Wikiwand AI

クリスティアン・ヴィエリ

イタリアのサッカー選手 From Wikipedia, the free encyclopedia

クリスティアン・ヴィエリChristian Vieri, 1973年7月12日 - )は、イタリアボローニャ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード

愛称 ボボ、重戦車
ラテン文字 Christian Vieri
生年月日 (1973-07-12) 1973年7月12日(53歳)
概要 クリスティアン・ヴィエリ, 名前 ...
クリスティアン・ヴィエリ
名前
愛称 ボボ、重戦車
ラテン文字 Christian Vieri
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
オーストラリアの旗 オーストラリア
生年月日 (1973-07-12) 1973年7月12日(53歳)
出身地 ボローニャ
身長 185cm
体重 84kg
選手情報
ポジション FW(CF)
利き足 左足
ユース
1987-1988 オーストラリアの旗 マルコーニ・スタリオンズ
1989-1990 イタリアの旗 サンタ・ルチーア
1989-1990 イタリアの旗 プラート
1990-1991 イタリアの旗 トリノ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1992 イタリアの旗 トリノ 7 (1)
1992-1993 イタリアの旗 ピサ 18 (2)
1993-1994 イタリアの旗 ラヴェンナ 32 (12)
1994-1995 イタリアの旗 ヴェネツィア 29 (11)
1995-1996 イタリアの旗 アタランタ 21 (9)
1996-1997 イタリアの旗 ユヴェントス 23 (8)
1997-1998 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 24 (24)
1998-1999 イタリアの旗 ラツィオ 22 (12)
1999-2005 イタリアの旗 インテル・ミラノ 143 (103)
2005-2006 イタリアの旗 ミラン 8 (1)
2006 モナコの旗 モナコ 7 (3)
2006 イタリアの旗 サンプドリア 0 (0)
2006-2007 イタリアの旗 アタランタ 7 (2)
2007-2008 イタリアの旗 フィオレンティーナ 26 (6)
2008-2009 イタリアの旗 アタランタ 9 (2)
通算 374 (194)
代表歴
1992-1996  イタリア U-21 22 (11)
1997-2006[1] イタリアの旗 イタリア 49 (23)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
閉じる

国際サッカー連盟 (FIFA) の創設100周年を記念してペレが選んだFIFA 100の存命125選手の一人[2]

生い立ち

1973年7月12日、イタリアボローニャ[3]、イタリア・セリエAでプレーしたサッカー選手の父ロベルト・ヴィエリとフランス人母の間に生まれた。3歳の時にシドニーに渡り、少年時代はオーストラリアで育った。サッカーをする直前までラグビーをしていた事で有名だが、本人によると、ラグビーはあまりした事がなく、陸上競技水泳で体を鍛えていた。サッカー以外にもクリケットが好きで、2003年当時のインタビューでは「もし(現時点でのサッカー選手としての契約と)同内容の契約が提示されるのであれば今すぐサッカー選手を辞めてクリケット選手になる」とまで語ったことがある[4][5]アトレティコ・マドリードに移籍した際に、地元の新聞「マルカ」に憧れの選手はオーストラリア人クリケット選手アラン・ボーダー (Allan Border) だと語ったところ、スペインのファンはインターネット検索することになった[6]

弟のマッシミリアーノ(マックス)・ヴィエリも元オーストラリア代表のサッカー選手。また、祖父も戦前のセリエBGKとしてプレーした経歴を持ち、突如イタリア行きを宣言したクリスティアンに父親は無理だと断言したが、この祖父がイタリア挑戦を勧めたというエピソードが残っている。

クラブ経歴

デビューはセリエC1プラート。そのシーズンの90年2月、後に900億リラの移籍金で加入する事となるインテルが獲得しようとしていたが実現ならず、シーズン終了後にエミリアーノ・モンドニコ率いるトリノと契約(トリノ移籍はモンドニコが獲得を考えていたためであった)。しかし、トリノはFWを必要としておらずジョルジョ・ブレッシャーニ英語版ワルテル・カーザグランデの控えとしての役回りをする機会が殆どとなる。その後様々なクラブを転々としながら徐々に頭角を現していき、1996-97シーズンにはユヴェントスに移籍し、デル・ピエロとともにこれからのユヴェントスを支えていく若手期待の星として活躍し始めた。このままユヴェントスで順調にキャリアを重ねていくと思いきや、翌1997-98シーズンにはスペインアトレティコ・マドリードに移籍し、リーガ・エスパニョーラ初参戦にして24試合24得点という成績を残し、得点王を獲得。「リーガは生ぬるい」と発言し、翌シーズンには自身の故郷のラツィオに移籍、セリエAへ復帰した。

