた。927年頃、ドゥド・ド・サン=カンタン(英語版)の記録によれば、ロロはもはや国政を執るに耐えぬ状態にあったとされる[6]。これを受け、ノルマン人とブリトン人による集会が開かれ、ギヨームがその後継者に推戴された。首領の座に就いたギヨームは、直ちにシャルル3世のもとへ参じて臣従を誓い、その庇護を得た。

セーヌ・ノルマン人の新たなヤール(Jarl/伯)となったギヨームの真の姿を詳らかにすることは容易ではない。主要な史料であるドゥド・ド・サン=カンタンの叙述は、多分に聖人伝的な潤色を帯びる傾向にあるためである。しかし、父とは対照的にギヨームが敬虔なキリスト教徒であったことは論を俟たない。935年以降、彼はヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘リュトガルドを正妃として迎えた。また、ギヨームはモン・サン=ミシェル(英語版)の聖歌隊席参事会員へ多大な寄進を行い、ジュミエージュ修道院(英語版)を再興した[7]。一時は同修道院への隠棲を志したほどであり、姉妹のアデール(フランス語版)に対し、サン=シプリアン・ド・ポワティエ修道院(英語版)から12名の修道士を招請するよう命じた[7]。

ギヨームの治世は、成立して間もないノルマンディーの支配を盤石なものへと昇華させた時代であった。ドゥードは、このヤールを平和と秩序の再建者として高く評価している。また、現代の史家リュシアン・ミュッセは、ギヨームを「ノルマンディーの成功における真の立役者」と形容した。ミュッセによれば、911年に創設された国家が、940年代に西方スカンディナヴィア世界を襲った全般的な危機を乗り越え得たのは、ギヨームがスカンディナヴィアの伝統をロマノ・フランクの体制に見事に接ぎ木した功績に帰せられるべきである[8]。

ギヨームとブルターニュ人

931年頃、ロワール・ヴァイキング(フランス語版)の占拠下にあったブルターニュの一部は、極めて不安定な情勢に揺れていた。ブルターニュ人がヴァイキングの占拠者に対し蜂起すると、ギヨームは(恐らくはロワール・ノルマン人の支援を得て)ブルターニュへの侵攻を開始した。ブルターニュの首領アラン(英語版)とジュエル・ベランジェ(英語版)は敗北を喫し、前者は海を渡ってイングランドへ亡命、後者はノルマン側との和解を余儀なくされた。

しかし、ギヨームの勝利がもたらした帰結は何であったか。ドゥード・ド・サン=カンタン(英語版)は、ギヨームが「ノルマン人とブルターニュ人の公」であったと繰り返し強調している。事実、モン・サン=ミシェル(英語版)からは、彼をブルターニュ公と記す硬貨が発見されている。また、このヤールの周囲にはしばしばブルターニュの首領たちの姿が見られた[9]。あたかもブルターニュがギヨームの支配領域に組み込まれたかのような様像を呈しているが、ミュッセはこれを征服による直接支配というよりは、ノルマンディーによるブルターニュへの保護権の確立であったと示唆している。

933年、ギヨームは国王ラウールに対し、「海辺に位置するブルターニュ人の地」を対象として臣従礼を行った。ここでいう「地」とはブルターニュ全土を指すものではない。当時の王権はもはや当該地域に何ら実効的な権利を有していなかったためである。歴史家たちは通常、この譲渡対象をコタンタンおよびアヴランシャン(英語版)であると解釈している[10][注 1]。これらの地域は、66年前の867年にコンピエーニュ条約(英語版)によってシャルル2世禿頭王からブルターニュ側へ割譲された土地であった。933年のこの合意により、ノルマンディーはその最終的な版図とほぼ重なる領域を手中に収めるに至った。

もっとも、カール=フェルディナント・ヴェルナー(英語版)はこの通説に対し、ルーアンの第2代ヤールがこれら西方の辺境地帯を実際に掌握していたという証拠は存在しないと警鐘を鳴らしている[11]。国王ラウール自身もこの地域の支配権を喪失していた以上、この譲渡は形式的なものに過ぎず、むしろコタンタンのヴァイキング植民地を武力で屈服させ、ヤールの臣従を通じて彼らを西フランク王国へと統合することをギヨームに促す意図があったと考えられる。

