クリスティアン・ツィーゲ

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ラテン文字 Christian Ziege
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1972-02-01) 1972年2月1日(54歳)
出身地 西ベルリン
クリスティアン・ツィーゲ
名前
ラテン文字 Christian Ziege
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1972-02-01) 1972年2月1日(54歳)
出身地 西ベルリン
身長 186cm
体重 82kg
選手情報
ポジション DF / MF (LSB, LMF)
利き足 左足
ユース
1978-1981 西ドイツの旗 ズュトシュターンドイツ語版
1981-1985 西ドイツの旗 ルドウドイツ語版
1985-1990 西ドイツの旗 ヘルタ・ツェーレンドルフドイツ語版
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1997 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 185 (38)
1997-1999 イタリアの旗 ミラン 39 (4)
1999-2000 イングランドの旗 ミドルズブラ 29 (6)
2000-2001 イングランドの旗 リヴァプール 16 (1)
2001-2004 イングランドの旗 トッテナム 47 (7)
2004-2005 ドイツの旗 メンヒェングラートバッハ 13 (0)
1990-2005 通算 329 (56)
代表歴
1991-1993 ドイツの旗 ドイツ U-21 12 (3)
1992 ドイツの旗 ドイツ U-23 1 (0)
1993-2004 ドイツの旗 ドイツ 72 (9)
監督歴
2006-2007 ドイツの旗 メンヒェングラートバッハ U-17
2007-2008 ドイツの旗 メンヒェングラートバッハ (SD)
2008 ドイツの旗 メンヒェングラートバッハ(暫定)
2008 ドイツの旗 メンヒェングラートバッハ(アシスタントコーチ)
2010 ドイツの旗 ビーレフェルト
2011 ドイツの旗 ドイツ U-19
2011-2012 ドイツの旗 ドイツ U-18
2012-2013 ドイツの旗 ドイツ U-19
2013-2014 ドイツの旗 ドイツ U-18
2014-2015 ドイツの旗 ウンターハヒンク
2015-2017 スペインの旗 アトレティコ・バレアレス
2018 タイ王国の旗 ラーチャブリー
2019- オーストリアの旗 ピンツガウドイツ語版
1. 国内リーグ戦に限る。2020年10月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クリスティアン・ツィーゲChristian Ziege, 1972年2月1日 - )は、西ドイツ西ベルリン出身の元ドイツ代表サッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションは主に左サイドバック、左サイドハーフ

キャリア初期

1990年にFCバイエルン・ミュンヘンでトップデビューを飾り、豊富な運動量とドリブル突破で主力として活躍。2度のリーグ優勝に貢献した後、1997-98シーズンにセリエAACミランへ移籍。翌シーズンにはスクデット獲得を果たすものの、左サイドのポジションをアンドレス・グリエルミンピエトロに奪われ渡英する。

イングランド時代

1999-00シーズンにはミドルズブラFCでプレーし、クラブの年間最優秀選手に選出された[1]。2000年夏にリヴァプールFCと契約するが、この際の移籍金550万ポンドに関してミドルズブラが不服を申し立てる。最終的に高等法院からこの移籍は認められ[2]、2000年9月9日のマンチェスター・シティFC戦でスティーヴン・ジェラードとの交代でデビュー[3]2000-01シーズントレブルを経験した。

しかし膝の負傷やジェイミー・キャラガーの台頭によりレギュラーの座を掴めず[4]トッテナム・ホットスパーFCへ加入。キャプテンのソル・キャンベルアーセナルFCへのフリートランスファーで失ったグレン・ホドル監督率いるクラブの守備陣の一角を担った[5]

2002年3月14日、リヴァプール移籍の際に不正な交渉が行われたとして、同クラブに対し2万ポンド、自身へは1万ポンドの制裁金がリーグ委員会により科された[6]。同年12月26日のチャールトン・アスレティックFCでは後半アディショナルタイムに2枚目のイエローカードを受け退場となるが[7]、この試合では左大腿部を打撲していた。その日の夜に患部の状態が悪化したためクラブドクターに連絡すると、緊急搬送され外科手術が行われる[8]。術後には合併症も生じ一時は足の切断や生命の危機の可能性もあった[9]

母国復帰

2004年6月にボルシア・メンヒェングラートバッハと2年契約を締結し母国へ復帰[10]。しかし足首の故障により12月以降ピッチから離れ、2005年10月に現役引退を表明した[11]

代表経歴

1993年6月10日のブラジル戦でドイツ代表デビューを果たす。翌年のアメリカW杯は故障のため出場できなかったが、1996年のEURO1996初戦のチェコ戦ではウィングバックとして出場し得点を記録するなどドイツの優勝に貢献、1998年のフランスW杯EURO2000、2002年の日韓W杯などの国際大会にもそれぞれドイツ代表として名を連ね、2002年のワールドカップでは合計3つのアシストを決め[12]、準優勝を果たした。EURO2004においてもルディ・フェラー監督によりメンバーに選出された[13]

指導歴

現役引退後は指導者に転身し、2006年にボルシア・メンヒェングラートバッハのU-17チームで監督を務める。2007年3月には同クラブのスポーツディレクターに就任した[14]。2008年10月からはヨス・ルフカイ英語版監督の解任に伴い、暫定的に監督を2週間のみ務めている[15]。その後コーチに就任するが、2008年12月に同クラブを退団している[16]

2010年5月26日、アルミニア・ビーレフェルトの監督に就任した[17]。しかし開幕から8試合で1勝に終わり、11月6日のFCアウクスブルク戦に敗れると解任された[18]

2011年4月よりドイツ代表のU-19チームを率いる[19]。同年8月にはU-18でも指揮を執った[20]。2014年3月に契約が更新されないことが発表され、夏に満了となった[21]

2014年3月20日、SpVggウンターハヒンクに招聘され[22]、リーグ17位に浮上させ3部残留に導いた。翌シーズンもリーグ下位に推移する中、2015年3月25日に辞任することを表明した[23]

2015年11月30日、セグンダ・ディビシオンBCDアトレティコ・バレアレスの指揮官に就任[24]。2017年3月15日、成績不振により解任された[25]

2017年12月27日、タイ・リーグ1ラーチャブリーFCと契約する[26]。翌年2月23日、2試合を率いた段階でクラブとの合意に基づき退団した[27]

2019年4月29日、オーストリア・レギオナルリーガドイツ語版(3部相当)のFCピンツガウ・ザールフェルデンの指揮官に就任。同クラブでは息子のアレッサンドロがプレーしている[28]

人物

・日韓W杯では、頭をモヒカン刈りにして頭髪部分をドイツ国旗の3色(黒・赤・金)に染め上げ注目を集めたが、グループリーグ最終戦のカメルーン戦では坊主頭に変えていた。後のインタビューでは「ロナウドがより奇抜な髪型をしていたのは幸運だった」と語っている[29]。ちなみに、このW杯出場したトルコ代表ウミト・ダヴァラがツィーゲと同じモヒカン刈りにして、日本を破る決勝ゴールを挙げた選手として話題となった。

・子供の頃ACミランのファンであり,自身がACミラン入りするかどうかで父と1本のレモネードを賭けた。結果,25歳の時に彼は本当にミラン入りを果たし,その"賭け"に勝ち,夢を実現させた。

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 72試合 9得点(1993年-2004年)[30]
ドイツ代表国際Aマッチ
出場得点
199370
199400
199561
1996142
199770
199871
199943
200091
200190
200281
200300
200410
通算729

タイトル

脚注

外部リンク

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