1998-99シーズン、ラツィオで圧倒的な存在感を示した後、1999年に3,200万ポンドの移籍金(当時の移籍金史上最高額)でインテルに移籍した。1999年から2005年にかけてインテルに所属し最盛期を迎える。2002-03シーズンには23試合で24得点と出場試合数を上回る得点を記録し、得点王を獲得するもリーグ戦は2位に終わった。インテル在籍の晩年にはプレイに衰えが見られるようになり、古傷や故障も重なって思うようなプレイが出来ず、また若手FWのアドリアーノの台頭もあり出場機会が減っていった。2004-05シーズンを最後にインテルとの契約期間満了後は自由契約となった。2005-06シーズンはACミランへ移籍。しかしシェフチェンコインザーギジラルディーノ擁する強力FW陣とのレギュラー争いに敗れ出場機会が得られず、半年後の2006年1月にはASモナコへ完全移籍することとなった。しかしシーズン終了後わずか半年でセリエA・サンプドリアへの移籍が決定するも、サッカーに対する情熱(モチベーション)が保てないとして現役引退を仄めかしていた。この間、イタリアの人気番組「L'isola dei famosi」に出演予定など様々な噂が流れたが、移籍期限ギリギリの8月29日(現地時間)に古巣アタランタへの復帰が決まった。

契約金は約22万円とプロ最低賃金での契約であるが、1ゴールごとにオプション契約として1000万円が支払われることになった。アタランタではACシエーナ戦でセンターサークル少し前から決めたロングシュートこそあったものの、それを含め7試合での補欠出場、2得点のみに終わった。2006-07シーズン終了後、1年間の契約期間が切れたアタランタからフィオレンティーナへ移籍[7]

2007-08シーズン第19節のトリノFC戦で先制点となるPKを決め、自身通算200得点を達成した。2008年、3度目のアタランタ入団を果たすも、サポーターとのいざこざが絶えず、シーズン終了前に契約解除となった[8]

2009年、イングランド・プレミアリーグのブラックバーン・ローヴァーズFCの練習に参加していたが途中で帰国した。

2009年10月22日、現役引退を表明した[9]

現役引退後は、指導者には転身しないことを明言しており、プロのポーカー選手になることを表明したが、後に断念。その後はアパレルブランドの経営に専念しつつ、2018年からはDJとしても活動している。

代表経歴

1997年3月29日のモルドバ戦で代表デビュー。ワールドカップには2度出場し、フランスW杯で5試合5得点、日韓W杯で4試合4得点といずれもエースとして活躍したが、チームはフランスW杯ではベスト8、日韓W杯ではベスト16止まりであった。ドイツW杯では自身3度目のW杯を目指していたが、怪我の影響で選考には残らなかった[10]

私生活・性格

若き日には、エリザベッタ・カナーリス英語版メリッサ・サッタ英語版といった数多くのモデルと浮名を流し、「ラテンの恋人」と呼ばれることもあった[11]。2017年夏からイタリア人モデルのコスタンツァ・カラッチョロと交際、同年には懐妊が報じられたが、ヴィエリは流産したことを明かした。翌2018年に第一子となる娘・ステッラが誕生。

寡黙で気難しく記者泣かせの選手といわれていた。インテル時代、サポーターを挑発、小馬鹿にするパフォーマンスを繰り返したためファンの怒りを買い自身経営の店舗を犯行声明つきの爆破テロで破壊されていた。尚、その声明文は「ヴィエリよ。我々サポーターを舐めるのもいい加減にせよ」とのものであった。