リウルフの反乱

934年頃、ギヨームはコタンタンおよびエヴルー伯(英語版)リウルフ(フランス語版)率いるノルマン人の大規模な叛乱に直面した[12][注 2]。この叛乱が具体的にどの地域から発生したかについては、依然として議論の余地がある。ジュミエージュのギヨーム(英語版)は「ノルマンディーの奥地」と記し[13]、12世紀の年代記作家オルデリック・ヴィタル(英語版)はリウルフがエヴレサンの出身であったと伝える一方、リュシアン・ミュッセは反乱軍が西方の地から進軍したと推測している[8]。叛徒らがヤールに突きつけた非難は、彼の(母方を介した)フランク的出自、およびあまりにフランク側に傾倒した政策に対するものであった。

リウルフは叛乱軍を率いてルーアンの城壁直下、モン・リブデに隣接する谷にまで進軍。数において勝る兵力を展開し、本陣を据えた。対するギヨームは、アンスレック(英語版))、ベルナール・ル・ダノワ(フランス語版)、およびベッサン伯ボトン・ド・ベッサン(フランス語版))ら一族・臣下とともに打って出、モン=ト=マラドと称される丘の上に陣を構えた。ギヨームはフランク風の装甲騎兵隊を主力に据え、機を逃さずコタンタン軍への猛攻を開始。これを蹂躙し、叛乱軍を壊滅せしめた[注 3]。

歴史家たちはこの事件について、ノルマンディー西部あるいは中部に拠点を置くヴァイキングらが、ルーアンのヤールの権威に服することを拒んだ抵抗の現れであると解釈している。換言すれば、この事象は、ロロの末裔によるノルマンディー支配が未だ不完全なものであったという仮説を裏付けるものといえる。リウルフは、ルーアンの支配から独立したヴァイキング首領たちの典型的な象徴として位置づけられている[14]。

ピキニーの謀略

942年、ピキニーの中洲におけるフランドル伯アルヌール1世とギヨーム・ロング=エペの会見、および後者の暗殺を描いた15世紀の縮絵。

ギヨームは、フランドル伯アルヌール1世、ヴェルマンドワ伯エルベール2世 (ヴェルマンドワ伯)、およびユーグ大公らとともに、西フランク王国の北部において主導的な役割を果たす有力諸侯の一群に属していた。彼らは時に同盟し、時に敵対しながら、国王を支持し、あるいはこれに抗した。

935年、ギヨームはヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘リュトガルド・ド・ヴェルマンドワ(英語版)とキリスト教式の婚礼を挙げた[15]。ドゥードによれば、936年にカロリング朝の王位請求者であるルイ4世が王座に復帰した際、ノルマン人の支援が決定的な役割を果たしたとされる。対照的に、940年には、ギヨームは国王およびフランドル伯アルヌールに対抗すべく、ユーグ大公およびエルベール2世の側に転じた。彼はルイ4世との合意が成立するまで、ランス(英語版)およびランの包囲戦において彼らを支援した。

ルーアン大聖堂の周歩道に安置されたギヨームの横臥像。

ノルマンディーとフランドル伯国(英語版)の関係は常に流動的であった。925年、ロロが未だヤールの座にあった頃、アルヌール1世はウーの要塞を奪取していた。しかし939年には、ギヨームとアルヌールは西フランク王に対抗すべく、東フランク国王オットー1世に対して共同で忠誠を誓った。938年から939年にかけて、フランドル伯(およびアルトワ伯(英語版))アルヌール1世により本拠地モントレイユ(英語版)を奪われたエルルアン・ド・モントレイユ(英語版)は、ギヨームに救援を求めた[16]。これに応じてノルマン軍が介入した。リシェ・ド・ランス(英語版)およびドゥードによれば、ルーアンのヤール自らもこの戦闘に参加したという。939年、モントレイユは奪還された。所領を回復したエルルアンは、ポンチュー(英語版)領主の立場において、ギヨームに忠誠(臣従礼)を誓った。これによりノルマン人はピカルディーの沿岸部を支配下に置き、フランドル勢力の南方進出を阻止するに至った。

このモントレイユを巡る紛争こそが、942年12月17日に起きたギヨームの悲劇的な最期を説明する一因かもしれない[15]。ノルマンディーの強大化を危惧する主要なフランク諸侯らが画策する中、ギヨームは和睦の交渉を口実として、アルヌール1世からピキニー(英語版)での会見に招かれた。ソンム川の中州において両諸侯の間で平和の誓約が交わされた直後、ギヨームは卑劣な罠に嵌められた。恐らくはアルヌール1世の命を受けたカンブレー伯(フランス語版)の息子ボードワンの手により、彼は暗殺されたのである。

ギヨームの忠臣たちがその遺体を回収した際、彼の手元からは一本の鍵が発見された。それは、修道士が纏う粗末な修道服(ビュール)(英語版)が納められた櫃を開くためのものであった。彼の墓所はルーアン大聖堂に安置されている。

家族と子女

脚注

参考文献

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