ユヴェントス時代はジネディーヌ・ジダンと特に親密だった。ユヴェントスに移籍当初、環境の変化に馴染めずにスランプ気味だったジダンを実家に招待し、母親のフランス家庭料理でもてなした事がきっかけ。フィリッポ・インザーギとは極めて仲が良く(毎日電話で連絡を取り合うほど)互いに親友であることを公言していたが、一時同じ女性に好意を抱いた時期がありその後しばらくは不仲となった。自身のファッション・ブランドSweet Yearsを所有し[12]、イタリア代表とミランでチームメートだったパオロ・マルディーニと経営している。

ユヴェントスのファンである[13]

個人成績

[14][15][16]

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1989-90プラート00
1990-91トリノ00
1991-92トリノ61
1992-93ピサ182
1993-94ラヴェンナ3212
1994-95ヴェネツィア2911
1995-96アタランタ197
1996-97ユヴェントス15238
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1997-98アトレティコ・マドリード92424
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1998-99ラツィオ322212
1999-00インテル321913
2000-01インテル322718
2001-02インテル322522
2002-03インテル322324
2003-04インテル322213
2004-05インテル322713
2005-06ACミラン3281
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
2005-06ASモナコ3673
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2006-07アタランタ1772
2007-08フィオレンティーナ32163
2008-09アタランタ3292
通算イタリア 333164
スペイン 2424
フランス 73
総通算 364191
閉じる

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 49試合 23得点(1997年-2005年)[17]
さらに見る イタリア代表, 国際Aマッチ ...
イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
199772
199876
199952
200010
200120
200285
200364
200473
200561
通算4923
閉じる

得点

さらに見る #, 開催年月日 ...
#開催年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
1.1997年3月29日イタリアの旗 トリエステスタディオ・ネレオ・ロッコ モルドバ2–03–01998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
2.1997年10月29日ロシアの旗 モスクワディナモ・スタジアム ロシア0–11–11998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選プレーオフ
3.1998年6月11日フランスの旗 ボルドーパルク・レスキュール チリ1–02–21998 FIFAワールドカップ
4.1998年6月17日フランスの旗 モンペリエスタッド・ドゥ・ラ・モッソン カメルーン2–03–0
5.3–0
6.1998年6月23日フランスの旗 サン=ドニスタッド・ド・フランス オーストリア1–02–1
7.1998年6月27日フランスの旗 マルセイユスタッド・ヴェロドローム ノルウェー1–01–0
8.1998年9月5日イングランドの旗 リヴァプールアンフィールド ウェールズ0–20–2UEFA EURO 2000予選
9.1999年6月5日イタリアの旗 ボローニャスタディオ・レナート・ダッラーラ ウェールズ1–04–0
10.1999年9月8日イタリアの旗 ナポリスタディオ・サン・パオロ デンマーク2–02–3
11.2002年6月3日日本の旗 札幌市札幌ドーム エクアドル1–02–02002 FIFAワールドカップ
12.2–0
13.2002年6月8日日本の旗 鹿嶋市カシマサッカースタジアム クロアチア1–01–2
14.2002年6月18日大韓民国の旗 大田大田ワールドカップ競技場 韓国0–12–1
15.2002年11月20日イタリアの旗 ペスカーラスタディオ・アドリアティコ トルコ1–11–1親善試合
16.2003年3月29日イタリアの旗 パレルモスタディオ・レンツォ・バルベラ フィンランド1–02–0UEFA EURO 2004予選
17.3–0
18.2003年8月20日ドイツの旗 シュトゥットガルトゴットリープ・ダイムラー・シュタディオン ドイツ0–10–1親善試合
19.2003年10月11日イタリアの旗 レッジョ・ディ・カラブリアスタディオ・オレステ・グラニッロ アゼルバイジャン2–04–0UEFA EURO 2004予選
20.2004年2月18日イタリアの旗 パレルモ、スタディオ・レンツォ・バルベラ チェコ1–02–2親善試合
21.2004年3月31日ポルトガルの旗 ブラガエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ ポルトガル1–11–2
22.2004年4月28日イタリアの旗 ジェノヴァスタディオ・ルイジ・フェッラーリス スペイン1–11–1
23.2005年10月12日イタリアの旗 レッチェスタディオ・ヴィア・デル・マーレ モルドバ1–02–12006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
閉じる

受賞・獲得タイトル

クラブ

トリノ
ユヴェントス
ラツィオ
インテル

代表

個人

脚注

外部リンク

Related Articles